影の子ども

あの漆黒の執事ならもう気づいているのかしら。
いつも「私のシエル」の傍にいるあの男なら──。

──アン。アンジェリーナ!
嗚呼、姉さんの声がする。私を呼ぶ姉さんの明るい声。美しくほがらかな笑顔が浮かぶ。
でも姉さんは私から、二つのものを奪ったのよ。
ひとつはあの人──ヴィンセント・ファントムハイヴ、そしてもうひとつは──愛する「シエル」。

姉さんがあの人と結婚し、あの人との子どもを産んだ後、私は苦手だった社交界で、苦手だった男たちと遊ぶようになった。
恋の手管など何も知らない愚かな娘だった。
弄ばれるようにして、たくさんの男たちとつきあって、気づいたら誰かの子どもを孕んでいた。堕ろすには遅過ぎることは、すぐにわかった。

貴族の娘が相手のわからない子を孕む。
そのことが何を意味するかわからないほど世間知らずではない。
社交界のいい笑いものだ。
家名は傷つき、両親も、そして名門伯爵家に嫁ぎ、第一子を出産したばかりの姉さんも、非難の的になる。

──秘密にしなければ。

イーストエンドに部屋を借り、誰にも気づかれぬうちにこっそり出産した。
産まれたその子は男の子だった。
赤毛ではなく、蒼銀色だった。蒼い瞳だった。

私はその子に「シエル」と名付けた。
シエル、シエル、シエル。
姉さんとあの人の子どもと同じ名前。同じ髪の色。同じ目の色。
私の子ども。誰も知らない、私だけの子ども。私だけの──シエル。

けれど、隠しおおせるものではない。
隠れ家のことは使用人に知れ、赤子の存在はやがて両親の知るところになった。
里子に出せと言われたけれど、赤の他人の手に渡すのは嫌だった。
いっそこの手でくびり殺してしまおうか。
そして私も逝ってしまおうか、この子と一緒に……。

途方にくれていた私に救いの手を伸ばしてくれたのは、あの人だった。
「アンの子どもなら、うちで育てるよ」
──ただし、彼らのシエルの、影の子どもとして。

それでもいいと思った。
あの人の家に、私の子がいる。
それはなにかの救いになるかもしれない、とそのときは思った。

けれど。

それは救いではなく、呪いになった。
私が母親だということは決して言わないようにと約束させられた。
私のシエルは、自分がどこかの孤児院で産まれ、ファントムハイヴ家のシエルの影となるべき子どもとして、引き取られたのだと思い込まされた。
事情を知っているのは、姉さんとあの人──そしてタナカだけ。

私の地獄は終わらず、むしろ一層酷い地獄の底に堕ち、私を苦しめた。
私の子は彼らに利用されている。
私の子は彼らに愛されている。
私の子は、私が母だと知らない……。

「彼らのシエル」と一歳年下の「私のシエル」は、育つにつれて区別がつかないぐらい、お互いよく似てきた。
「どっちがどっちなのかわからないわよね、アン。双子みたい」と姉さんは言ったけれど、私にはすぐにわかる。
私の子はからだが弱い。私の子は喘息の発作がある。
私のシエルは、姉さんのシエルよりも気が弱くて、やさしくて、儚くて……。

私のたったひとりの子どもは、いるけれど、いない。
ファントムハイヴ家の影の子どもだから。
「私のシエル」は「彼らのシエル」のスペアになった。

***

……やがて私は夜会で知り合った、穏やかでやさしい男と結婚した。
そしてまた子どもを孕んだ。
嬉しかった。
今度は、私の子として、堂々と育てられる。この男と一緒に、暖かい家庭を築ける。
姉さんとあの人の家庭よりも、もっと暖かい、暖かくて幸せな家庭を──。
だけど、それも突然の事故で奪われた。夫も、二人目の子どもも、私の子宮も。

なぜ? どうして?
どうして私がこんな目に遭わなければならないの?
どんな悪いことをしたというの?
憎い、憎い、憎い! 神が、運命が、姉さんが……憎い!
そうして私は殺し始めた、女たちを。

──雨が、冷たい。

嗚呼、グレルのデスサイズの唸る音が聴こえる。
グレル、ごめんなさい。私にはやっぱりこの子は殺せない。

「この子は私のッ……」

その先を告げる前に、私はグレルに息の根を止められて、私のシエルに真実を告げられなかった。
薄汚い路地の奥。こんなところで私は最期を迎えるのね。

***

シエル。あんたは私の子なのよ。
姉さんとあの人の子どもによく似てしまった、私の子ども。

あんたが、あの漆黒の執事と還ってきたとき、ひと目で「私のシエル」だとわかったわ。
「彼らのシエル」じゃない。「私のシエル」だってね。
だから、あんたがファントムハイヴを継ぐ決心をしていることをどうにかして止めたかった。
だって、あんたはファントムハイヴ家となんの血のつながりもない人間なんだもの。
あんたは私の大切な子どもなんだもの。
女王の番犬なんてやめて、私と一緒に暮らしましょうよ。

何度そう言おうとしたことか。
でも言おうとするたびに、姉さんの声が脳裏に蘇る。

──アン。アン。アンジェリーナ!
言ってはいけない。言っては駄目。約束したでしょう。決して言わないと──。
嗚呼、姉さん。姉さんは酷い。姉さんは残酷だ。

ねえ、シエル。
あんたの傍にいる悪魔はそのことを知っているのでしょう?
あんたが本当のシエル・ファントムハイヴではないことを……。
辛いわねえ。
あんたもきつい道を選んだものだわ。
けれど、あんたがそうしたいのなら、そうすればいい。
もう私には何もできないもの。
私の子が苦しみ、血にまみれながら、己の決めた道を進む姿を、ただ見ることしかできないのだもの。

……ねえ、もしかして、あんたがその苦しみに耐えていられるのは、傍らの悪魔のおかげなの?
私がグレルに支えられたように、あんたはセバスチャンに支えられているのかしら……。
そうだとしたら──少しはあんたの苦しみが和らぐといいわね。

嗚呼、思い出すわ。
あんたとチェスをした夜。道をはぐれないようにあんたの執事に頼んだ夜を。

──「セバスチャン。どこの誰とも知れないあんたに頼むのもオカシイけれど、どうかあの子の傍を離れないで頂戴。あの子が道をはずれて独りで迷ってしまうことがないように」
「ええ…必ず最期までお傍でお護りします」──

あのときは、優秀な執事がまさか悪魔だなんて思わなかったけれど、でも傍らに誰もいないよりはいいわ。
あの悪魔と共に修羅の道を、歩いていきなさい。

シエル。
愛しているわ。
いるけれど、いない、私の子ども。

私の──シエル。

fin