輝く月の夜に 番外篇

雨の日は温かく抱きしめて

目を覚ました。
 薄暗い。まだ朝ではないのか。枕元の時計を片手で掴み、時刻を確認する。午前9時過ぎ。
───いけない、寝過ごしてしまった……!
 細かい水滴が窓ガラスにびっしりと張り付いて、光を遮っている。この街には珍しく数日続いて、雨が降っていた。
 セバスチャン・ミカエリスは、傍らで眠る少年の肩からそっと腕を抜いた。
「ん……」
 かすかな動きに少年が気付いてしまったようだ。身をかがめて、温かい頬に軽くキスをする。
「シエル、まだ眠っていてください。私は出掛けます」
「……う」
 起きていない。
 無理もないとセバスチャンは思った。このところ複数の仕事の締め切りが重なって、徹夜が続いていた。セバスチャンの仕事を手伝っていたシエルも寝不足気味なのだ。音を立てないように身支度を整えていると、ベッドの中からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「寝癖、ついてる……よ……」
 寝ぼけまなこのシエルが布団から手を出して、セバスチャンの髪を指差している。苦笑いして、跳ねる髪を押さえた。シエルの笑顔に引き寄せられるように顔を近づけて、唇を重ねる。 嗚呼、こんなことをしていたら本当に遅れてしまう。名残惜しく、シエルの濡れた唇を指先でなぞって身を離し、足元の書類鞄をつかんだ。寝言なのだろうか、目を瞑ったまま、シエルが何か呟いている。
「セバスチャン、きょ……ぅ」
「……? では、シエル、行ってきます」
  再び眠りに落ちてしまった少年にもう一度キスをして、マンションを出た。細かい雨が降りかかる。この分では道路はひどく混雑しているだろう。車をあきらめて、地下鉄の駅に急いだ。

  両親を飛行機事故で亡くしたシエル・ファントムハイヴが、セバスチャンのもとに引き取られたのは半年前のこと。ふたりは暮らすうちに恋に落ち、互いに相手を運命の人と確信して、つい先月、婚約したばかりだった。シエルの薬指には、セバスチャンが贈った婚約指輪が輝いている。あと2年と少し。シエルが16歳になったら、正式にふたりは結婚するのだ。
 少年が来て以来、セバスチャンの仕事は好調の波に乗っていた。デザインする媒体はさまざまだったが、どれも名のあるものばかり。いまや業界では知らないものはいないほど、彼は有名になりつつあった。
 今日は外部参加している広告プロジェクトの初ミーティングが行なわれる。午後には全米タイポグラフィー協会の会議もあり、一日中出先で過ごす。在宅で仕事をするセバスチャンにとって、稀な外出日だった。

***
 長い会議からようやく解放されたときには、もう夕方だった。退社時刻なのか、傘を差したスーツ姿の会社員が高層ビルから続々と出て来る。早く帰ろう。シエルが待っている。黒いコ ートの衿を立て、足早に駅へと向かった。
「ミカエリスさん……?」
 後ろから声をかけられて振り返ると、よく知った顔だった。
「おひさしぶりです。最近のご活躍は凄いですね」
 笑顔で話しかける男は、駆け出しのときに世話になった編集者だ。デザイナーとしてデビューが遅かったセバスチャンは、自分よりも年下の編集者とつき合うことが多い。彼もそのうちのひとりだった。最近、彼とは仕事をする機会がなかったので、偶然の再会にセバスチャンは喜んだ。
「随分ご無沙汰しています。お元気でしたか」
「ええ。実は僕、異動になることになりまして。編集部を離れるんですよ」
 これから社で異動の挨拶を兼ねた送別会があるんです、ミカエリスさんもぜひいらしてくださいませんかと誘われた。早く我が家に帰りたかったが、昔なじみの誘いは断りきれない。 セバスチャンはシエルに電話をかけた。

「セバスチャン?! いまどこ?」嬉しそうに声が弾んでいる。
「まだ出版社の近くなのです。これから知り合いの送別会に顔を出すので、帰りが遅くなりま
す」
「送別会?」
「ええ、そうなんです」
「……そう」
「ごめんなさい、シエル。夕食はひとりで先に済ませてください」
「え」
「なにか作り置きが冷蔵庫にあったと思うので……」
 プツっと音がして、通話を切られてしまった。
「……シエル?」
 携帯を耳に当てたまま、セバスチャンはあっけにとられていた。会話の途中で切るなんて、いままで一度もなかった。何か悪いことを言っただろうか。いまの会話を反芻する。いや、傷つけるようなことは何も言っていない。なぜ……。
「どうかしましたか?」
 隣で編集者がけげんな顔をしている。
「いえ、なんでもありません」
 セバスチャンは平静を装い、携帯をポケットに仕舞い込んだ。

 送別会は出版社の小会議室を即席の会場にして行なわれていた。
 異動の挨拶が終われば、あとは仲間同士のフランクなお喋りの場に転じる。セバスチャンが13歳の少年と婚約したばかりという話は皆の格好の話題で、冷やかされるやら、心配されるやら、わずらわしいことこの上ない。そろそろ退席しようかとタイミングを見計らっていると、肩を乱暴につかまれた。
「相手、13歳スか?うーわっ! そりゃ、無理っス。続かないっしょ」
 ワインがたっぷり入ったプラスチックのカップを片手に、酔いが回った若手編集者の言葉は遠慮がなかった。前髪をくるっと立ち上げ、派手な眼鏡が印象的な青年だ。回りがうろたえて止めようとしても、酔った若者の暴言は止まらない。
「ミカエリス先輩、相手は子どもっス。いまは先輩のことが好きで好きでたまらなくても、そのうちあっさり同じ年頃の子に乗り換えちゃいますよ~。今日は好きでも明日は嫌い、なんて ね。イマドキの子は、気まぐれなもんっス」
「……私は貴方の先輩ではありません」
「先輩なんて、すぐに飽きられちゃいますって。子どもなんて、そんなもんっしょ」
 こらこらと周囲が若者の口を押さえて、セバスチャンから引き離す。無表情に酔っぱらいをやり過ごしたものの、不吉な言葉にセバスチャンは動揺していた。
───子ども。気まぐれ。
 さきほどの出来事を思い出した。
 あれはシエルが子どもだから? ただの気まぐれなのだろうか。
 そんなことはないと心の中で否定する。シエルは年齢よりも大人びている。どちらかといえば、同年齢の子どもたちとはあまり気が合わないほうだ。
 彼の言う事は一般論に過ぎない。そう自分を納得させようとしても、一度、芽生えてしまった不安はおさまらない。
「私に飽きる……?」
 セバスチャンは次から次へと沸き起こる嫌な想像を振り払うように、不味いワインを何度も口に運んだ。

***
 引き留められて、自宅のあるマンションの前でタクシーを降りたときには、もう11時を回っていた。顔が濡れるのも構わず、雨に煙る建物を見上げる。その6階に、灯りはない。
「眠ってしまいましたか……」
 自分の帰りを待っていてくれるのではと、淡い期待を抱いていたセバスチャンは小さくため息をついた。エレベーターのボタンを雑に押し、壁に寄り掛かった。
 やはりまだ子どもなのだ。こちらの気持ちを察することができる年齢ではない。
 シエルが成長するまで、まだいくらもこんな思いをする夜があるのだろう。セバスチャンは酔いでふらつく足をひきずり、部屋の鍵を開けた。手探りで廊下を進み、真っ暗なキッチンに入る。途端に、パッと灯りがついた。眩しさに思わず目を細める。

「happy birthday」

 テーブルの向こうにシエルが立っている。手前に朱塗りの重箱とお銚子が並べられていた。
「……え?」
「セバスチャン、誕生日……だろ?」
 シエルがぼそっと言った。
「……!」
「今日は、貴方の誕生日じゃないの?」
 セバスチャンは日付を思い起こした。確かにそうだ。
「そう、でした。なぜそれを?」
「ゆうべ、鞄の中に免許証を見つけて……」と、シエルは素っ気なく答える。
 誕生日のことなどすっかり忘れていた。
 ひとり暮らしが長かったセバスチャンには、自分の誕生日を祝うという習慣がなくなっていたのだ。仕事仲間にも誕生日を知っている人間などいない。ひさしぶりに聞いたhappy birthdayの言葉に、セバスチャンの胸の内がじわりと温かくなった。
「シエル、ありがとうございます」
 少年を抱きしめようと近づいた。が、顔を背けて、すっとシエルは後ろに下がった。
「シエル……?」
「もう……誰かと祝ってきた?」
「!」
「だとしても、別に構わない。貴方には貴方のつきあいがあるんだし」
「シエル……」
 シエルはじっと壁の一点を見つめている。
「僕、ひとりで勝手に、今夜、貴方が戻ったら、一緒に祝おうって……」
「シエル」
「ごめん。なに言ってるんだろ、僕。……もう、いい」
  自分に嫌気が差したように言葉を途中で切ると、テーブルの上の重箱を取り上げて、片付けようとしている。その手を上からそっと押さえた。
「今日、誰にも祝ってもらっていません。誰も私の誕生日なんて知りません。私自身、忘れていたぐらいなのですから」
「……」
「謝るのは私のほうです。せっかく用意してくれたのに、知らずに、夕食はひとりで済ませてなどと言って、本当にごめんなさい」
 シエルはためらいがちに顔を上げた。
「じゃあ……じゃあ、いまからお祝いする……?」
「もちろんです」

 シエルは急いで食卓を整え始めた。
 オーブンの扉を開け、大きな焼き魚を取り出す。白い大ぶりの皿に盛って、上にレモンの皮の千切りを綺麗に飾った。
「メインの鯛だよ。祝い事のときに、まるごと食べるんだって」
  それからね、とテーブルの上の重箱の蓋を取って、セバスチャンに中を見せる。
「これが黒豆、これは里芋の煮物、栗きんとんに、伊達巻き? 小魚のキャラメル煮みたいのは田作り……。ドクター・タナカに、お祝い用の日本料理作りたいっていったら、教えてくれたんだ。『おせち料理』っていうんだって」
  セバスチャンは首を傾げた。
「あの、シエル、おせちは新年を迎えるときに食べるものでは……?」
「ええっ?! そうなのか? もぅっ、やだな、ドクターは!! ごめん、セバスチャン」
「いえ、それより……」
  セバスチャンはシエルの作った料理に見入っていた。
「ひとりでこんなに作るのは大変だったでしょう? 疲れたでしょう?」
 蒼と紫の瞳が瞬いた。少し間を置いて、こくんとうなずく。
「……シエル、本当にごめんなさい」
 少年は首を横に振る。
「いいんだ」
  セバスチャンの背に腕を回す。
「貴方に喜んでもらえれば、それでいいんだ」
 胸に頬を寄せ、柔らかいからだをぴたりとくっつける。
───人の言葉に惑わされるなんて、私は愚かだ。彼はこんなにも私を想っているのに……。
「う、酒臭い……」
 もぞもぞとシエルは腕の間から顔を出し、鼻をしかめた。
「すみません。今夜は少し飲み過ぎてしまいました」
「貴方でも、そんなことがあるんだ」
「シエルに電話を切られて、ショックだったんです。何が気に障ったのかと」
  少年は気まずそうに目を伏せる。
「だって、まさか自分の誕生日を忘れてるなんて思わなくて。てっきり、黙って、僕じゃない、他の人たちと、祝うのか……って」
「そんな。覚えていたら、ちゃんとシエルに話します」
「……うん」
「貴方に嘘は吐かないと、言ったでしょう?」
「……わかってる。わかってるけど……不安……で」
「不安?」
「僕と出会う前の貴方の生活を、僕は知らない。貴方が毎年、誕生日を、誰とどんな風に過ごしてきたか、僕は知らないんだ。そう思ったら……」  
 心細げなその背中を思わず強く抱きしめた。
───嗚呼、私たちは、似た者同士だ。ささいなことで心が揺れて、不安になって。互いに相手を知りたくて、確かめたくて。
「……シエル」
 セバスチャンはシエルの髪を撫で、耳朶を唇で軽く挟んだ。腕の中の小さなからだがぴくりと震える。
「セバ……スチャン、ごはん、食べよ…… ?」
 シエルが困っている。その顔を手のひらで包み込み、蒼と紫の瞳を覗き込む。
「私はいま、シエルを食べたいのですが……」
「~~~~ッ」
 かあっと少年の頬が朱に染まった。
「……嫌ですか?」
 シエルは黙ってセバスチャンの厚い胸に顔を埋めた。細い指がきゅっとシャツを握る。
「いいよ……」
 かすかな声が返って来た。

***
 シエルが拵えた誕生日のご馳走は、翌朝の豪華な朝食になった。温め直した鯛は身をほぐして混ぜご飯に仕立て、季節はずれのおせち料理で、ふたりは一日遅れの誕生日を祝う。
「なかなか、腕を上げましたね、シエル」
「そう? ならよかった。毎週ドクターに習っている甲斐がある」
 器用に箸を使いながら、もぐもぐと口を動かしている。
 そんなときのシエルは、まだ幼さを残していて、愛らしい。けれど、夜は───。
 セバスチャンの脳裏に一瞬、昨夜、自分の腕に抱かれてあえぐシエルの姿がよぎった。
「セバスチャン……いま、ヤらしい顔、した」
「えっ! いえ?」
  図星を指されて狼狽えたセバスチャンを見て、くつくつとシエルは楽しそうに笑う。
「ええと……さて、今日はなにをして過ごしましょうか?」
 ひさしぶりの休日だ。雨はまだ降り続いているが、空が明るくなっている。まもなく止むだろう。
「セバスチャンの誕生日祝いだから……」
 シエルは考えている。次の瞬間、顔が明るく輝いた。
「……僕の好きなところへ行こう!」
「え?」
 セバスチャンは聞き返した。
「だから、僕の好きなところへ行く」
「あの、普通は、誕生日の人の行きたいところへ……となるのではないですか?」
「僕たちは、違うルールなんだ」
 シエルは悪戯っぽくセバスチャンを見る。片眉を上げて、クスっとセバスチャンは小さく笑った。シエルがそうしたいというなら、それでいい。

「では。どこへ行きましょうか?」

FIN