輝く月の夜に 第二話

訴訟

──「シエル君に暴力をふるわれた、訴えると保護者から連絡がありまして……」
 夜遅く、電話の向こうで担当教師がそう告げた。騒いでいるのはシエルに暴行を加えた三人のうちの一人の親らしい。大方、シエルが抵抗したときにつけた傷だろうと察したセバスチャンは、被害にあったのはむしろこちらで、証拠の記録があることを伝え、通話を切った。やはり来たなとセバスチャンは思った。陰湿ないじめを1ヶ月も続けるような子どもたちだ。その親だってわかったものではない。被害者のこちらを加害者と言い張り、謝罪のみならず下手をすれば賠償目当ての訴訟になることは目に見えていた。

 この国は訴訟の国である。
 交通事故が起これば救急車よりも弁護士のほうが先に到着すると、まことしやかに言われているほどだ。建国して約240年、ヨーロッパと比較するとその歴史は圧倒的に浅い。10代の終わりまでヨーロッパで生活していたセバスチャンからみれば、人々は粗野で自己主張が強く、ことあれば自分の正義を主張し相手を打ち負かすことに歓びを感じているかのようだ。
 しかしそこに根を下ろして生きていくことを選んだ以上、この世界とうまく折り合っていかねばならない。日々穏やかに、快適に過ごすことを心がけている彼はこれまでも上手に軋轢を避けてきた。今回の件もできるだけスマートに処したいのだ。
 裁判になればシエルが辛い思いをすることになる。セバスチャンは昨晩の様子を思い出した。余計なストレスをかけたくない。何人かの知人に連絡を入れると、セバスチャンは寝室に戻った。

 シエルの様子を見ると汗を浮かべて、苦しそうに呼吸している。額に触れると焼けるように熱い。冷蔵庫でよく冷やした冷却ジェルを額に当てる。幾分楽になったのか、せわしなかった呼吸が少し落ち着いてきた。
「声が……」
「ああ、うるさかったでしょう、すみません。貴方の学校から連絡があったのです」
「なんて?」
「いまは休みましょう。心配しないで」
 シエルは弱々しくかぶりをふった。
「貴方を訴えると保護者から連絡があったそうです。暴力をふるわれたと言っているそうなんですが……」
「み……み」
「え?」
「あいつの耳、かじって……逃げた」
「……」
「負けっぱなし……は、嫌……だから」
 フッと不敵に笑って、再び眠りに落ちた。
(なんとまあ。強気な……)
 少年への興味が強くなっていく。
 そっと手を伸ばして、汗ばんでいる銀灰色の髪をやさしく梳いた。早く治るといい。

 翌朝、セバスチャンのマンションを初老の紳士が訪れた。黒いドクターバッグを足元に置き、上品で仕立てのよいツイードのスーツを着たその紳士。ドクター・タナカ。彼はセバスチャンのチェス仲間にして、州立病院の名誉会長である。伴侶が病に倒れたため、現在は第一線を退き、自宅で介護に専念している。
「わざわざお越しいただき、申し訳ありません」
「いやいや、こんな老いぼれがお役に立つとは光栄ですよ、ほっほっほっ」
「奥様のお加減はいかがです?」
「まあ年を取れば誰でも、ですな。多かれ少なかれ、あちこちに故障は出て来るものです。いつ逝ってもおかしくない」
 老人ならずとも人はみないつ逝ってしまうかわからないわけですが、と笑う。
 すでにシエルには診断書が必要なことを伝えておいた。老医師の訪問に嫌な顔をせず、おとなしく診察を受けている。シエルの右目に眼帯を付け、治療を終えた老医師は、
「全治一か月といったところでしょう。的確な応急処置でしたな」
 と正式な書式で診断書を作り、セバスチャンに手渡した。
「州立病院の名義で書いておきましたから、多少のお力になると思いますぞ」
 近いうちに一戦交えましょうと、チェスの駒を置く仕草をして老医師は帰っていった。

***
 シエルが眠ったのを確認して、セバスチャンは外に出た。
 土曜日は近くの広場に近郊農家が屋台を出し、パリのマルシェのような風情になる。陽気な農夫たちの呼び込みの声、かしましい値切り交渉、色とりどりの野菜、果物、チーズ、木の実、獣肉……その賑わいがセバスチャンは好きだった。今日のランチはなににしよう、飲み込みやすいものがいい、野菜のピューレのリゾットにしようか、それとも柔らかいパンプディングを作ろうか、それとも……。あれも、これもと、思いつく食材を遠慮なく買い込んだ。

──いい匂いがする。
 シエルは目を覚ました。
 スープの匂いだ。かあさまがよく作ってくれるブイヨンと野菜のスープ。やさしい味の。そこまで思い出して、もうすでに両親がこの世にいないことに気がついた。
 とうさま、かあさま。
 大好きだった。ずっと一緒だと思っていた。あんな風に突然いなくなるなんて思ってもみなかった。
 目頭が熱くなって、涙が頬を伝わった。

「シエル、起きてますか? ランチにしましょう」
 キッチンからミカエリスさんの声がする。初めて会ったとき、少し怖かった。ちらりと目が合って、あの濃い紅茶色の瞳が僕を捉えて……。心の底がツキッとした。物腰は丁寧だけれど、冷たい人だと思っていた。ちょっと距離を置いて、僕に接してくる。でも、もしかすると……。
 シーツで涙をぬぐったとき、セバスチャンがスープの乗ったトレーを持って部屋に入ってきた。

「いい匂いがしました」
「それはよかった。食べられそうですか?」
 スープ皿を受け取って、口に入れる。ひと口、ふた口、飲んだところでシエルはスプーンを置いてしまった。そのままうつむいて、皿を見ている。
「口に合いませんでしたか? なにか代わりを持ってきましょう」
 立ち上がったセバスチャンの服をつかんで、シエルは言った。
「そうじゃない……」
「?」
「母のスープに似て……」
 鼻の奥がつぅんとして、あ、と思った瞬間、涙がぽとりと落ちた。震える肩を抑えられない。涙を見られないよう、顔を伏せて、急いでスープをすくう。
「シエル。ごめんなさい。思い出させてしまいましたね」
 その言葉に堰を切ったように涙が溢れ出た。ひっくひっくとしゃくりあげて泣く。セバスチャンは腕を少年の肩に回し、涙がとまるまで静かに抱いていた。

 しばらくして、温め直したスープを飲みながら、シエルはセバスチャンに尋ねた。
「誰かに教わったんですか、これ……」
「イギリスにいた頃、下宿先のマダムに教えてもらったレシピです。風邪をひいたときに作ってくれて、それがとてもおいしかったものですから」
「イギリス……」
「ええ。ヴィンセント……貴方のお父さんともそこで知り合いました」
「そうなの……」
「ふたりともやんちゃな年頃で。一緒にいろんな悪さをしましたよ」
「どんな?」
「ふ……シエルには言えないようなことです」
 シエルは喉の奥で小さく笑った。
「ずっとイギリスにいたの」
「いえ。フランス、イタリア、ドイツ……。ヨーロッパのあちこちで暮らしました。親代わりの人たちの仕事の関係で」
「親代わり……?」
「私がまだ赤ん坊だったときに、母親がいなくなってしまったのです。それで彼らが私を引き取って育ててくれました」
「おとうさんは?」
「さあ、誰だったのでしょう? 私を産んだ女性も誰が父親なのか、知らなかったのではないでしょうか」
 シエルはセバスチャンの顔を見つめた。
「……貴方は、それで、寂しくはないの?」
「もう随分昔のことです。忘れていたぐらいなんですよ」
 セバスチャンはにこっとシエルに微笑みかけ、席を立った。

***
 暴行事件から数日経って、セバスチャンはシエルを伴い、学校を訪れた。加害者(被害者だと母親は主張しているが)の子どもとその母親との話し合いに呼ばれたのだ。
 今日は自分にまかせて欲しいとセバスチャンはシエルに頼んだ。顔を緊張で強ばらせてシエルはうなずく。自分を襲った子どもと会うことにかなりプレッシャーを感じているようだ。
 セバスチャンはできるだけシエルの負担を軽くしようと考えていた。

 セバスチャンとシエル、対面にはシエルを訴えると息巻いている母親とその子ども。校長。それぞれの弁護士同席のもと、話し合いが行なわれている。
 シエルはあきれてものが言えなかった。いまここで爽やかに弁舌をふるっている男は一体誰なのか?
 最初の挨拶であちらの母親は出鼻をくじかれた。セバスチャンに丁重に謝られたからだ。
 いわく、両親をなくしたばかりで精神的に不安定だった、互いに知り合ってまもなく保護者として目が行き届かなかった、さみしい思いをさせてしまって、それで喧嘩に走ってしまったのだろう、そちらのお子さんの怪我の具合はいかがですか? うちのほうは夜、高熱を出してしまって大変でした、ああ! これが診断書と写真です。全治1ヶ月とか。でも、マダム、所詮子ども同士の喧嘩です。どうか大目に見ていただけませんか?今後は充分気をつけますので……。

 セバスチャン・ミカエリスは天性の人たらしである。東洋系を思わせる黒髪、端正な顔、長身に加えて引き締まったからだ、しなやかな腰。そしてヨーロッパ貴族のような上品な物腰。
 しかし一番の魅力は、その声だ。深く、あまやかで、人の心を蕩かすウィスパーボイス。その魅力をもってすれば、これまでに堕ちなかった人間はいないと言っても過言ではない。

 ふるいつきたくなるような男を前にし、包帯で顔の半分が隠れているシエルと、高名な州立病院の診断書を目にした母親はひるんだ。耳にちょっとした傷をつけられたぐらいで大騒ぎしているのが恥ずかしい。
(うちのほうが訴えられても仕方がないぐらいだわ。争いは避けたほうがよさそうね)
 母親の陰に隠れるようにしていた子どもは、セバスチャンから差し出された写真をこっそりと見た。その中にキスの跡のついた写真が一枚もないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
「ねえ、ママ、そんなに怒らないで。僕の傷はすぐに治るって先生が言っていたし……」
「お黙りなさい! でも、確かにうちの子のほうが全然軽い怪我ですわ、ミカエリスさん。こんなことで騒ぐのは、お互い大人げないですわねえ」
ちらっと母親はセバスチャンに秋波を送った。
 騒いでいるのはそちらだけですと、心の中で毒づきながら、セバスチャンは極上の笑みを浮かべて答えた。
「さすがマダム。美しい方はそのお心までもお美しい。では、この件はこれでおしまい、ということでよろしいでしょうか?」
「ええ、異存ありませんわ」
 双方の親は笑顔で握手し、ついでに頬にキスまで贈り、礼儀正しく別れた。   

***
「ねえ、喧嘩って……あれ、本気……? 本気で言っていたの?」
 帰り道、シエルはセバスチャンに詰め寄った。
「まさか。シエル、私は本当に怒っているのですよ、貴方にあんなことをした子どもを」
 あの場でシエルが一度も相手の子の顔を見なかったことにセバスチャンは気づいていた。まっすぐ前を見つめて、ぎゅっと歯を食いしばって耐えていた。
「ですが、裁判してまで争う必要はありません。相手にするのも馬鹿馬鹿しい」
 セバスチャンは思い出したようにクスクス笑った。
「これは名付けて『北風と太陽』作戦でしょうか?」
「なに……?」
「北風に正面から向かったのではこちらもエネルギーを消耗して無駄に疲れてしまいます。北風には太陽をもって制したわけです。いかがです? 一応、成功したでしょう?」
「……ミカエリスさんっておもしろい人だ」
「セバスチャン、と」
「あ。……セ……バスチャン」
「はい」
「あの……ありがとう。僕を、看病してくれたり……その、いろいろ、気を使ってくれて……」
 頬を少し赤らめ、うつむいてぼそぼそつぶやいている。セバスチャンの胸の奥がふわりと暖かくなった。
「どういたしまして」
 片手で少年の頭をくしゃくしゃっと軽く撫で、セバスチャンは楽しい我が家へ向かった。 

to be continued…