LOVE SONG

         
               第九話

 
「シエル、届いたわよー」
 黄色い水仙が揺れる庭の郵便受けから、手紙を取り出したエリザベスは、大きな声でシエルを呼んだ。
「今行く!」
 シエルはミッドフォード家の二階から、駆け下りた。
 
 セバスチャンの裁判のあと、シエルの母は体調を崩して入院してしまい、いまシエルはエリザベスの家、ミッドフォード家の世話になっていた。同居を機に、シエルはエリザベスにもその両親であるミッドフォード夫妻にも、セバスチャンとの関係をすべて話した。ミッドフォード氏とエリザベスは目を丸くしていたが、夫人は「人を愛するのに、男も女もない」と、一も二もなくシエルたちの関係を受け入れてくれた。
 彼らに温かく迎えられたシエルは二階に一室を与えられ、そこからパブリック・スクールに通っているのである。
「さんきゅ」
 シエルはエリザベスから灰色の封筒を受け取ると、もどかしそうに封を開け、便箋を取り出した。

 ファントムハイヴくん
 
 手紙をありがとうございます。
 私も貴方と同じ気持ちです。あの夜のことは、すみませんでした。心から謝ります。
 ここを出たら、真っ先に貴方に会いたいです。会って、貴方と話したい。

「ねえねえ、なんて書いてあるの?」
 エリザベスがのぞきこむようにして聞く。
「……会いたいって」
「え?」
「ここを出たら会いたいって、書いてある」
 シエルの声が震えている。
「シエル……」
 シエルは涙をこらえた。
「面会に行ってみる?」
「……」
「弁護士さんに言えば、面会できると思うけれど」
「うん……」


***
 塀の中にいる彼に会うのは少し怖かった。
 事前に手紙を送ったときは「ぜひ来てください」と返事があったけれど、最初の手紙には「ここを出たら」って書いてあった。本当は刑務所の作業着姿なんて、見せたくないかもしれない。僕に気を使って面会を了承してくれたのかもしれない……。
 面会室の椅子に座ったものの、そわそわと落ち着かない。
「シエル、深呼吸でしたらどうだ」
 隣に座るミッドフォード夫人に声をかけられた。未成年者の面会は保護者同伴が規則で、今日はミッドフォード夫人に一緒に来てもらったのだ。
「はい……」
 大きく息を吸って吐く。
 ここまで来たんだ。緊張しないで、笑顔で会おう。
 ぎぃっと灰色のドアが開く。ガラスの仕切りの向こうに黒髪が見えた。
「こんにちは」
 そう挨拶した彼の声は、以前と変わらず甘やかで優しかった。少し痩せただろうか。伸びた前髪が顔に影を落としている。
「こ、こんにちは」
「会いに来てくれてありがとうございます。嬉しいですよ」
「……はい」
 口がこわばって、言葉がうまく出てこない。
 セバスチャンが、
「この間はごめんなさい。貴方にあんなことをして……」
 と謝っても、シエルは、
「……いえ、大丈夫、です」
 としか返事ができなかった。
 ああ、これじゃそっけなさすぎる。せっかく来たのに。
 気持ちだけ上滑りして、うまく喋れず、シエルは焦った。
 そのとき。
「おい!」
 ミッドフォード夫人が大きな声を出した。シエルもセバスチャンも思わずビクッとする。
「はい……?」
「その前髪! なんとかならないのか」
「え」
「え」
「長すぎて鬱陶しい。もうちょっとすっきりさせろ」
 意外な言葉にシエルもセバスチャンも固まり……それからふたりともぷっと吹き出した。
「なんだ、お前たち」
「わかりました。次のときまでに短くします」
 それですっかり場の空気がほぐれ、その後はシエルのミッドフォード家での暮らしぶりや、学校のことなど話した。セバスチャンはシエルの話を静かに聞き、自分のことはほとんど喋らなかった。
 十五分間の面会時間はあっという間に過ぎていった。看守の「時間です」という事務的な声に、シエルははっと我に返る。
 ──まだ話したいことはたくさんあるのに。
 一度こうして顔を見てしまえば、前よりももっと離れがたくて、
「……じゃあ、また来月来ます」
 シエルが半分泣き出しそうな顔で言うと、
「手紙を書きますね」
 とセバスチャンが慰めるように優しく答えた。

 帰り道。メイフェアのミッドフォード邸へ向かう車の中で、
「なかなかいい男でないか」
「えっ」
「見る目があるな」
 ミッドフォード夫人は、にこりとシエルに笑いかけた。


*** 
 面会から二週間経った。

 ファントムハイヴくん

 この間は来てくれてありがとう。
 さっそく前髪を切ってもらいました。
 短すぎて、貴方に嫌われるのではと少し心配です。

 シエルはすぐに返事を書いた。

 ミカエリスさん

 前髪、短くても大丈夫です。
 次の面会日は来月の十日ですね。
 いまから待ち遠しいです。

 学校ではイースター休暇が終わって、そろそろ期末試験です。
 勉強がんばります。

 ファントムハイヴくん

 勉強、あまり頑張りすぎないようにしてください。
 貴方は優秀だから、きっとよい点を取れますよ。

 この間はあまり話しませんでしたが、
 ここの生活は慣れるとさほど辛いものでありません。
 一日は作業と食事と入浴で終わります。
 とてもシンプルです。
 
 先日、娯楽室の隅にピアノがあることに気づきました。
 今度弾かせてもらえるように頼んでみます。 

 ピアノ。
 ミカエリスさんがあの場所でピアノを弾けたなら、どんなにか彼の慰めになるだろう。
 セバスチャンからの手紙に、シエルは祈るような気持ちになった。
「また、聴きたいな」
 ドビュッシーにショパンにサティ……。
 夜の闇を縫って、聴こえてきた彼のピアノ。
 あの音がふたりを繋いでくれた。その音色を思い出せば、切なくなってしまう。
 半年前だというのに、もっとずっと前みたいに思える。
──五年、か。
 ミカエリスさんが外に出てこられるまで、あと五年。
「長い……」
 あと五年経ったら、僕は十八歳。ミカエリスさんは……何歳なんだろう。
 でもその頃なら僕はもう成人しているから、母のもとを離れられる。ひとりで生活できる。
 そうしたらミカエリスさんと、友人として、そうルームメイトとして一緒に暮らせるかもしれない……。
 この国では恋人同士になれなくても、友人としてなら……。
 湧き上がる切ない気持ちをぎゅっと心の奥にしまいこんだ。
 いや。先のことなんて、わからない。
 いいことだって、起こるかもしれない。


***
 面会日がやってきた。

「だいぶ、すっきりした髪になって、イケメン度が増したぞ」
「ありがとうございます」
 セバスチャンは殊勝な顔をして、ミッドフォード夫人に頭を下げる。夫人は満足そうにうなずいた。
 セバスチャンはシエルに向かい、
「ピアノを弾いてもよいことになりました」
 笑顔で報告した。
「よかったです!」
「夕食のあと、娯楽室で三十分だけですが、弾いています。周りの人たちも聴いてくれて、リクエストをもらったりしますよ」
「クラシックですか? シューベルト? ベートーベン?」
「それが……ここの人たちはクラシックはあまり好きではないようで、もっぱらポップスです。私はバリバリのクラシックを弾きたいのですがね」
 セバスチャンが困ったように眉を寄せたのが楽しくて、シエルはふふと笑った。
「こら、なにがおかしいんですか?」
「ミカエリスさんの困った顔、あまり見たことがないから」
 一層眉を寄せたセバスチャンを見て、シエルはくすくすと笑う。
 ミッドフォード夫人も唇に手をあてて、少し笑っている。
 月に一度の面会日は、夫人も楽しみにしているようだった。

 ファントムハイヴくん

 風邪は大丈夫ですか?
 春先の風邪は長引くというので、ゆっくり治してください。

 最近、私は作曲に挑戦しています。
 これまで人の曲を弾くばかりで、自分で作曲なんて考えもしなかったのですが。
 作業のときに浮かんできたメロディを書き留めています。
 五線紙は規則で禁止されているので、ノートに線を引いて記しています。
 そうそう。
 こちらでは細かい規則が多いです。
 きっと、集団を統制するのに必要なのでしょうね。

 「シエル、起きてるとまた咳が出るわよ」
 ホットミルクを持ってきたエリザベスがたしなめる。
「平気」
 深夜まで試験勉強をしていたシエルはうっかり風邪をひいてしまって、今月の面会に行けず、気落ちしていた。手紙が来て、嬉しくなったけれど、その内容に心が少し苦しくなった。
 きっと刑務所での暮らしは辛いこともあるだろう。
 ミカエリスさんはあまりそのことについて語らない。でも、ちょっとしたことでその苦労が垣間見えるときがある。五線紙を自由に使えないなんて、なんて馬鹿馬鹿しい規則なんだろう。

 ミカエリスさん

 今月は面会に行けなくてごめんなさい。
 風邪はすっかり治りました。
 
 作曲ですか!
 とても興味があります。
 曲が出来上がったら、ぜひ聴きたいです!

「おい、かわいこちゃんからの手紙、見せろよ」
「だめです」
 同室の囚人たちがしつこく絡むが、セバスチャンは相手にせず、シエルの手紙を枕元の箱に大切にしまっていた。自由のない生活の中、手紙と面会だけがセバスチャンを支えていた。

 一九六七年七月──。
 セバスチャンが投獄されてから四ヶ月が経ったとき、ふたりにとって朗報が入った。
 同性愛法改革協会と、法改正を推進する人々の長い年月の活動が報われて、英国政府が法を改正し、二十一歳以上の同性間の性的行為を非犯罪としたのである。

 セバスチャンは監獄のラジオでそれを聞き、期待に胸をふくらませた。
 二十一歳──。
 あと八年。あとたった八年で、彼は二十一歳になる。恋人同士として堂々と一緒に暮らせるようになる。
 
 シエルは朝のニュースでそのことを知った。
「シエル、よかったね!」
 エリザベスが喜びの滲んだ顔でシエルを見る。
「うん、よかった!」
 と言ったものの、八年という年月の長さを思うだけで挫けそうになる。
 八年後も、ミカエリスさんは僕を好きでいてくれるんだろうか……。

 二人の胸を期待と不安が交差する。
 だが確実に明るい光は射してきている。
 二人はそのことを糧に、日々を乗り越える。

 ──三年後、セバスチャンは模範囚として刑期を縮められ、当初よりも二年早く、出所した。


***
 遠くに人影が見える。
 ぱたぱたと走ってくるのは──彼だ。
「ミカエリスさーん」
 明るく叫びながら駆けてくるのは、愛しい彼だ。
 はあ、はあと息を切らし、
「お帰りなさい!」
 と言ってくれる。
「ただいま」
 面会はしていたけれど、直接こうやって接するのは三年ぶりで、挨拶のあと、互いに照れてしまって、まともに顔を見られない。ふたりとももじもじと黙ったまま、ミッドフォード夫人の運転する車に乗った。
 ケンジントンの家に着くと、
「じゃあ、私はこれで失礼する。シエル、夜までには戻るように」
「はい」
 ミッドフォード夫人はふたりを残し、去っていった。

 しばらくその車を見送ってから、ふたりは家に入った。
 三年ぶりの部屋は記憶にあるものよりも、綺麗になっていた。シエルがセバスチャンを迎えるために、事前に掃除をしていたからだ。窓ガラスの汚れは拭き取られ、ピアノは艶やかに磨かれている。
「ありがとうございました。こんなに綺麗にしてくれて、疲れたでしょう」
「いえ。全然」
 とシエルが短く返事をする。
 ふたりともどうしていいのかわからずに、部屋の真ん中でただ立っている。
 気まずい空気を打ち破るように、シエルが言った。
「あの、よかったら、カプチーノ飲みますか?」
「え?」
「僕、淹れられるようになったんですよ。貴方が戻ってきたら、一緒に飲もうと思って」
 シエルはキッチンに立って、用意をする。少し背が伸びたようだ。
 たった三年で彼は成長する。その過程を見られなかったことを、セバスチャンは残念に思った。
 すぐにコーヒーの良い香りがしてきて、まもなく可愛いカップに入ったカプチーノが運ばれてきた。
「おや」
 カプチーノの表面にハートのラテアートが施されている。
「これも練習しました。今日はうまくできた……かな」
 シエルは恥ずかしそうに笑う。
 セバスチャンは思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて、代わりに微笑み、
「かわいいですね」
 と、シエルの淹れてくれたカプチーノをひと口飲んだ。
 美味い。
 香ばしいコーヒーと細かい泡の立った濃いミルク。塀の中では飲めなかった味に、心がほどけていく。
「──おかあさんはお元気ですか?」
「まだあまりよくなくて、ときどき入院しています。彼女は僕と貴方のことを絶対に認めないって言ってますけど……気にしないでくださいね。僕にも貴方にも彼女は何もできないし、僕は縁を切られたほうが楽なんです」
「そんな……」
「ミッドフォード夫妻が、いつまでも家にいてもいいと言ってくれて。僕はいま、ミッドフォード家の人間みたいになってて、それがとても心地いいんです」
「そうですか……」
 カプチーノを口に運んだ。飲むにつれて、ハートの形が変わっていく。
 長い沈黙のあと、シエルが思い切ったように言った。
「また、ここに遊びに来てもいい……ですか?」
「もちろんです」
 セバスチャンはにっこりと笑った。
 飲み干したカプチーノのカップを置き、「ごちそうさまでした。美味しかった」と礼を言うと、セバスチャンは立ち上がって、ピアノの前に座った。
「カプチーノのお礼に、よかったらなにか弾きましょう。なにがよいですか」
 シエルは即座に答えた。
「貴方が作曲した曲を聴きたいです」
「……ごめんなさい。まだできあがっていないのです」
 セバスチャンがうつむいて、申し訳なさそうに答える。
 シエルは少し笑って、
「なら……ジムノペディをお願いします」
 セバスチャンが一番好きだという曲を、シエルはリクエストした。
 音楽が始まる。
 寄せては返す波のような旋律に、シエルはじっと耳を澄ませた。
 三年ぶりに聴く彼のピアノ。それは以前よりもずっと深く透明な音だった。


***
 共にいなかった年月を埋めるかのように、ふたりは頻繁に会った。
 手を握ることも、抱きしめ合うことも、キスをすることもできなかったが、心は常に共にあった。
 シエルはセバスチャンの家に来ると、必ずピアノを聴かせてもらった。
 セバスチャンはオリジナル曲の作曲を続けていたが、曲はなかなかできない。

 ふたりはよく角のカフェにも寄った。
 カフェのマスターはふたりの顔を覚えていて、席につくと、すぐにカプチーノを二人分出してくれた。ほろ苦いカプチーノを飲みながら、毎日のことを話し、笑い……。
 やがてシエルはパブリックスクールを卒業し、オックスフォードカレッジに進学する。
「これからは勉強で忙しくなりますね」
「大丈夫。僕は優秀だから、これまでどおり貴方に会いに来ます」
 シエルはにやりと笑い、グッとガッツポーズを作った。
 ときには会えない日々もあり、そんなときは必ず、遠くからセバスチャンのピアノの音が聴こえてきた。
「今日は『月の光だ』」
 もう何度も聴いて、すっかり覚えている。
 シエルが初めて耳にした曲。自宅の二階で、ひとり泣いているときに、シエルの心を慰めるかのように聴こえてきた優しい旋律。そのときの気持ちが蘇る。
 今もこうやって、セバスチャンのピアノがふたりを繋いでいる。そう思えば、さみしくはなかった。

 こうして彼らはひっそりと、世界が変わるのを待っていた。

 そして、五年が過ぎた。



***
 一九七四年十二月十四日。今日はシエルの誕生日だ。この日でシエルは二十一歳。待ちに待った日が、とうとう訪れたのだ。
「二十一歳、おめでとうございます」
「ありがとう!」
 シャンパングラスに金色に泡立つシャンパンを注ぎ、グラスを合わせる。シエルは緊張と興奮の中にいて、喉を通る上品なアルコールの味はさっぱりわからなかった。少し飲んだだけで、コトリとグラスを置く。
 冬の夜の静けさが、深く部屋に満ちている。
 セバスチャンが小さな声で、シエルに訊ねた。この八年間、一度も口にしなかった問いを。
「──貴方の本当の名前を教えていただけますか?」
 シエルは黙って、テーブルに置いたグラスをじっと見ていた。
 それからゆっくりと顔を上げた。
「僕の名前は……」
 その名は彼らしく、可憐で優しい名前だった。
「貴方の名前は?」
 問われて、セバスチャンも自分の本当の名前を彼に教えた。
 ふたりは向かい合い、目を合わせ、声を震わせて、そっと互いの名前を呼んだ。
 その声は他の誰にも聴こえない。ふたりだけに届く、吐息のような響き。
 セバスチャンは心がほどけたように柔らかく微笑み、ゆっくりとシエルの手をとった。
 セバスチャンにいざなわれて、シエルは寝室へと向かう。胸はドキドキと早鐘のように打っている。ぎくしゃくと足を動かして、寝室に入ったものの、どうしたらよいのかわからない。
 立ちすくんでいると、セバスチャンが、
「おいで」
 優しく目を細めて、シエルの身体を引き寄せた。

 一枚、一枚、ゆっくりとセバスチャンに服を取り除かれ、シエルもまたセバスチャンの服を一枚、一枚、剥いでいった。ふたりとも生まれたままの姿になり、どちらからともなく手を伸ばして、互いの体温を確かめるように抱き合った。そのままベッドに倒れこみ、頰に、唇に、首筋に、ついばむような優しいキスを贈る。セバスチャンは顔を離すと、目に焼きつけるように、シエルの身体を見つめた。
「あまり見ないで」
「なぜです」
「……痩せてて、骨っぽいし……綺麗じゃないから」
「とても綺麗ですよ」
 頰を赤らめてうつむくシエルを抱き寄せて、深く唇を合わせた。唇を開かせて、舌で歯列をそっと拭って。舌を搦ませ、吸い、あまやかに噛んで。
「ん……っ」
 シエルの鼻腔から甘い息が零れた。銀の髪にそっと指を入れる。そのまま優しく梳けば、シエルの身体が小さく震え始める。
 薄く桃色に染まった小さな耳にキスをした。
 首筋に舌を這わせ、鎖骨を辿って、胸の突起にやさしく触れる。
「あ……っ」
 シエルがぎゅっとセバスチャンの肩にすがった。
 セバスチャンはゆるやかに舌先で軽く触れるように、乳首の周りを愛撫する。
「ん……んっ……」
「──私の名前を、呼んで」
 セバスチャンは低くささやくと、シエルの乳首を淡く噛んだ。
「あぁっ」
「呼んで」
 シエルがセバスチャンの名を呼ぶたびに、セバスチャンはシエルの肌に熱い舌を這わせていく。柔らかな肌を辿り、甘やかに噛み、熱の発する場所を探りあて……。
 セバスチャンがシエルの中に入ってきたとき、シエルが肩にすがりながら、喘ぐようにして言った。
「……僕の名前を、呼んで」
 セバスチャンはシエルの身体を強く抱きしめて、その名を耳元でささやいた。
 シエルの瞳から涙がひとしずく零れ落ちる。
「あ……、あ、あ」
 身体中を駆けめぐる熱い感覚。恋した人に名を呼ばれ、抱かれている歓び。
 男の瞳に、歓喜に頰を染めている自分が映っている。
「愛しています」
 肌に汗を浮かべて、セバスチャンがささやいた。
「愛しています。貴方を」
 もう一度言って、シエルの身体を熱く貫く。
 貫かれるたびに、甘い官能がシエルの全身を満たしていく。
 互いの名を呼び、何度も喘ぎ、足を搦ませ、快楽に溺れて。
 指を絡め、キスをして、身体を繋げては何度も絶頂に達し……。
 八年の歳月を越え、やっと抱き合えた彼らは、寄せては返す波のごとく、いつまでも繰り返し繰り返し、愛を交わし続けた……。 


 夜明けの光がシーツの波間を照らしている。
 セバスチャンは深く眠る恋人の額にそっとキスを落とし、ひっそりとベッドを抜け出した。
 隣室のピアノの前に座り、蓋を開ける。
 白と黒の鍵盤がセバスチャンを待っていたように、煌めいた。

 やがて鍵盤に指を置くと、セバスチャンは静かに弾き始めた。
 長い年月を乗り越えて、ようやく夜を共にできた歓び。
 その歓びが新たなメロディーを紡ぎ出す。
 セバスチャンは次第に夢中になって、指を動かした。この八年間のすべてが脳裏をよぎる。

 雑踏の中での運命的な出会い。
 レコードショップでの木曜日の約束。
 ふたりで回ったロンドン観光。
 深夜に家で静かに話をして。
 そして悲しい別れが訪れ……。

 音はセバスチャンの身体の奥から発して、美しい旋律となり、やがてひとつの曲に形作られていく。
──この曲を。
 貴方を想って獄中で書き始め、愛の歓びを得て、ふたりのすべてを音に昇華させたこの曲を。

 貴方に捧げよう、愛の歌を。

                                              終