LOVE SONG

         
               第七話

 
 だが、シエルはアロイスのことを完全には信用しきれなかった。
「君はこの間、自分からミカエリスさんに近寄っていったよね……」
 確か、キスを贈ってくれるの? って聞いてた。
 自分を襲った相手に、あんな風に甘えるような仕草をするなんて、少し変だ。
「ああ、あれはね、わざとなんだ」
 アロイスは得意げな顔をした。
「わざと?」
「そう、俺を襲ったことを思い出させようとしてね」
「どうして……?」
「だって、そうやってつどつど、思い出させてあげないと、先生、事件のことを忘れて、また罪を犯しちゃうかもしれないでしょ? だいたい、俺が先生の居所を探していたのだって、監視のためなんだから」
「監視……」
「そう。保護観察官なんて全然あてにならないよ。現にこうして俺は先生の居所を突きとめられたしね」
「……」
「ねえ、シエルは大丈夫? 先生に変なことされてない?」
「えっ……」
「キスとか迫られてない?」
「大丈夫」
 急いで答えたけれど、シエルの胸に一瞬不安がよぎった。あの夜の、あのキスは……あれはきっと変なことなんかじゃない。
「君が無事でよかった。俺、しばらくロンドンにいるから、先生になんかされたら、すぐ連絡して。これ、俺の泊まっているホテル」
 リッツホテルの便箋に汚い字で書かれた、アロイスの名と部屋番号。
「わかった」
「じゃ、俺、帰るね。悪いけど、ここ払っておいてくれる? いつもクロードが払ってくれるから、俺、財布持ってないんだ。この次に返すから! よろしく!」
 ひらひらと手を振って、アロイスはカフェを出て行った。

──絶対、違う。
 アロイスとカフェで別れてから、すぐには家には帰りたくなくて、シエルはただただ街を彷徨っていた。
 ミカエリスさんはそんな人じゃない。
 アロイスは僕を騙そうとして……
「なんのために?」
 そうだ、なんのために僕を騙そうとしているっていうんだ。
 綺麗な金髪。碧の瞳。美しい少年、アロイス。
 その彼がぽろぽろと涙をこぼしていた。
 突然、襲われて、とても怖かっただろう。
 シエルはぶるっと身を震わせた。
 僕も知っている。その恐ろしさを。
 誘拐され、監禁されて……
 ひくっと喉が痙攣した。
 だめだ、思い出しちゃだめだ。
 道の端に寄り、シエルは両腕でぎゅっと自分の身体を抱いて、波が通り過ぎるのを待つ。
「ミカエリスさん……」
 小さな声で彼の名を呼ぶ。
 額に落ちた前髪。少し悲しげな、透き通った紅茶色の瞳。
 シエルの心のどこかを撫でていくあの深い声……。
 あの人が、そんな悪いことをしたんだろうか?


***
「顔色がよいですね」
 ウィリアム保護観察官は、セバスチャンの顔をまじまじと見た。
 今日はひと月に一度の定期訪問日だ。
 受刑者の家を訪れて、その様子を観察すると同時に、決められた薬をきちんと飲んでいるか確認する日でもある。受刑者の中には、薬を飲むのを勝手にやめてしまう者もいれば、飲んでいるがために副作用の鬱が高じて、自死する者も多い。それらを防ぎ、管理するのがウィリアムの仕事だった。
 今担当しているこの男、セバスチャン・ミカエリスは品行方正な受刑者と言ってもよかった。与えられた薬を真面目に飲み、おとなしく暮らしている。昨年、十歳の男子児童に乱暴しようとし、裁かれた男だが──実はウィリアムはその判決にいささか疑問を抱くようになっていた。
 ウィリアムがひっかかったのは、事件には、第三者の目撃者がおらず、すべてアロイス・トランシーの証言のみで裁判が進んだことだ。
 幼い子どもが嘘をつくわけがないという意見には賛同できるが、セバスチャンを担当するようになって、一途に「自分はやっていない」と訴える姿に、もしかしたらこの男は本当に無実なのではないか、と思うときがあったのだ。無論、グレル・サトクリフにも誰にも話したことはないが。
 それにしても、少し前まで覇気がなく、この世に何の喜びもなかったような男が、今日はどうだろう。別人のように明るい表情を浮かべている。
「なにかあったのですか?」
「いえ、なにも」
「そういうわりには血色がいいですよ。生きがいでも見つけましたか」
「生きがい……」
 セバスチャンはしばらく考えているようだったが、
「──……ピアノをまた弾くようになったからでは」
 と小さく微笑んだ。
──この男の笑みを初めて見た。
 ウィリアムは心の中で息をのんだ。
 普段でも美しい男だが、こうして笑うと、もっと魅力的になる。
 アロイス・トランシーにもこんな笑みを見せて、誘惑したのだろうか。
 そう思うと、にわかに苦々しい気持ちが湧き上がった。
 「はは、貴方も相当な神経の持ち主ですね。アロイス・トランシーはトラウマで、ピアノに触ることさえできないというのに、加害者である貴方は相変わらずピアノですか。被害者の心の傷については、まったく興味がないのですね」
 あの少年が辛く苦しい思いをしているというのに、この男はのうのうとピアノを弾き、親から譲られた資産でのんびりと暮らしている。それが妙に気に障り、ウィリアムは口調を強くした。
「アロイス・トランシーが裕福な家庭の子で幸いでした」
「え?」
「彼は学校に行かずに、家庭教師についていたのですから。たとえばこれが学校に通っている一般家庭の子だったら、教室でなにを言われるか、わかったものではありません。変態に襲われたなんてことが広まってみなさい。おもしろおかしく噂され、イジメに遭うことだってあるかもしれません。中にはキズモノとして、被害少年を嫌悪する児童や父兄もいるでしょう」
「一般家庭の子……」
 セバスチャンの顔がみるみるうちに曇っていく。ウィリアムは自分の放った攻撃が、どこか的に当たったことに喜びを感じながら、机の上の残った薬を数え始めた。
「貴方はもっと人の気持ちを考えたほうがよいのでは? ふむ、順調に飲んでいるようですね。よろしい」
「……」
「調子にのって、また子どもに手を出さぬように。性犯罪は再犯率が高いですからね。今度貴方が事件を起こしたら、遠慮なく刑務所に入ってもらいますよ」
 ウィリアムは憎々しく言い捨てると、くるりと背を向け、部屋を出て行く。黒のバインダーを黒革のバッグにしまいこみ、次の訪問先へと向かった。
 道々いまのやりとりを思い返していた。
 あの男は、なぜあんなに明るい顔をしていたのだろう。
 それが癪に触って嫌味をぶつけてしまったが、ウィリアムはセバスチャンの変化が気になった。
 今後、彼を注意深く観察する必要がある。

──学校に通っている一般家庭の子だったら……
 セバスチャンは、ウィリアムの一言に腹の底がすっと冷えた。
 万が一、シエルとの逢瀬がウィリアムらにばれて、再び自分が逮捕されるようなことがあったなら。
 自分だけではなく、彼も巻き込まれてしまうのだ。前科を持つ男と関わった少年として。
 あのパブリックスクールにだって、通い続けていられるかわからない。
──私の存在が彼の一生を左右してしまう。
「嗚呼……」
 ずっと自分のことばかり気にかけていて、彼の将来に思い至らなかった。
 本当にもう関わらないほうがよいのだ。
 彼のために。彼の未来のために。


***
 アロイスと話してから数日後、シエルは思い切ってセバスチャンの家を訪れることにした。
 ひとりでぐじぐじと考えていたってしかたがない。
 ちゃんと、ミカエリスさんに聞いてみよう。
 そう決心し、深夜そっと家を抜け出した。

 今夜はピアノの音は聞こえなかった。が、部屋の明かりはついている。まだ彼は起きているようだった。
 トントンと扉をノックする。返事がない。中に人の気配はするが、扉は閉められたままだ。
「……こんばんは」
 シエルがささやくように呼びかけると、ようやく扉が開いた。
 いつもなら「こんばんは」と甘い声で返してくれるのに、今夜はセバスチャンは硬い表情をして、片手で扉を押さえたまま、戸口に立ちふさがっている。
「あの……?」
「貴方はなぜここに来るのです?」
 いきなり、聞かれて驚いた。もう何度もここに来て、こんな質問をされたことがない。
「なぜって……」
 貴方に会いに。
 貴方と話がしたくて。
 そう言おうとしたが、セバスチャンの冷たい表情を見て、言葉が詰まった。
──いつもの感じと全然違う。
 不安に思ったが、アロイスとのことを聞かなければならない。今夜はそのために来たのだから。
 でもいったいどうやって?
 シエルは、自分がなんの準備もせずに来てしまったことに気づいた。
 まさか、貴方は犯罪者なんですかって、訊ねるのか?
 アロイスを襲ったんですかって?
──そんなこと、とても聞けない。
 シエルが逡巡していると、セバスチャンが厳しい声で言った。
「もう、ここには来ないでください」
「えっ……?」
 セバスチャンは言い放つと、話は終わったとばかりに背を向ける。扉を閉められそうになって、シエルは慌てた。
「待ってください、あ、あの、どうして、ですか……?」
 突然の言葉にシエルは困惑していた。いきなり、こんな態度をとられるなんて。
「貴方に来られると、迷惑なんですよ」
 吐き捨てるように言われて、シエルはショックを受けた。
「え……、だってこれまで」
「これまでずっと我慢していたんですよ。慕われれば、誰だって嬉しいでしょう。きっと寂しい子なんだと思って、貴方を受け入れてきたのです。なのに、貴方ときたら、ずうずうしく人の家にまで上がり込んで」
「ミカエリスさん……?」
「もう我慢も限界です。さあ、帰ってください」
 追い払われるように、急き立てられて、シエルはつい口にしてしまった。
「あ、あの、貴方は……アロイスくんを」
 セバスチャンの顔色がすっと変わった。
「アロイス?」
「……アロイスくんから聞いたんです。去年、貴方は……」
 はっきりと口に出せなかったが、セバスチャンには伝わったようだった。
「嗚呼、彼から聞いたのですか? 言う手間が省けました」
「え」
「そうです。私は彼が好きなのですよ」
「……っ」
「去年の夏、出会って、すぐに惹かれました。あの綺麗な金色の髪。蠱惑的な碧色の瞳。可愛い子で、私に懐いてくれて、嬉しかった。彼も私を好いていたと思ったのに、抱こうとしたら、抵抗されて、裏切られたような気持ちになりました。怒りが湧き、欲望が募ってしかたなくて、あともう少しで彼の身体を自分のものにできたのに、叫び声を聞いた執事が来てしまって……。それからはもう最悪だったのです」
 セバスチャンは大きなため息をついた。
「一方的に私が悪者になって、皆揃って私を虐めました。彼までも大人に言いくるめられて、あることないこと証言して。結果、私は重い判決を受け、みじめな刑に従うことになりました。……聞きましたか? 私が受けている非人間的な刑のことを」
 問われてシエルは答えに窮した。
 セバスチャンは構わずに、
「あんな薬を一生飲まなくてはならないなんて、酷いものです。たかが男の子ひとり、犯そうとしただけですよ? 私になんの罪があるというのです」
 シエルは愕然とした。
 これがあのミカエリスさんなんて。
 これまでと全然違う。
 穏やかでいつも優しくシエルに接していた。
 なのにいまは冷たく、他人を罵っている。
「貴方はそんな人じゃない! 全部嘘だ」
 シエルは思わず叫んだ。だが、セバスチャンはどこまでも冷たかった。
「嘘? 貴方に私のなにがわかるというんです。関係ないでしょう」
──関係ないでしょう。
 その言葉はシエルをひどく傷つけた。
 心が通じていると思っていたのに。
 僕のことを好きだと思っていたのに。
 僕は貴方とキスしただけで、勝手に恋人きどりで、いい気になってた……?
 でも、でも!
「本当のことを教えてください!」
「話すことはなにもありません──……嗚呼、それとももしかして、貴方は抱いて欲しくて、ここに来ていたのですか? それはそれは気づかずに失礼しました」
 とセバスチャンは小さく笑って、シエルの顎を人差し指ですくった。
「では、キスのひとつでもしてあげましょう」
 顔を近づける。
「やめろっ」
 シエルが片手を振り上げると、セバスチャンは軽々とその手を掴み、
「あのキスが忘れられなかった?」
 嘲笑うように言い、無理やりに唇を奪う。
 そのキスは前とは違っていた。
 乱暴で、シエルを蹂躙するかのようにいやらしく舌が動き回り、まるで虫が這っているように感じて、ざわざわと全身に鳥肌が立った。
 シエルは思い切り、セバスチャンの舌を噛んだ。
「ッ!」
 バッとセバスチャンが身を引く。唇についた血を、ゆっくりと手の甲で拭った。
「帰ってください」
「……」
「もう気が済んだでしょう。さっさと帰ってください。もう二度と会いたくない」
 シエルは、唇をわなわなと震わせた。
「……もう、二度と来ない。貴方とは、二度と会わない」
 絞り出すように言って、走り去った。

 セバスチャンは血の滴る唇を噛み締め、去っていくシエルの背中を見つめていた。
 いますぐ彼の後を追いかけて、抱きしめたい。
 追いかけて、腕を掴んで、振り向かせ、
「全部、嘘です。私が本当に愛しているのは貴方なのです」
 と伝えたい。

 けれど、これでよかったのだ。
 セバスチャンは自分に強く言い聞かせた。
 彼は私などに関わってはならない。
 彼の未来のために……私たちは会ってはならないのだ。
 私は──犯罪者の烙印を押された者なのだから。
 扉にどすんと背中をあずけた。
「なにもかも、終わりだ……」
 顔を上げると、はらはらと白いものが落ちてきた。
 雪だ。
 踊るように舞っていた雪は、次第に激しく降ってくる。
 嗚呼。この雪が、すべてを覆い隠してくれたらいいのに。
 自分の罪も、自分の人生も、すべて。


***
「ねえ、クロード。ちゃんと撮れた?」
「はい、旦那様」
「すぐに現像して」
「承知しました」
 セバスチャンの家の近くの路地に隠れていたアロイスは、キスをするふたりの様子をカメラに収められたことに満足して、ほくそ笑んでいた。
「俺以外の子とキスしたらだめじゃん。先生は俺のものなんだから」
 くすくす笑って、足取り軽くその場から立ち去った。

 一通の封書が司法省のウィリアムのもとに届けられたのは、ロンドンにしては珍しく、大雪の降り積もった朝のことだった。差出人名の書かれていない手紙にウィリアムは首をひねったが、銀のペーパーナイフを取り上げて、封を切った。
「これは……!」
 封筒の中には、蒼銀色の髪をした美しい少年とセバスチャン・ミカエリスがくちづけている写真があった。