LOVE SONG

         
               第六話

 
「どうぞ」
 なんの模様もついていない、そっけない白いティーカップ。中にはミルクティーが揺れている。
 ガラスのローテーブルの上は雑然としていて、薬の入っているらしい、いくつもの白い袋があった。セバスチャンはそれらを端に追いやり、わずかに空いた隙間にカップを押し込んだ。
「散らかっていて、すみません」
「いえ」
 言葉少なにシエルは答える。
 招き入れられた部屋は、イメージとは違っていた。
 シエルは勝手に、セバスチャンの部屋は無機質なぐらい綺麗に片付けられている、と思い込んでいたけれど、実際はガラステーブルには薬以外にも物が散乱しているし、ソファには黒いコート、ピアノの椅子にはタートルネックのニットが雑にかけられている。部屋の隅には、まだ開けられていないダンボール箱がいくつも積んであった。
 棚の上には──ブルーのチェックのマフラーがそれだけ綺麗にたたまれていた。それが目に入ったとき、シエルの胸がちくりと痛んだ。
「……」
「……」
 ふたりとも気まずく黙っている。
 さきほどの出来事が……ふたりで抱きあい、キスをしたことが、本当のことのように思えない。あれは夢だったのではないかと思えるほど、いまのふたりの間には、どこかよそよそしい空気が流れていた。
「いただき、ます」
 言って、ティーカップに口をつける。ミルクティーとハチミツのよい香り。ひとくち飲んで、ほっと息を吐く。ハチミツのやさしい甘みが舌に溶けて、ほんの少し心が緩んだ。
「……ミカエリスさんは、いつ引っ越してきたんですか?」
 沈黙が重たくて、シエルは硬い空気を払うように口を開いた。
「三ヶ月前です。……ロンドンに来てすぐ、昔からの友人との待ち合わせ場所に行く途中で、貴方に出会いました」
「……」
「貴方を見たときに、すっと周囲の音が消えて、ふたりだけになったような感覚に陥ったのです。ですが、その感覚はあっという間に去って、貴方を追おうと思った時には、もう姿が見えなかった」
 僕もだ、とシエルは思った。
 ひと目見るなり、惹かれて、この人を手放してはならないと思ったのに、雑踏の中で見失ってしまった。
「でも、こうしてまた会うことができました」
「はい」
 その言葉だけで満たされる何かがあった。今はあの子のことを訊かなくてもいい──そう思いながら、シエルは少しぬるくなったミルクティーをゆっくりと口に運ぶ。
 ふたりの間の空気がほんの少し変化した。
「──……シエル、というのは、兄の名前なんです」
 するりとシエルの口から言葉が零れた。
「三年前に僕と兄は誘拐されて……」
 誘拐され、ひと月の間、監禁されていたこと。兄は殺されてしまったこと。自分ひとり生き延びて、還ってきたこと……その話はグレルから聞かされて、セバスチャンも知っていた。だが、実際の当事者から聞くそれは、強く生々しくこちらに迫ってくる。シエルが淡々として話すだけに、かえって事件の恐ろしさを肌で感じた。
「それで、ひとりで戻ってきた僕は……っ」
 それまで落ち着いていたシエルが突然、声を詰まらせた。
「辛ければ、話さなくていいのですよ」
「いえ……」
 いま話さなければ、きっと誰にも言えないまま、心が醜く澱んでいってしまう。
「……僕は自分を兄だと……『シエル』だと偽って、みんなを騙したんです」
 言葉と同時に涙があふれる。ぎゅっと腕でこすっても、涙は止まらない。あとからあとから零れ落ちてしまう。部屋の中にシエルの嗚咽が響いた。
 セバスチャンはなにも言わなかった。
 代わりに、そっとシエルの背中に手をおいて、優しく……優しく撫でた。

 どれぐらい経ったのだろう。しばらくして、セバスチャンの温かい手が離れ、
「落ち着きましたか」
 と聞かれた。
「はい……」
 泣いてしまったことが恥ずかしくて、シエルはうつむいたまま返事をする。
「もう深夜です。送っていきましょう」
 セバスチャンが静かな声で言った。
「あ……はい」
 シエルはうなずいた。
 そうだ。いつまでもここにいてはいけない。迷惑をかけてしまう。
 セバスチャンは、コートを着ずに来たシエルに、自分の黒いコートをかけてやり……それから棚の上のブルーのチェックのマフラーを取り上げた。
「……これを、受け取ってもらえますか?」
 シエルが小さくうなずくと、セバスチャンはシエルの首にそっとマフラーを巻いた。
「ありがとう、ございます」
 ふわりとかけられた柔らかいぬくもりが、冷たくなった肌をあたためてくれる。シエルは両手で、首元のマフラーを握った。

 ひとりで来た道を、ふたりで歩く。
 セバスチャンはシエルの名前のことについて何も聞かず、その心遣いが今のシエルにはありがたかった。
「どうして、私の家がわかったのです?」
 セバスチャンが訊ねた。
「ピアノの音を、辿って来たらここに……」
 セバスチャンはそれを聞くと、ひとりごとのように呟いた。
「そうですか……私のピアノは、貴方に届いていたのですね」
「──ピアノ、弾いていたんですね」
 シエルがほんの少し責めるように言った。
「すみません。あのときは、話せなくて」
 その理由が知りたかったけれど、セバスチャンの声がわずかに硬くなったような気がして、シエルはそれ以上聞くことをやめた。
 シエルの屋敷に着くと、セバスチャンは目を細めて大きな家を見つめた。
「こんなに近くだったとは」
 いつも帰る道は坂の上と下に分かれていたから、もっと離れた場所に住んでいると思っていたのだ。
 樹木の生い茂る門の前で、
「では、おやすみなさい……ファントムハイヴ君」
「おやすみなさい、ミカエリスさん」
 ふたりは共に言うと、それぞれの場所へ戻っていった。



 ほどなくして、クリスマス休暇がやってきた。
 休暇中はやはりシエルに会えなかったが、セバスチャンは自宅で静かにピアノを弾いてやり過ごした。このピアノの音が少年に届いていると思うだけで、心は慰められた。
 彼のために、たくさんのクリスマス曲を弾いた。厳かな曲、愉快な曲。聴いて、彼がクスリと笑ってくれたらいい。それから、シエルがまだ聞いたことのないクラシック曲も弾いてみた。シューベルトやラベル、ブラームス。休暇が終わったら、それらの作曲家について話を聞かせてあげようと思ったのだ。
 シエルの名前のことは……その名が偽りだという告白は、セバスチャンの胸を突いた。理由は違うけれども、自分も同じ。できれば、彼の本当の名前を知りたい。そして自分の名も告げたい。
 けれど──。
 そのためには自分の罪を、あの事件のことに触れなくてはならない。そう考えるだけで、背筋がこわばり、気持ちが鉛のように重くなった。

 やがてクリスマスが過ぎ、ニューイヤーを迎えると、寒さは一段と厳しくなった。ロンドンの街には、しっかりとコートを着込んで、マフラーに首を埋めた人々が足早に歩いている。
 休暇が終わってから、シエルはときどき夜、家をこっそり抜け出しては、セバスチャンの家にやって来るようになった。来るときには必ずブルーのマフラーを巻いて。
「こんばんは」
「こんばんは」
 もう何回目かになるのに、シエルが家に来ると、ふたりは律儀に挨拶をする。それからなんとなく気恥ずかしくて、ちょっと笑みを零してしまう。
「ミルクティーでよいですか?」
「はい」
 セバスチャンの家では、シエルはカプチーノではなく、ミルクティーを飲む。セバスチャンもだ。
 気づくと、少しずつセバスチャンの部屋は片付いてきていた。隅にあった段ボールもいつの間にか消えている。テーブルにはもう薬の袋は見当たらず、部屋は次第にシエルの想像したように、綺麗に整えられた空間に変わりつつあった。
 リビングのソファには、フランネルの赤いタータンチェックのクッションが二つ並び、その横には薄グリーンのアラジンのストーブがあって、部屋の中を暖めていた。
 セバスチャンはときどき、自分で焼いたクッキーやパイを出してくれた。深夜におやつは胃に負担をかけるからと、ほんの少しだけだったけれど。甘酸っぱいリンゴが入ったパイや、サクサクとしたチェッカークッキーはこれまでに食べたどのお菓子よりもおいしかった。
 うっすらとバニラの香りが漂う、居心地のよい部屋。それはどこか懐かしい、未知の風景を呼び起こした。
 暖炉の炎がパチパチと爆ぜ、テーブルの上には紅茶とお菓子、シエルの傍らにはセバスチャンがいて……。
 セバスチャンの部屋に居るときに、時折訪れるその不思議な幻は、シエルをやさしく、甘やかな気持ちにさせてくれるのだった。
 ふたりは音楽や学校の話をするときもあれば、セバスチャンの弾くピアノに耳を傾けることもあった。セバスチャンは深夜の住宅街に響かないように、ひっそりと小さな音でピアノを弾いた。クラシック曲が多かったが、近頃は流行りの曲を聴かせてくれることも増えた。
「あ! ビートルズだ! Yellow Submarine」
 リズミカルな明るい曲。洒落たメロディ。
「ふふ、当たりです。よくわかりましたね」
「だってラジオでよくかかっているから。貴方がそういうの弾くの珍しい」
「いつもクラシックばかりではね。たまにはよいでしょう?」
「楽譜、よくありましたね」
「楽譜などなくとも、一度聴けばたいがいのものは弾けます……こう見えて、以前はピアニストを目指していたのですから」
「え、そうなんだ!」
「ええ。音楽は、小さな頃からずっと好きだったのです。ある日納屋で壊れたピアノを見つけて、一日中それで遊んでいました。それを知った両親がこのアップライトのピアノを買ってくれて。以来ずっと一緒に過ごしてきたんですよ」
 鍵盤に触れながら、懐かしそうに話すセバスチャンを見て、シエルはまた少し彼のことを知れたと思う。
「……ピアニストを目指して勉強していたのですが、残念ながら指の腱を痛めて、それは叶わぬ夢になってしまいましたけど……」
「……」
「それでも、ピアノを弾くのは大好きですから。こうして誰かに聴いてもらえると、とても嬉しいものです」
 セバスチャンはピアノに向き直ると、再び弾き始めた。
 彼の長く形のよい指が鍵盤の上を滑らかに動くとき、シエルにはその仕草が少しエロティックに見えて、胸がときめいてしまう──あの晩以来、セバスチャンはシエルに触れようとはしなかったが……。
 ふたりの静かな夜の時間は心地よく、シエルは自分の心がやすらぐのを感じていた。


***
「ねえ!」
 学校帰り。すっかり葉が落ちた銀杏並木の坂の途中で、突然後ろから声をかけられた。
 どこかで聞いたような声。くるりと振り向くと、あの金髪の少年がいた。
「今日はひとり? 先生はいないの?」
 いきなり問いかけられて、シエルはむっとした。
「……」
「大丈夫だよ、取って食いやしないから。俺、アロイス。君は?」
「……ファントムハイヴ」
「それ、ラストネームでしょ。水くさいなあ。同じ先生に習っている仲じゃない。ファーストネームで呼びあおうよ!」
「ミカエリスさんには、なにも習っていない」
 シエルは会話を断ち切るように言った。
「え、そうなんだ? てっきりピアノをやってるかと思ったのに」
「やってない」
「……ふぅん」
 アロイスは無遠慮に、じろじろとシエルを見たかと思うと、
「ねえ、お茶飲んでかない? 寒くて、俺、凍えそう」
 うう、寒い、寒いと両肩を抱いて大げさに震えてみせる。アロイスに背を押されるようにして歩きながら、しつこく名前を聞かれて、ついシエルと答えてしまったけれど、本当は無視して帰りたいぐらいだった。
 だがアロイスの態度に少し引っかかるものがあり……一緒にカフェに入ることにした。
「……ミルクティーを」
「俺はカプチーノ!」
──カプチーノ。
 セバスチャンがカフェでいつも注文するものだ。
 シエルの心がかすかに揺れる。
 アロイスがテーブルから身を乗り出して言った。
「先生、カプチーノ、好きだよね。だから俺も好きになっちゃってさ。ね、ね、先生のこと、君、どれぐらい知ってるの?」
「……名前だけ」
「え? な・ま・え、だけ?」
 名前、という言葉を強調されて、シエルは訝しんだ。
「あのさ」
 アロイスは声をひそめた。
「その名前、本名じゃないって言ったら、信じる?」
「えっ?」
「先生、今はセバスチャン・ミカエリスだっけ? でもそんな名前じゃなかったんだ、去年までは」
「去年まで……?」
 どういうことなんだろう。シエルは続きを待った。
「この話すると、俺、トラウマで気持ち悪くなっちゃうんだけど……君は先生のことなんにも知らないみたいだから、心配で……」
 シエルに向かって眉をひそめた。
「なんのこと?」
 名前? トラウマ? 
 気になってシエルが聞き返すと、アロイスはカプチーノに砂糖をたっぷりと入れ、くるくるとスプーンでかき回した。
「──去年の夏、先生が俺にピアノを教えてくれることになってさ、俺は嬉しかったんだ。だって、先生はすごくカッコいいし、優しいしさ。面接で見た途端に、俺、すっかり気に入っちゃって。だけど、少しずつ、先生の様子がおかしくなってきたんだ」
 アロイスの表情が暗く翳った。
「レッスンの時に、俺の髪に触ったり、耳元に唇近づけたりするんだよ。気持ち悪かったけど、こっちは習ってる側だし、それに俺、先生に嫌われたくなかったんだよね。だから我慢してたら、だんだんエスカレートしてきてさ、ある日、キスさせてくれって言いだしたんだ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
 アロイスが悲しげな表情を浮かべて、シエルを見た。
「俺のこと信じてくれないの……?」
「──だって、ミカエリスさんがそんな……」
「君が、先生はいい人だって、思いたいのはわかるけどさ。でも本当に……。ごめん、この先はもう話さないよ。嫌なこと聞かせちゃったね。俺、もう帰るね」
 アロイスはカプチーノをぐいと一気に飲むと、席を立とうとした。
 シエルは慌てて、ひきとめる。
「待って。続きを……」
「でもきっと、もっと嫌な気持ちになるよ。それでも聞きたい?」
 心配そうにシエルの顔をのぞきこんだアロイスに、シエルはこくんとうなずいてみせる。
「……それで、俺がキスを拒んだら──先生はいきなり襲いかかってきて、抵抗すると無理やり、シャツをビリビリ破いて……」
「そんなことあるわけない!」
 シエルは大声で遮った。
「本当のことなんだ」
 アロイスは涙で瞳を潤ませ、訴えた。
「俺の叫び声を聞いて、クロードがすぐに駆けつけてくれて。それで俺は助かったけれども、先生はね……。クロードが通報して、警官がいっぱい屋敷に来て、捕まっちゃったんだ」
 シエルの頭は混乱してぐちゃぐちゃになっていた。
 ミカエリスさんが警察に?
 アロイスをレイプしようとして?
「でさ」
 アロイスは話を続ける。
「裁判になって、結局先生に懲役二十年の判決が出たの。まあ、そうだよね。未成年者ってだけじゃなくて、同性をレイプしようとしたんだから、児童レイプ未遂&同性愛犯罪のダブルになっちゃったわけ。でも、俺って、すごくいい奴だし、先生のこと好きだから、『先生を助けて』って裁判官やみんなにお願いしてさ。それで先生は懲役十年か、薬物療法か、どちらかを選ぶことになったんだ。結果、先生は薬物療法のほうを選んだんだけど、それはそれで屈辱的だよね……」
「屈辱的……?」
「知らないの? 薬物療法って、薬で去勢されるってことだよ。性欲持たないように、ホルモン剤飲まされるの。一生」
「ッ」
 シエルははっと思い出した。
 セバスチャンの部屋。
 散らかったガラステーブルの上。白い袋に入ったたくさんの薬──。
「そういう刑罰があるんだよ。この国には」
 英国の闇だよね、とアロイスは顔をしかめる。
「それで、先生はね」
 アロイスはまだ続けようとする。シエルは座っているのも辛くなった。もう聞きたくない。耳をふさぐようにして立ち上がると、アロイスは追い討ちをかけるように、
「先生は地元にいられなくなって、名前を変えて、ロンドンに引っ越したんだ」
「名前を変えて……?」
「そ。加害者救済プログラムとかっていってさ、 犯罪者が人生をやり直すために、司法省が決めた制度」
「……」
「俺の言ってること、信じないの? 疑うんなら、先生に聞いてみたら?」
 嘘だ。
 アロイスの言っていることは、全部嘘だ。
 ミカエリスさんがそんな人であるわけがない。
 でも。
 エリザベスとの会話が脳裏をよぎる。

──名前は何て言うの?
──セバスチャン・ミカエリス
──なにしてる人?
──……知らない

 僕が知っているのは、ミカエリスさんの名前。それからピアノを弾くこと。ただそれだけ。
 でも、彼の名は本当の名ではなかった……? 
 ミカエリスさんは犯罪者だった……?

 足元から世界が崩れそうな気がした。