第五話
「座ってください。きちんと話します」
シエルの腕を掴んだまま、セバスチャンは言った。
シエルはのろのろと席につこうとする。
その途端、バタンとカフェの扉が開き、
「シエル!」
店内に少女の声が響きわたった。
「シエル、大丈夫っ?」
エリザベスだった。部活の帰り道、カフェの前を通りかかったら、シエルが男に腕を掴まれているのが目に入ったのだ。
「エリザベス……!」
エリザベスはシエルをかばうように前に出て、キッとセバスチャンを睨みつけた。
「貴方はなんなんですか? シエルを放してください!」
詰るようにきつく言われて、セバスチャンは急いで手を放した。
「貴方……前にもシエルを追いかけていましたよね!」
銀杏並木の坂道。レコードショップにいたシエルに向かって、道を渡ってこようとした男の人。
エリザベスはセバスチャンを睨みつけた。
「それは……」
「迷惑なんです。もう、シエルにつきまとわないでください!」
「エリザベス!」
シエルが諌めようとしても、エリザベスは耳を貸さない。シエルを強く引っ張り、扉を開けて、ぐいぐいと外に出て行く。
アロイスの出来事がショックで、シエルはエリザベスの勢いを止めることができなかった。引きずられるように歩いていくシエルの背中で、大きな音を立ててカフェの扉が閉まる。
店内はしぃんと静まり返っていた。
「……」
買ったばかりの青いマフラーがくしゃくしゃになって、床に落ちている。
セバスチャンは身をかがめ、ゆっくりとマフラーを拾い上げた。
「ねえ、シエル、どういうことなの? あの人は誰なの。なんでカフェに一緒にいたの? 無理やりシエルを連れ込んだの?」
「違う!」
「じゃ、なに?」
「……」
「黙っていたんじゃ、わからないわ。ちゃんと説明して」
説明ってなにを?
毎週木曜日にふたりで会っていること?
僕がミカエリスさんを好きなこと?
そんなことエリザベスに言えるわけがない
シエルの胸は悲しくて押しつぶされそうだった。
もうわけがわからない。
綺麗な金髪の男の子。
先生と生徒。
ピアノ。
懸命に説明しようとする、ミカエリスさん。
せっかく話を聞こうと思ったのに。
エリザベスがやってきて。無理やり外に連れていかれて。
悲しくて、悔しくて、息がつまる。
──ただ、彼と一緒にいたい。それだけなのに。
どうしてこんなことになるんだろう。
「……あの人は、悪い人じゃないよ」
「名前は何て言うの?」
「セバスチャン・ミカエリス」
「なにしてる人?」
「……知らない」
「どこに住んでるの?」
「……知らない」
「シエル……」
僕はミカエリスさんのことを何も知らない。
知っているのは名前だけ……。
エリザベスは、いまにも泣き出しそうなシエルの顔を見て、黙ってしまった。
そのまま、ふたりは黙々と家路を行く。
街にはクリスマスソングが明るく流れている。
その陽気なメロディがシエルの気持ちを一層暗くした。
***
──貴方はなんなんですか?
──もう、シエルにつきまとわないでください!
少女のあの瞳。警戒心にあふれた視線。拒絶の表情。
「……嗚呼」
幼馴染の腕を掴んでいる男など、怪しまれてもしかたがない。
それに。
──先生の居場所もわかったことだし、いつでも会えるね!
アロイスが、蛇のようにつきまとってくる。まさか保護観察官のあとをつけてまで、私の居所を調べるとは。家に来られたら、一体どうしたらよいのだ。ウィリアム保護観察官にでも見られたら……。
「八方塞がりだ……」
なにより、シエルに説明できなかったのが辛かった。アロイスのことを誤解されたまま、引き離されて。
──ただ彼と一緒にいたい。それだけなのに。
どうしてこんなことになるのだろう。
大きく息を吐いたとき、電話が鳴った。
出たくはなかったが、もしもウィリアム保護観察官だったら、無視すれば厄介なことになる。セバスチャンはしぶしぶ受話器をとった。
「もしもし」
「ねえ、シエル・ファントムハイヴのことなんだけれど」
グレルだった。いま一番触れられたくない相手の名を聞かされる。
「もしもし? 聞いてる?」
「ええ」
「あの子はネ、本気でやめておいたほうがいいワ」
「──どういうことです」
「名前に覚えがあって、司法省の資料を調べてみたのヨ。そしたら、やっぱり事件に関わっているじゃない」
「事件?」
「そう。三年前にネ……」
表沙汰にはされなかったが、シエルが誘拐されたことをグレルは話した。一ヶ月の間監禁されて、そのとき双子の兄を殺されたことも。
「あの子もだいぶダメージを負ったんだけど、母親が神経をやられちゃってネ。自分の息子に、児童レイプ未遂の判決を受けた男が──アタシはアンタがそんなことしてないってわかっているケド──近づいているって知ったら、あることないこと妄想されて、もしかしたら訴えられるかもしれない。そうなったらもう最悪ヨ。刑務所送りになって一生出られない、なんてことになるかも。全然しゃれにならないワ」
「……」
「シエル・ファントムハイヴにはもう関わらない方がいいワ」
──……エリザベスは僕が他の人間と関わるのを怖がっていて。
あれは、彼が過去に誘拐されたことが、影響しているのだろう。
だから、あんなに彼女は必死になって、彼を守ろうとしたのだ。
「諦めなさい」
「そう、ですね……」
諦められるわけがない、とセバスチャンは思った。
彼のことを考えるだけで、この血は湧きたち、生きている実感が得られるのに。
彼を諦めて、再び死んだような日々を生きるのか。一生あの薬を飲んで。
「……じゃ、切るわヨ。ウィルにはくれぐれも気をつけてネ。アタシもできるだけアンタを助けるから」
グレルは元気づけるように言うと、電話を切った。
セバスチャンは受話器を握ったまま、立ちすくむ。
──彼とは、もう会ってはならない。それが自分を守る唯一の方法なのだ。
胸が、引き裂かれるような思いがした。
***
エリザベスはシエルの母に、セバスチャンについてなにも言わなかった。シエルに対して思うことがあったのかもしれない。放課後から今まで、ずっと自分と一緒にいたことにして、帰っていった。
「シエル、夕食は?」
「いらない。もう寝る」
「そう……」
母は不安げな顔をしていたけれど、それ以上シエルに話しかけることはなかった。
どさりと自室のベッドに横になる。
あの青いチェックのマフラーが脳裏をよぎる。ミカエリスさんが贈ってくれたのに、投げ捨てるようにして置いてきてしまった。
「せっかく、プレゼントしてくれたのに……」
けれど次の瞬間には、あの金髪の男の子の顔が浮かんでくる。
あの子はミカエリスさんのなんなんだろう。すごく親しげで。あんなに近寄って。
シエルの心の中に、嫉妬めいた気持ちが湧いてくる。
いやだ。
すごくいやだ。
ミカエリスさんに近づいて欲しくない。
「また、ミカエリスさんと会えるんだろうか」
両膝を抱えて丸くなる。
あんな風にカフェを出てしまって。
家も電話も知らない。次の木曜日に会えるかどうかもわからない。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。
──こんなに会いたいのに。
涙が頰を伝う。
「あ……」
ふと、ピアノの音が幽かに聴こえてきた。この曲は知っている。学校の授業で習った曲。
──亡き王女のためのパヴァーヌ。
その音色は悲しいくらい美しかった。ピアノは繊細にメロディーを紡ぎ、切々と胸に訴えてくる。
「誰が弾いているんだろう……」
シエルは立ち上がって窓を開けた。
音はさほど遠くはない。
母はきっともう眠っているだろう。
シエルは、今夜どうしてもピアノの主を見つけ出したかった。
音を立てないように階下に下りると、そっと家を抜け出した。
夜の住宅街はひっそりと眠っているようだった。
コートも着ずに家を出てきたシエルは、風の冷たさにぶるっと身震いする。
ケンジントンのはずれまで来ると、ピアノの音がだんだん近くなってきた。
ドキドキとシエルの胸が高鳴る。
白亜のマンションの前を通り過ぎたとき、カーテンのない窓が見えた。
このあたりにはふさわしくない小さな家。部屋に明かりは灯っていない。
月明かりでほのかに見える室内に、ピアノを弾く男がいた。
そのピアノから溢れ出てくるメロディは、「亡き王女のためのパヴァーヌ」。
──この人だ。僕がずっと聴いていたのはこの人のピアノ。
ドビュッシー、ショパン、サティ……これまで弾いていたのはこの人なんだ。
アップライトのピアノの鍵盤の上を、綺麗な長い指が滑らかに動いている。
長めの前髪が額に垂れている。
シエルは、窓のそばまで一歩進み、男の姿をじっと見た。
気配を察したのだろうか。
男は指を止めると、こちらを見て立ち上がり、窓辺に近づく。
「っ」
息をのんだ。
すらりとした長身、艶のある黒髪。
男が、すうっと窓を開ける。
シエルを見るなり、目を瞠った。
「どうして……?」
掠れた声でシエルに聞く。その声は──
「……ミカエリスさん?」
嗚呼──。
どうして彼はこうやって突然、現れるのだろう。
そうして私の心を浚っていく。
もう彼には関わらない。会わないと心に決めたのに。
ぎゅっと両手の拳を握った。
けれど、心は惹かれてしまう。
セバスチャンは足を踏み出し、シエルに近づいた。そのまま、吸い寄せられるようにシエルのもとへ辿り着くと、シエルを、この世で誰よりも愛しい人を、抱きしめた。
突然、優しい力で包まれて、シエルは少し驚いたけれど、怖くはなかった。心のどこかにやっぱりという気持ちもあって──ミカエリスさんも僕のことを少しは想っていてくれたんだという思いが、シエルを幸せにさせた。
大きな手が自分の髪を撫でてくれる。そのたびに心が震えるほど嬉しかった。
シエルはおそるおそる、セバスチャンの身体に腕を回した。ぴくりと彼の大きな身体が震える。
──なぜこんなにも惹かれるんだろう。
──なぜこんなにも懐かしいのだろう。
愛おしく、切ない気持ちでいっぱいになる。
セバスチャンは、身体を少し離した。
紅茶色の瞳。蒼と紫の瞳。視線が交差する。
ゆっくりと、どちらからともなく顔を寄せ……くちづけた。
甘いくちづけだった。
セバスチャンは優しく、シエルの上唇を噛む。そろりと唇を舐められて、シエルの身体が震えた。
「ん……ぅ」
そっとためらうように舌が入ってくる。唇を軽く広げられ、歯列をするりと舐められた。ぞくぞくと背筋に甘い痺れが走る。やわらかく舌を吸われ、搦めとられて、少しずつ身体の力が抜けていく。
──気持ちがいい。
もっと、もっとキスして。
すがりつくように、セバスチャンを抱きしめる。
耳元で、
「シエル……」
甘くささやかれた。初めて呼ばれた『名前』。
「っ」
瞬間。シエルは反射でセバスチャンの胸を押した。
セバスチャンがはっと身を引く。
「っ、ごめんなさい」
「ちが……、違う」
「すみません」
もう一度謝るセバスチャンの顔を、シエルは弱々しく見上げた。
「違うんだ……。僕は、シエルじゃない」
「え……っ?」
「『シエル』じゃないんだ」