第三話
──あのピアノは誰が弾いているんだろう。
翌日。授業が終わるなり、シエルはレコードショップに向かって走った。
──あの曲は確かにショパンのノクターンだった。
レコードを買ったその日に、誰かが同じ曲を弾いているなんて。
もしかしたら。
もしかしたら、ミカエリスさんが弾いていた、とか……?
「そんな偶然あるはずない」
シエルはかぶりを振った。だいたい彼がピアノを弾くかどうかさえわからないのに。自分の家の近くで、ショパンを弾いていたなんて都合のいい妄想だ。
──今日も来てるだろうか。
レコードショップになんて毎日来るわけないけど、でも、もしも来ていたらノクターンの感想を伝えたい。それからまたカフェに誘って、一緒にカプチーノを……いやだめだ。そんなにずうずうしくしたら、嫌われてしまう。ああ……でも話がしたい。あの声をもっと聞きたい。
ジェットコースターのように感情を上下させながら、シエルは雑踏の中を駆けていく。
秋の日差しが眩しい。
銀杏並木から黄色く色づいた葉がはらはらと落ちてくる。
はあはあと息を切らせて、窓の外からレコードショップを覗けば、
「いた!」
思わず声が出て、慌てて口を押さえた。
黒のニットに、グレーのツイードのジャケットを着たセバスチャンが長めの前髪を揺らし、少し物憂げな表情を浮かべて、レコードラックを眺めている。店内の客が賑やかに喋りながらレコードを選んでいる中、彼の周囲だけ静謐な空気が流れていた。
「こんにちは」
小声で挨拶すると、セバスチャンは目を細めて、口元を上げた。
「こんにちは」
その声にはやはり甘い響きがあって、シエルの胸は高鳴ってしまう。
「ノクターン、聴きました」
「どうでした?」
「よかったです。なんていうか、子どもが弾いているみたいな、純粋な感じがしました」
「そうですね」
言って、セバスチャンはすっと背筋を伸ばした。いきなり空気が変わる。
「彼女の演奏を聴くと、幼子がおもちゃのピアノで無邪気に戯れているような、そんな心持ちがします。叩くようなタッチで、少し硬い響きなんですが……あの音はあの人にしか出せない音ですね」
真剣な口調に思わず引き込まれてしまう。
シエルはつい、
「それで、レコードを聴いていたら、外からまたピアノの音が……」
と言ってしまった。
「ピアノの?」
「あの、もしかして……」
いや、あれがミカエリスさんだとは限らないんだ。そんなこと聞いて、変な子だと思われたら恥ずかしい。
シエルは慌てて話をそらした。
「いえ! よかったら、また音楽の話を聞かせてもらえませんか。あのカフェで……」
断られるかもしれないとドキドキしながら、セバスチャンをカフェに誘う。彼はうなずいてくれて、ふたりは角のカフェに行く。昨日座った窓際の席に座り、カプチーノを注文する。
「──ショパンといえば、少し変わったエピソードがあるんですよ」
「変わったエピソード?」
「ええ。ショパンの心臓と身体は別々のところに埋葬されているのです」
「えっ!」
「身体は祖国ポーランドの墓地に、心臓はパリの聖教会の一番古い柱の下にあるのですよ」
「どうしてそんなことに?」
「それは……」
シエルはすっかり話に引き込まれていた。
***
次の日もシエルはレコードショップに行きたかった。けれど、それは叶わなかった。
隣にエリザベスが、べったりとくっついていたからだ。
「シエルったら、昨日も黙って帰っちゃうんだもん、心配したわ」
寄り道しなかったでしょうね? と顔を覗き込むエリザベスに、
「──するわけない。まっすぐ帰ったよ」
ぶっきらぼうに答えた。
母と同様、エリザベスもシエルを監視しているかのようだ。いくら三年前の誘拐事件のせいだとしても、束縛されるのは嫌だ。
内心ため息を吐いていると、
「今日、レコード見てく?」
と聞かれた。
一瞬どうしようか迷ったけれど、
「いや……いい」
首を横に振った。
今日もまたミカエリスさんがいたら、話をしたいけど、エリザベスが一緒ではだめだ。あのときだって、母に『知らない男の人に追いかけられた』と報告していた。店で彼がシエルに近寄ってきたら、なんて言われるか。
ミカエリスさんに迷惑はかけられない。エリザベスには内緒にしなければ。
シエルはきっぱりと言った。
「今日は寄らない」
といっても、あの道はエリザベスのお気に入りの道だ。自然と足は向かってしまう。
黄色い落葉を踏みながら坂道を下ると、レコードショップが近づいてくる。ガラス越しに、背の高い彼の姿が目に入った。
──いる!
店内にいたセバスチャンがシエルに気づき、微笑みかけたが、シエルはなにも言えず、前を歩くエリザベスの背中を指差して、すまなさそうに頭を下げて通り過ぎた。
次の日のことである。
カフェで、シエルは昨日素通りしてしまったことを謝った。
「ガールフレンド、ですか?」
「まさか! エリザベスは僕のいとこで、小さい頃からよく遊んでいて……それだけです」
「そう、ですか」
ふと沈黙が落ちる。
「──……彼女は、僕が知らない人間と関わるのが怖いみたいで」
「怖い?」
「なんて言ったらいいのか、その……」
誘拐されたことを、この人に話してもいいんだろうか。
「その、三年前に、僕は──」
突然ひくっと喉が震えた。
──あ……まずい。
胸がザワザワする。気持ちが悪い。
あのときの、監禁されたときの記憶が、心の奥から蘇ってくる。
見知らぬ男の嗤い。
檻の中の暮らし。
シエルの絶叫。
生き残った『おまけ』の僕。
嘘つきの僕。
『シエル』じゃないシエル。
僕は、僕は、僕の本当の名前は……!
喉がひゅーひゅーと妙な音を立てる。
「大丈夫ですか?」
セバスチャンが席を立って、シエルの前に屈み込む。その手をぐっと掴んだ。
「だ、い……」
話そうとすればするほど、呼吸が辛くなる。
溢れ出る記憶、溢れ出る想い。
シエル! 助けて、シエル!
──大丈夫、お前は僕が守ってあげる。
僕を抱きしめてくれた双子の兄は、あっけなく殺されてしまった。
違う。
僕は『シエル』だ。
『シエル』はこんなことで倒れたりしない。
ちゃんと『シエル』のようにしなきゃ。
大丈夫。僕は、大丈夫。
「だいじょうぶ、です」
はっきりと、言えた。
呼吸がおさまっていく。
滲んでいた視界がクリアになっていく。
目の前には心配そうなミカエリスさんの顔。
両手で彼の手首を掴んでいることに気づき、シエルはパッと手を放した。
「あ……すみません」
「いえ。少し落ち着きましたか」
「はい。もう、大丈夫です」
まだ青い顔をしている。セバスチャンは、そっと手を差し伸べた。
「今日はもう帰りましょう。家まで送っていきますよ」
「──いえ」
シエルは優しい言葉に、かぶりを振った。
送ってもらったら、きっと母は見知らぬ男を見て大騒ぎするだろう。
ミカエリスさんに不快な思いをさせてしまう。
「ひとりで帰れます」
「……そうですか」
ふたりは席を立ち、外に出た。冷たい秋風に頭がすっきりとしてくる。
ふと、シエルは足を止めた。
「そうだ、木曜日……!」
「え?」
「木曜日なら、絶対大丈夫です」
セバスチャンはなんのことかわからないらしく、きょとんとしている。
「エリザベスはフェンシング部の練習があるから、木曜日なら僕は自由に来られるんです」
「そんな無理をしなくてもいいのですよ。体調がよくなったら、また……」
「無理じゃないです!」
次の約束をしたい、僕が貴方に会いたいんだ、と言いかけて口をつぐんだ。そんなことを言ったら、引かれてしまう。
「僕……音楽の話をもっと聞きたいです。もしも貴方がよかったら、木曜日に待ち合わせするっていうのはどうですか?」
心配げだったセバスチャンの顔が、少し明るくなった。
「私も貴方と話をするのは楽しいですよ。引っ越してきたばかりで友人もいませんし……」
「なら、僕が友達になります! あ、随分年下ですけど、いや、随分じゃないですよね、えっと」
「貴方より十歳は上ですよ」
おろおろしているシエルを見て、クスクスとセバスチャンは笑う。
「でも、年下の友人を持つのは嬉しいですね」
「僕も、年上の友達がいるのは頼もしいです」
ふたりは顔を見合わせると、互いに小さく笑みを零した。
毎週木曜日。
学校が終わり、シエルが息を切らせてレコードショップの扉を押すと、セバスチャンが微笑んで迎えてくれる。会えば必ず、角のカフェに寄って話をした。店のマスターともすっかり顔なじみになって、シエルとセバスチャンが来ると、すぐにカプチーノを淹れてくれるようになった。
最初のときをのぞけば、セバスチャンがいつもシエルのカプチーノ代を払ってくれて、申し訳ない気がしたけれど、デートしているようで、シエルは内心嬉しかった。
「もう身体は大丈夫なのですか?」
「はい、全然平気です」
言って、シエルはにこっとしてみせる。
ふたりの話題はほぼ音楽のことだった。
セバスチャンは自分の話はほとんどせず、シエルが聞いても、いつのまにかはぐらかされ、音楽の話に戻
されてしまう。
──ミカエリスさんの好きなものを知りたい。
「貴方は誰の音楽が好きなんですか」
ある日、さりげなく訊ねてみた。
「そうですね。十九世紀の作曲家が好みなのですが……なかでもサティ、でしょうか」
「サティ?」
初めて聞く名前だった。
セバスチャンはテーブルの上で長い指を組み、優しく講義をするように語りかける。
「十九世紀から二十世紀にかけて活躍した音楽家です。創作バレエの作曲をしたり、パリでボヘミアンたちと交流したり……。当時は前衛的だと批判を受けたのですが、彼のつくる音楽は繊細で、とても魅力的です」
「そうなんですか」
「特にジムノペディは美しく幻想的な曲です。淡々としていて、生と死のあわいのような……。やれやれ、うまく説明できていませんね」
苦笑した。
その笑みさえも素敵で、シエルを魅了する。
「よかったら、今度サティのアルバムをお貸ししましょうか?」
「え、いいんですか?」
嬉しくて、声が裏返りそうになった。
「もちろん。来週の木曜日に持ってきます」
「ありがとうございます」
それから、シエルは前から気になっていたことを聞いてみた。
「あの、貴方はなにか楽器をやっていないんですか? ピアノとかバイオリンとか……」
その瞬間、セバスチャンの表情が硬くなった。
「いえ──私はただ聴くだけです。なにもやっていませんよ」
冷たく突き放された。
***
──貴方はなにか楽器をやっていないんですか? ピアノとかバイオリンとか……
彼の声が脳裏に響く。
無邪気な質問だったのに、気づけば冷たい態度をとっていた。あの後、彼はあまり口をきかず、しょんぼりした様子で帰っていった。
「嗚呼……」
せっかく距離が近づいたのに、また遠のいたようでセバスチャンは自分を責めた。
たかが、あんな質問に動揺するなんて。
のろのろとピアノの前に座った。
蓋の上に肘をつき、組んだ両手に額をつける。
──いったい私はなにをしているのだろう。
あれほど子どもに近づいてはダメだと言われているのに、毎週、あの少年と会っている。
木曜日が死ぬほど待ち遠しい。
あの子に会えると思ったら、その喜びだけで辛い日々を耐えられる。
なのに。
楽器のことを聞かれて、気持ちが揺れた。
ピアノを弾いているなどと言えば、いずれ過去とつながって、身元がバレてしまうかもしれない。
それがひたすら怖かった。
身を偽っていることが、こんなにも苦しいとは。
心を開いて、彼と思う存分話をしたい。
──でもそれは叶わないことなのだ。私は犯罪者の烙印を押されているのだから。
唇をきゅっと結ぶと、セバスチャンは蓋を上げ、鍵盤に指をのせた。
奏でるのは、サティの音楽。
生と死のあわいのような旋律。
いま、自分のいる場所もそんな所だ。
あまりにも理不尽で辛い人生と死の間に、シエルという光が射している。
ジムノペディをゆっくりと弾く。
一番から三番まであるこの曲は、現代ではあまり流れることはない。きっと知らない人間の方が多いだろう。名曲であるのに、もっと広く知られればいいのにと思いつつ、けれど誰の目からも隠しておきたい、自分だけが知っていればいい。そんな曲だった。
主旋律は美しく滑らかで、何度も繰り返される。
寄せては返す波のように──。
イングランド北部
ウィンダミア湖畔 トランシー邸
広大な屋敷の書斎で、金髪の少年が机の上の豪華なケーキを、フォークでつついてバラバラにしていた。
「ねえ、クロード、あいつどこ行ったのか、まだわかんないの?」
「はい、旦那様」
アロイスの執事は淡々と答え、空になったティーカップに優雅な仕草で紅茶を注いだ。
「ウィリアムという保護観察官に連絡しても、なにも情報は得られませんでした」
「なにも情報は得られませんでした、じゃなくてさ! クロード」
ちょいちょいと人差し指でクロードを呼ぶ。
「はい」
前屈みになったクロードのタイをぐっと引っ張り、きつく絞め上げる。
「自分の足で調べろよ! こんなところで茶なんか出してなくてさ、ほら行けよ!」
どんとクロードを押す。
次の瞬間、アロイスは眉を寄せて、
「ごめん、クロード。痛かった?」
と涙を浮かべて椅子から降り、クロードの腰にすがった。
「いえ。大丈夫です、旦那様」
クロードは無表情にタイを直すと、
「では行ってまいります」
と部屋から出ていった。
あとに残ったアロイスは、にやりと口元を上げ、
「絶対見つけ出してやる──『先生』」
ぺろりと舌を出した。