第二話
家に戻ると、セバスチャンは自分がひどく疲れていることに気がついた。濡れたトレンチコートを脱ぎ捨てて、水を一杯飲み、シンクに手をついて、大きく息を吐く。
帰って来れば後悔の念が湧いてくる。
やはり、追いかけるべきだった。
せめて一言だけでも言葉を交わせたら……と、いつまでも同じことを考えている自分に嫌気がさす。
ふと部屋の片隅のピアノに目がとまった。
「……」
ピアノなんて今更、と思っていたのに。
吸い寄せられるようにして、ピアノの前に立ち、厚く積もったほこりを払う。
そっと蓋を開いた。
白と黒の鍵盤がひっそりと佇んでいる。
「嗚呼、随分ひさしぶりですね」
その声に応えるかのように、鍵盤が震えた……ような気がした。
深紅のビロードの椅子に座り、鍵盤に手を置く。
セバスチャンはすっと姿勢を正して、弾き始めた。
ドビュッシー『月の光』。
美しい旋律がピアノから溢れ出てくる。導かれ、音を紡ぎ続けていると、己が静かに消え去って、奏でる音だけが夜に溶け込んでいく。
一度弾き始めると、もう止まらなかった。
はじめこそ、自分の心を慰めるためだったが、次第に曲そのものを弾くことに集中する。
ドビュッシー、シューベルト、リスト、サティ……次から次へと曲を弾き続けた。が、突然コツコツと深夜の通りを歩く靴音が耳に入って、ここが住宅街であることを思い出し、名残惜しく鍵盤から手を離した。
翌朝も起きてすぐ、朝食もとらずに弾き始めた。長く休んでいたせいで、指は前ほど動かず、苛立ちを覚えるときもあったが、ピアノを弾く喜びのほうがまさっていた。
心が軽やかにほぐれていく。蒼銀色の髪の少年のことを想い出して胸が高鳴る。
綺麗な横顔を思い浮かべながら、ショパンの『子犬のワルツ』を弾き始めた、そのとき。
パチ、パチと乾いた拍手が背後から聴こえた。
「ッ」
はっとして振り返ると、見知った男が立っていた。
ウィリアム・T・スピアーズ。
グレルの職場の同僚だ。そして私の──。
「……家屋不法侵入ですよ」
「私はこの家の鍵を預かっています。貴方の保護観察官なのですから、無断で入ったとしても、何ら問題はありません。これは公務員による定期訪問です。変態がきちんと規則を守っているかどうか、確認しに来たのです」
「変態ではありません」
「それでは犯罪者、と言い換えましょうか」
「私は犯罪者ではありません」
「自分の教え子に手を出しておいて、よく言いますね。あの子は心に傷を負って、いまもピアノに触ることができないそうですよ」
「私はなにもしていません。あの子が勝手に……」
そう。あの子が勝手に事を起こしたのだ。
……あの事件のことは一年経ったいまでも、まるで昨日のことのように覚えている。
音大を卒業し、プロのピアニストを目指していたセバスチャンは、指の腱を痛め、子どもの頃からの夢を諦めなければならなかった。失意のうちに過ごしていたとき、父の知人の子どもにピアノを教えて欲しいと頼まれたのだ。
どうせ無聊をかこっているのだ。面白半分に面接に行ってみれば、その家は元貴族というだけあって、湖のほとりに立つ広大な邸宅に、セバスチャンは少し臆した。
その子ども──アロイス・トランシーといった──に両親はおらず、後見人の叔父に養われていたが、実際にはクロードという執事が叔父に代わって彼の世話をしていた。アロイスは金髪で碧色の明るい瞳、口は悪いが、素直そうな子どもで、屋敷を訪れたセバスチャンに好奇心をむきだしにして、まとわりついてきた。
「いい匂いがする……」
アロイスは背伸びをして、くんくんとセバスチャンの襟元に鼻を近づける。無防備なその姿に、年のわりには幼い少年というのが、セバスチャンが受けたアロイスの第一印象だった。
面接の結果は合格。
トランシー家に週に一度、ピアノを教えるために通うことになったのだ。
アロイスは器用で、楽譜をみればすぐに弾きこなしたが、気まぐれで、ピアニストも舌をまくほどうまく弾く日もあれば、ピアノに触れたのがまるで生まれて初めてのように、たどたどしく指を動かすときもあり……日によっては鍵盤を暴力的に叩くこともあって、セバスチャンは手を焼いた。しかし概ね、ふたりはピアノ教師と生徒として悪くない関係を築いていた。
ある日の午後、アロイスがセバスチャンにもたれかかり、
「先生。先生は俺のこと、どう思ってる?」
と上目遣いに聞いてきた。
セバスチャンは、生徒として評価してもらいたいのだと思い、
「とても優秀な生徒だと思っていますよ。ただ、もう少しむら気を抑えてもらえるとよいのですがね」
と微笑んだ。
しかし、アロイスが訊ねたかったのは、そういうことではなかった。
「俺、先生のこと好き。ねえ、先生は俺が好き?」
次のレッスンのときに、頬を染めながらそう聞かれ、セバスチャンはその意味を察した。
その日はわからぬふりをしてごまかしたものの、内心困惑していた。
少年に性的な興味などない。自分に同性愛の嗜好はない。教え子に手をだすつもりなどなく、セバスチャンはそのつどやんわりと逃げた。
けれど次のときも、また次のときも、アロイスは好意を訴え、先生に抱きしめて欲しい、キスして欲しいと、次第に要求はエスカレートしていった。
そしてあの日、事件は起こったのだ。
「先生、俺を抱いて……」
アロイスは自分のシャツをはだけ、セバスチャンに身体を寄せた。
「俺の気持ち、わかっているはず」
「ええ、でもそれは貴方の一時的な気の迷いですよ。それに未成年者と愛を交わすことは、法律で禁じられています」
「俺が黙っていれば、誰にもわからないよ。ねえ、先生、キスだけでもして、お願い」
セバスチャンの首に腕を絡めて、唇を求めてくる。セバスチャンは思わず顔を背けてしまった。
「っ、先生は俺が嫌いなの?」
「いえ、生徒として好きですよ」
「でもキスもしてくれないんだ……」
アロイスは哀しげにセバスチャンを見上げると、
「先生が俺を相手にしてくれないんなら」
碧の瞳をギラリと光らせ、アロイスは突然、自分のシャツをビリビリ破ったかと思うと、叫び出した。
「助けて! 助けて、先生が……」
「え……?」
「やめて! 先生、やめて……っ」
なにが起きたのか、セバスチャンにはわからなかった。呆然としていると、叫び声を聞いた執事が駆けつけてきた。
「旦那様、どうなさいました」
アロイスは叫びながら泣き始め、
「クロード! 先生が俺を……っ」
執事はアロイスのシャツがみじめに破れているのを見てとると、燕尾服を脱ぎ、そっと主人にかけた。
振り返ってセバスチャンに向かい、
「これはいったいどういうことなのでしょう」
鋭い口調で問い質した。
ことの展開に驚いていたセバスチャンは、しどろもどろになって説明し始めたが、アロイスは悲鳴でさえぎり、被害者であることを演じきったのである──。
***
セバスチャンはウィリアムに向かって訴えた。
「あの子が自分でやったことなのです。何度も裁判で証言しました」
だがウィリアムは歯牙にもかけない。
「そんな嘘までついて、罪を逃れようとするなんて。貴方もたいしたタマですね」
「ですから! あの子が自分のシャツを破って、大声で叫んで……!」
「まだたった十歳ですよ。そんな子どもがあんなことを自らするはずがない!」
この男のように、裁判でいくら訴えても、誰も耳を貸してくれなかった。弁護士でさえ、「早く罪を認めたほうが、量刑が軽くなりますよ」と呆れたように言ったのだ。
──誰にも信じてもらえない。
セバスチャンは無力感に襲われ、以降の裁判では一言も喋らずに、他人が好き勝手に話を進めていくのを眺めるばかりだった。
セバスチャンの罪状は、児童レイプ未遂だけではなかった。相手が『少年』であることから、同性愛犯罪の嫌疑もかけられていたのである(この時代の英国では、同性愛行為は忌むべき犯罪だった)。
この二つの罪で、本来ならばセバスチャンは懲役二十年以上の実刑となるはずだった。しかし、被害者の少年、アロイスの「先生を助けてあげて」という『たっての願い』で、懲役十年か、あるいは『薬物療法』か、選択を迫られることになったのだ。
そして、セバスチャンが選んだのは、薬物療法のほうだった。
薬物療法──。
それは英国における同性愛者への残酷な刑罰である。投獄される代わりに、毎月、意図的に女性ホルモンを摂取し、性欲と男性機能を抑えるというものだ。薬で去勢状態にするわけだが、鬱、不眠など酷い副作用があり、投与者の自殺率は高い。
「まったく、いまが二十世紀でよかったですね。昔だったら、民衆に投石されて、なぶり殺しの目に遭っていたでしょう。現代は刑務所へ行くか、薬を飲むか、自分で選べるなんて、随分甘くなったものです」
ウィリアムは雑然としたテーブルに一瞥をくれると、すたすたと歩いて残っている錠剤を几帳面に数えた。
「よろしい、きちんと飲んでいるようですね。では、こちらが来月の分です。しっかりと飲み続けるように」
「一生、ね」
「ええ、一生」
セバスチャンは白い袋を受け取った。ずしりと重い。
「檻の中に入るよりもマシでしょうに。選んだのは貴方自身ですよ」
言って、ウィルはくるりと踵を返した。足音をたてて、玄関に向かう。
「ああ、そうだ」
急になにかを思い出したように、振り向いた。
「先日、うちのバカと飲んだそうですね」
セバスチャンの背筋が一瞬凍った。
グレルとの会話が脳裏をよぎる。
──十三歳ぐらいの子で、蒼銀色の髪に蒼い瞳……嗚呼、もう片方は紫色でした。宝石のように綺麗な瞳で
──ちょっと、待って。ダメよ、子どもは
──いえ、そういう意味ではなくて、ただ、ずっと昔に会ったことのあるような気がして
グレルが彼に言いつけたのだろうか。あの会話がこの男に知られたら、私は──……!
思わず、身体をこわばらせたとき、
「気の合う者同士、楽しい夜を過ごしたそうで。貴方にも娯楽が必要ということは理解しています。人はパンのみにて生くるにあらず。鬱が高じて、自殺などされたらたまりませんから」
私の評価が下がるのはごめんです、とトレードマークのメガネをクイとあげて、出て行った。
***
怒り。悔しさ。悲しみ。
ウィリアムに過去を突きつけられて、セバスチャンの胸中はかつての感情が入り混じり、どうにもならないやるせなさにいっぱいになった。
無力感にとらわれ、自分には生きていく資格さえないように思えてくる。
ダブルのウィスキーで、向精神薬薬を流し込む。
しかしこうなるともう効かない。
セバスチャンは顔を両手で覆った。
あの蒼銀色の髪。
絹糸のような艶めく髪の間から、くっきりと見えた蒼と紫のオッドアイ。
遠い昔に見たような、懐かしささえ覚えるあの少年。
彼にもう一度会いたい。
会って、話をしたい。
その髪に触れたい。
だがそれは絶対にしてはならないことだった。
故郷を追われ、新しい名前を用意され、住まいを与えられて、こうして新たな生活を送らせてもらえる。
実家からは縁を切る代わりに、一生暮らせるだけの金を贈与された。
感謝しなくてはならないのだ。
私は犯罪者の烙印を押された者なのだから。
その烙印が消えることはない。
それから数日が過ぎた。
相変わらず日々鬱々と薬と酒に溺れていたが、その日はどうにも家にいるのが辛く、外に出た。
よく晴れた日だった。
英国の短い秋につかのま訪れた明るい空。
青い空は深く濃く、鬱屈した心の澱をすくいとってくれるようだ。
セバスチャンは思い立って、銀杏並木沿いのあのレコードショップに行くことにした。
自分で集めていたクラシック音楽のレコードは、ロンドンに引っ越してくるときに随分処分してしまった。いま持っているのはほんの数枚のみ。手放してしまったレコードの中にあった、ある演奏家のピアノをひさしぶりに聴きたい。そう思ったのだ。
けれど本当は心の奥底で、あの蒼銀色の髪をした少年が、もしかしたら店に来ているかもしれないと、かすかに期待していた。少年に関わってはならないことは十分にわかっていたが、心はどうにもならなかった。
店に客はまばらだった。
四人組のバンドの大きなポスターがレジの横に貼ってある。確かビートルズといったか。人気のあるバンドで、今もタータンチェックのミニスカートを履いた若い女の子たちが、彼らのコーナーに群がっている。
さっと店内を見回したが、あの少年はいなかった。ほっとしたような、物足りないような、そんな中途半端な気持ちで、セバスチャンはクラシックのコーナーに向かった。
ショパンのアルバム。
有名な作曲家だけに、何人もの演奏家のレコードがある。その中に目当ての老齢の女性ピアニストのアルバムがあった。これだ、と腕を伸ばしたそのとき。
脇から華奢な手が伸び、同じレコードに同時に触れた。
「っ」
横を見ると──蒼銀色の髪。
はっとした。
「あっ!」
その少年も驚いたらしい。伸ばした手を止めて、セバスチャンの顔を見上げている。
「あ……すみません。それ、どうぞ」
少年は急いで手をひっこめた。
「いえ、どうぞ」
セバスチャンはレコードを抜き取って、少年に渡そうとする。
彼は手を振って遠慮するが、再度セバスチャンがレコードを差し出すと、おずおずと受け取った。
「本当に、いいんですか」
どこか懐かしい、その響き。
「ええ」
答えると、
「ありがとうございます」
少年はボソリと呟き、軽く頭を下げる。
その様子を見れば、胸が少し温かくなる。
少年はレコードを抱え、思い切ったように、
「あの、よかったら、ちょっと待っててもらえます?」
と言った。
「えっ?」
「レコードのお礼にコーヒーとかティーとか、よかったら、その……一緒に……」
頰を赤くして、一生懸命言葉をつないでいる。
思わずセバスチャンは、
「待っています」
とうなずいてしまった。
言って、すぐに後悔した。
慌てて断ろうとしたが、もう少年はレジに走り、会計をしている。その後ろ姿を見ているうちに、到底断れないことに気づいた。
少しだけ。
ほんの少し、話をするだけ。
大丈夫。行くのはカフェだ。
密室ではない。人の目もある。
以前のようなことは起こらない。
自分に言い聞かせた。
「じゃ、行きましょう。角のカフェ、なかなかおいしいんですよ」
会計を済ませた少年は、大人のような口をきいて、セバスチャンの先に立つ。
頼もしい口調にセバスチャンは微笑んだ。
少年に連れていかれたのは、レコードショップから少し離れた角にある、こじんまりとしたカフェだった。
「あの、何にします?」
「カプチーノを」
「じゃ、僕もそれにします」
少年はちょっと照れくさそうな顔をして、笑った。
飲み物が来るまで少し手持ちぶさたで、セバスチャンは、
「クラシック音楽が好きなのですか?」
と彼に尋ねた。
「いいえ、全然」
セバスチャンは驚いた。
「それならどうしてあのレコードを?」
「……ちょっと前に、外からピアノの音が聞こえてきて。全然聞いたことのない曲なんですけど、とても綺麗なメロディで。それでなんの曲か知りたくて、もしかしてこのレコードかなって勘で手を伸ばしたら、ちょうど貴方と……」
決まり悪そうにうつむいた。
「そうなのですか」
「はい。でもこのレコードであってるかな」
首をひねりながらジャケットを見る。
「どんなメロディでした?」
「ええと」
少年は目を上に向けて、思い出そうとしていた。桜色の唇が軽く開き、メロディを紡ぎ出す。
ドビュッシーだ。
月の光。
偶然だろうか。セバスチャンがこの間、弾いていた曲だ。
「嗚呼、それはドビュッシーです。ショパンではないですよ」
「えっ?」
「そのレコードではありません。別の作曲家の曲です」
「そうなんだ! どうしよう……」
「私が買い取りましょうか?」
「……いえ。大丈夫です。自分で選んだんだし、せっかく貴方に譲ってもらったんだし。これも聞いてみたいです。あっ! そうか、貴方もこのレコード、必要なんですよね。そしたら」
「いいえ、貴方がよいのなら私は大丈夫です。ショパンもとても素敵な曲ばかりですよ。中でもノクターンは心に響きます」
「そうなんですか。楽しみになってきた」
少年は明るく笑いながら、レコードを抱きしめる。
「あの、他にもおすすめはありますか。クラシック、全然知らないから、聴いてみたいんです」
ふたりでカプチーノを飲みながら、しばしクラシック音楽の話題で盛り上がった。
「今日は楽しかったです! つきあってくれてありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそとても楽しかった」
少年はセバスチャンが払おうとするのを断り、
「僕が誘ったんだから、僕が払います」
と小さな財布からコインを出した。
「今月はまだお小遣い残っているから、大丈夫です」
「ありがとうございます」
セバスチャンは頭を下げた。
お小遣いなんて言葉をひさしぶりに聞いた。つい、口元がゆるんでしまう。
「じゃあ、これで……」
少年は軽くセバスチャンに頭を下げた。
「ええ。気をつけて帰ってください」
「はい」
ふたりとももじもじと立っている。
立ち去りがたい。もう少し一緒にいたい。
そう思っても口に出すことはできない。
セバスチャンは迷いを断ち切るように、「では」と言って、踵を返した。
と。
「待ってください」
背後から少年の声がして、セバスチャンは慌てて振り返った。
「なんでしょう」
「あの、よかったら、名前を教えていただけませんか」
「嗚呼、私は……」
一瞬、本名を言いそうになって口ごもった。自分の名は伏せなければならない。知られたら、犯罪者だとわかってしまうかもしれない。
「……セバスチャン・ミカエリスです。貴方は?」
「僕は──……」
少年は少し言い淀んだ。
「僕は、シエル。シエル・ファントムハイヴです」
シエルは明るく言ったが、その口調とは裏腹に顔に影が差していた。
「じゃあ、また。ミカエリスさん」
「ええ、また。ファントムハイヴ君」
セバスチャンがうなずくと、彼はにこっと笑って、坂を上っていった。
***
「ああ、ドキドキした」
家に帰るなり、シエルはどさっとベッドに倒れ込んだ。
放課後、エリザベスがフェンシングの練習に夢中になっているのをいいことに、ひとりでそっと学校を出て、レコードショップに行ったのだ。店に入ってすぐ、口から心臓が飛び出そうになった。
あの人がいる。
つややかな黒髪。長身のすらりとした姿。
どうにかして話をしたいと思った。
「意外と大胆だな。僕」
自分にあんな勇気があるとは思わなかった。
引き寄せられるようにして近づき、気づいたら彼の選んだレコードに手を伸ばしていた。
それからは舞い上がってしまって、あまりよく覚えていない。気づくと彼をカフェに誘っていた。会計の間に帰ってしまうのではないかとはらはらしたけれど、彼はちゃんと待っていてくれて、一緒にカフェに入って、カプチーノを飲んで。カプチーノがあんなに苦いものだって知らなかった。いつもはミルクティーにハチミツだから。
けど思ったよりも、話が盛り上がって嬉しかった。
彼の声は少し低めのテノールで、ほんの少しだけ甘くて。
思い出して、シエルの耳が熱くなった。
僕の口ずさんだメロディを聞いて、すぐにわかってくれた。
──それはドビュッシーですね。
すごい。あんな歌い方でわかるなんて。
今度、ドビュッシーのアルバムを買いに行こう。
「セバスチャン・ミカエリス……」
彼の名前を口にする。
彼の──ミカエリスさんの話はとてもおもしろかった。クラシック音楽なんてほとんど知らないけれど、また聞いてみたい。
夕食時、
「なんだか、シエル。今日は嬉しそうね」
「そう?」
「ええ、楽しそうでよかった。最近、元気がなかったから」
上の空で母の言葉を聞き流し、シエルはすぐに二階に上がった。買ったばかりのレコードをかける。
ノクターン、だっけ。
三曲めにそれが入っていた。
椅子に座って、頭の後ろで手を組み、目を瞑る。
柔らかいメロディ。
心を撫でる優しい風。
聴いてシエルはすぐに引き込まれた。
もう一度、聴こうとしたとき。
外からうっすらとピアノの音がした。
そのメロディ。
それはまさに、いまシエルが聞いていたショパンのノクターンだった。