プロローグ
……通り過ぎたとき、ふと予感がして振り向いた。
その少年も何かを感じたのだと思う。同じように振り返り、一瞬目と目が合った。
すべての音が消え、世界が消えた。
この世界にただふたりきり。
一歩、歩み寄り、そのまま腕を掴んで、抱きしめればよかったのかもしれない。
けれどその一瞬はたちまち過ぎて、街のざわめきが再び聴こえ始め、私は彼に背を向けて、友人との待ち合わせ場所に急いだ。
せめて名前だけでも聞けばよかったと気づいた頃にはもう、彼の姿は溢れる人の波にさらわれて、あの小さな背中を見つけることはできなかった。
その人とすれ違ったとき、何かに喚ばれたような気がして、くるりと振り返った。
穏やかな紅茶色の瞳が僕を見つめている。
一瞬その厚い胸に飛び込みたいと思ったけれど、僕を呼ぶ母の声に慌てて踵を返した。
けれど一歩離れるごとになぜか胸が詰まって悲しくて、涙が溢れそうになる。
心の中で何かが強く訴えている。
いま捕まえなければ。
いま追いかけなくては。
永遠に彼を失ってしまう。
僕の足は次第にのろのろと遅くなり、ついにはピタリと止まってしまった。
「シエル? どうしたの?」
傍らを歩いていた母が不安げに声をかける。
「うん……」
行かなくてはならない。
彼を見つけなくてはならない。
切羽詰まった思いに駆られて、僕はいきなり振り返ると、地面を蹴って全速力で走り始めた。
「あっ、シエル!」
母の悲鳴に似た声が追いかけたけれど、もう僕を止めることはできなかった。
あの人を。
あの黒髪の男を。
捕まえなければならないのだ。
人波をくぐって、僕は男を追いかけた。
第一話
一九六六年
ロンドン メイフェア
ホテルクラリッジズ バー「フューモア」にて
「ねえ。ちょっと! ちょっとってば! 聞いてんの?」
甲高い声にバーの客たちが一斉にカウンターを見た。
格式高いホテルクラリッジズの物静かなこのバーで、場所柄をわきまえずに大声で話す人間に、穏やかに語らっていた人々が顔をしかめる。
「え?」
「え、じゃないわヨ。もー、さっきから上の空なんだから」
「嗚呼、すみません」
「まったくどうしたのヨ。ひさしぶりに会いたいって言って来たの、アンタのほうでショ。ロンドンあたりまで呼び出されて、会ってみたらろくにこっちの顔も見やしない。失礼じゃないのヨ」
「すみません」
「すみません、すみませんって何度言ってるのヨ。どうしたのかって聞いてるの、アタシは」
赤い髪を長く伸ばした旧友──グレル・サトクリフに食ってかかられて、彼はようやく顔を上げた。
「どこかで見たような気がするんです」
「は?」
「今日、街で出会った男の子。十三歳ぐらいの子で、蒼銀色の髪に蒼い瞳……嗚呼、もう片方は紫色でした。宝石のように綺麗な瞳で……」
「ちょっと、待って。ダメよ、子どもは」
グレルが遮った。
「いえ、そういう意味ではなくて、ただ、ずっと昔に会ったことのあるような気がして」
「それでも近寄っちゃダメよ。やっとここまで来たんじゃない。名前を隠して、薬を飲んで。いまアンタの名前なんだっけ? ミカ、ミカ……?」
「ミカエリス、です。セバスチャン・ミカエリス」
「そう、それ! ねえ、それって、十九世紀の悪魔祈祷師の名前なのよネ? ウィルったら、いくらなんでもアンタにそんな名前をつけるなんて、皮肉にもほどがあるワ」
「その名で私を縛っているつもりかもしれませんよ」
セバスチャンは自分の前に置かれたショットグラスを掴んだ。指三本分ほど注がれたウィスキーをぐっと呷る。
「またそんな飲み方して。アル中になるわヨ」
「なってみたいですよ。残念ながら、私の肝臓は随分とタフなようで、そうそう中毒にはなりません」
「……ねぇ、少し参ってない?」
「多少は」
そうよネ、と呟いてグレルは嘆息した。
あんな事件に巻き込まれ、生まれ育った街を追われて、この男はひとり慣れない土地に住むことになってしまった。ただでさえ繊細な男なのに、こう理不尽な目に遭っては参っていても当然だ。
「アタシでよかったらいつでも話し相手になるから。でも、子どもだけはダメ。わかってるでショ」
「──ええ、わかっています。よくわかっていますよ」
ご希望なら夜のお相手だってするわヨ、とグレルは片目を瞑ってみせた。
セバスチャンは笑いながら、首を横に振り、空になったグラスを掲げて、バーテンにおかわりを催促した。
***
スローンスクエア駅の入口で友人と別れ、セバスチャンはタクシーも拾わずに、濡れた歩道を歩き始めた。
闇が深い。
コツコツと自分の靴音が響く。
深夜に歩く街は昏く、とても二十世紀とは思えない。
遥か昔、そうあたかも十九世紀あたりにでも時が戻ったような気持ちがする。
ほら、そこの路地から血の滴るナイフを持ったジャック・ザ・リッパーが現れる……。
「まさか、ね」
セバスチャンはクスクスと自嘲気味に笑った。
霧に濡れた前髪を片手でかきあげる。
──ダメよ、子どもは。
グレルの声が蘇り、セバスチャンの胸を苦いものがよぎった。わかっている。友人が心配するのも無理はない。『あんな事件』のあった後では、用心すべきなのだ。
──助けて! 助けて、先生が……!
少年の叫び声。
──やめて! 先生、やめて……っ!
ビリビリに裂かれたシャツ。
──動くな!
荒々しく部屋に踏み込んできたたくさんの靴音……
セバスチャンはぐっと唇を噛み締めた。
「悪夢だ……」
そうだ。あれはただの悪夢なのだ。
気にするな。気にするんじゃない。
もう終わったんだ。あの事件は終わったんだ……。
ふらつきながら、鍵をポケットから取り出して、明かりの灯っていない真っ暗な家のドアを開けた。
一日中閉め切っていた部屋の匂いがむっと鼻をつく。
暗い室内を、壁を伝いながら狭いリビングに入り、どさりとソファに腰を下ろした。部屋の奥に打ち捨てられたように置かれている、ほこりだらけのピアノが目に入る。
ははっと笑いながら、セバスチャンはソファに背をもたせかけた。
どうしてこんなものを持ってきてしまったんだろう。
故郷を離れるときに、捨ててしまえばよかったのに。
ピアノなんて今更。
ふと視線を落とすと、ガラスのローテーブルの上に白い薬袋からこぼれた錠剤が乱雑に散らばっている。
「やれやれ、面倒くさいですねぇ」
片手を伸ばして、薬を一気に掴んだ。
ぱちっと音を立てて、次から次へとPTPシートから錠剤を取り出し、口の中に放り込む。
たっぷりの水で飲めといわれたが、今はそれすらも億劫だ。
苦味のある味が口中に広がり、ざらざらとした錠剤のかけらがいつまでも舌に残る。
抑鬱剤、気分安定薬、眠剤、そして……。
婉曲に死ねと言われているような薬の量だなと思う。
それもこれも自分への罰だ。
「悪いことはなにもしていないのに」
それでも世間に後ろ指をさされ、生まれ故郷を追われた。
社会的に抹殺され、死刑に等しい「刑」を受けて、見えない首輪と鎖をつけられ、グレルたちの組織に管理されている。
セバスチャンはソファにごろりと横になり、カーテンのない窓から降り注ぐ月の光を眺めた。
青い光に照らされて、薬のシートが銀色の鈍い光を放っている。
この地獄はいつまで続くのだろうか。
私が死ぬまで?
ならばいっそすぐに命を絶ってしまうのはどうだろう……。
もう守るものなどひとつもないのだから──。
***
その少年と再び会ったのは、それから三日後だった。
朝からしとしとと嫌な雨が降っていて、本当は一日中家に籠って、だらだらと過ごしたかったのに、ランチにプッタネスカを作ろうとしたら、トングがないことに気づいたのだ。
どうやら引っ越し荷物のどこかにまぎれているらしかったが、部屋に積み重なる段ボールの山を漁る気にはなれなかった。諦めて別のメニューにするという手もあったけれど、この日は一度決めたメニューを変えるのが嫌だった。
ひきこもって世捨て人のように暮らしているなかで、唯一といっていいささやかな愉しみは料理だけだったから、自分の舌に合う昼食を作って、少しでも気分を持ち上げたかったのだ。
「出かけますか」
越してきたばかりでまったく土地勘がないが、あてずっぽうに歩くのもいいだろう。傘は持たず、黒のトレンチコートを羽織って、外に出た。
雨が降っているわりに寒くはなかった。
靴を濡らしながら、静かな住宅街を歩く。時折、ウェストミンスター寺院の鐘の音が聴こえる。観光地に近いというのに、落ち着いた瀟洒な家が立ち並ぶ。富裕層の住む区域なのだろう。自分がだんだん場違いのように感じ、セバスチャンは長身の肩を丸めて、足早に路地を抜け、大通りに出た。
四車線の道路にゆったりと車が走っている。道沿いに銀杏並木が続き、雨に濡れた扇型の葉からぽたりぽたりと水滴が落ちて、ゆるやかな坂道のあちらこちらに小さな水たまりを作っていた。
周辺には古い石造りの建物をリノベーションした洒落た店がそこかしこにある。雑貨ショップに、アンティークショップ、フレンチレストラン。薄暗い雨空の下、並んでいるショップの琥珀色の照明が気持ちをほのかに明るくさせた。
──買い物が済んだら、コーヒーでも飲んでいこう。
セバスチャンは少し先に見えたクラシックなカフェに目を遣ってから、雑貨ショップに入り、イタリア製のトングの他に銀の胡椒入れ、フォークなどのカトラリー、小さなウサギの置物など脈絡なく買い込んだ。
さきほどのカフェに入ると、客はあまりおらず、静かな店内にセバスチャンはほっと息をついた。
「カプチーノを」
カウンターのマスターに注文し、窓際の席に座って、通りを歩いていく人々を見るともなしに見ていた。
道路の向こうにも、こちらと同じような店が並んでいる。中に一軒のレコードショップがあって、その全面ガラス張りの店内に──蒼銀色の髪が見えた。
「っ」
はっとした。
三日前。
街ですれ違った少年はあんな銀色の髪をしていなかったか。
思わずカップを置いた。
少年の姿を目で追う。
やはり、あの少年だ。今日は学校の制服らしきブラウンのチェックのブレザーにブルーのタイをしている。
横にいるのは、同じブレザーにスカート姿の金髪の少女。
少年は、隣にくっつくようにして並んでいる少女と、楽しげに話している。
セバスチャンの胸がちくりと痛んだ。
いったいなぜそんな気持ちになるのか、わからなかった。だが、気づけば立ち上がっていた。
コインをテーブルに乱暴に置き、雨に濡れるのも構わず外に出る。
道の向こうにあの少年がいる。
そう思うだけで、胸が高鳴った。
見失わないように、彼を見ながら車道に降りる。
すると、店内の少年がふいに頭を上げて、ガラス越しにセバスチャンを見た。
確かに見た、と思う。
ガラスの向こうから、あの蒼と紫の瞳がこちらを凝視している。
少年はセバスチャンを認めると、はじかれたようにレコードショップを飛び出して、表に出た。
車道を挟んで、ふたりはじっと互いの顔を見つめ合った。
また、あの感覚だ。
すべての音が消えて、この世にふたりだけのような。
ほんの一瞬の金縛りのような時間はすぐに消えた。
だが今度はセバスチャンはチャンスを逃さなかった。車の間を縫うようにして、道路を渡り始める。
少年はその場に立ったまま、セバスチャンを待っている。
あと少し、あと少しで、彼のもとに着く。
そう思った瞬間、ショップから少女が走り出てきた。
彼女はセバスチャンを見て、顔をこわばらせると、少年を連れて、急いでその場を離れようとする。
「待ってください」
叫んだが、ふたりには届かなかった。
少年は困ったような、ためらうようなそぶりをみせたが、少女に引きずられるようにして坂道を上がっていく。
ようやく車道を渡りきったセバスチャンは、ふたりのあとを追った。
もう随分遠くに行っている。
早く、追いかけなければ。
「待って……」
叫びかけて、そこで我にかえった。
追いかけて、どうするのだ。
あの細い腕を掴んで、それから?
突然、知らない男に話しかけられたところで、気味悪がられるだけだろう。
高揚していた気持ちがみるみるうちにしぼんでいく。
セバスチャンはゆっくりと踵を返し、肩を落として坂を下り始めた。
少年への衝動が自分の本能から出たものだったことに気づかずに──。
「シエル、あの人、知っているの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「だったら! 早く逃げなきゃ。あんな風に近づいてくるなんて変よ!」
エリザベスにぐいぐいと引っ張られながら、強く言われれば、確かにそうだとシエルは思う。
でも。
あの紅茶色の瞳が強く心に焼きついていた。
確か三日前。
街ですれ違ったひとだ。
彼も僕を覚えていた。
僕を見て、急いで車道を渡ろうとしていた。
車に轢かれるんじゃないかとひやひやしたけれど、彼は必死で──本当に必死で渡ろうとしてた。
「もう、私が止めなかったら、シエルもあの人のところへ行っちゃうかと思ったわ」
心配だったのよ、といまにも泣き出しそうなエリザベスを宥めながら、もしも彼女がいなかったら、自分は彼のもとに駆け寄っただろうと思う。
「この間だって、突然シエルが走り出して、家とは別の方向に行ってしまったって、おばさまが困っていたわ。三年前みたいにシエルがどこかに行っちゃったら、またおばさまが……おばさまが」
「大丈夫。僕はどこにも行かないから。心配することないよ」
エリザベスが僕の母を気にかけるのも無理はない。
あんなことがあった後では、心配して当然なんだ。
「もう二度と好きな人を失うのはいや! どこにも行かないって約束して、シエル」
「……うん」
ぎゅっと腕を掴まれた。いつもならそんなことをされれば嬉しいはずなのに、なぜか今日はほんの少しだけ、鬱陶しく感じてしまう。
あの男の人と言葉を交わせなかったのが、切なかった。
あとたった一メートルぐらいだったのに。
もう一度会えるだろうか。
もう一度……。
すっかり雨に濡れて家に帰ると、門のところで母がタオルを持って、待っていた。
「遅いから心配していたのよ」
腕をのばして、シエルの髪をぬぐおうとする。
「大丈夫、自分でやれる」
「でも」
「大丈夫だって!」
タオルを奪うように取り上げて、シエルは家の中に駆け込んだ。
「おばさん、今日ね、学校の帰りに……」
エリザベスが母と話しているのを背中に聞いて、シエルは急いで階段を上った。
自室に入るなり、ドアを閉める。
──遅いから心配していたのよ。
心配そうな母の声。
「違う。ママが心配してるのは僕じゃない」
思わず、口をついて出た。
そう、母が心配しているのは僕じゃない。僕じゃないんだ……。
シエルは手にしたタオルをぎゅっと握りしめた。
***
「……ねえ、シエル、リジーちゃんから聞いたんだけど……」
エリザベスが帰ったあと、母がテーブルに夕食を並べながら、さりげなく話し出した。
「今日、街で知らない男の人に追いかけられたんですって?」
シエルは驚いた。全然違う話になっている。
「追いかけられてなんかいない」
「でもリジーちゃんが」
「エリザベスの勘違いだ」
それともあれは端から見たら、『追いかけられていた』ように思えるんだろうか。
「その人、たぶん僕を誰かと間違えたんじゃないかな。それで近づいたんだ」
「でもお願い。気をつけてね。ひとりで出歩いてはダメよ」
母は真剣な顔で言う。
三年前のことを思い出しているのだろう。
あれ以来、過保護といっていいぐらい、シエルを守ろうとする。
窒息してしまいそうなぐらいに、きつくきつく縛りつけて。
「わかってる」
「よかった。ごはん、もう食べないの? デザートにしましょうか? 今日はイチゴのショートケーキよ。大好きでしょう?」
「……うん」
僕が好きなケーキはガトーショコラだよ、と口にしそうになった。
けれど、それは絶対に言ってはならないことだった。
三年前──。
この屋敷の──ファントムハイヴ家──の双子が何者かに誘拐された。ひと月もの間、彼らの行方はわからず、ようやく発見されたときには、二人いた子どもは一人になっていた。双子のうちの一人は命を奪われ、遺体は焼かれて灰になっていたのだ。犯人は逮捕される直前に、拳銃で自ら頭を撃ち抜き、自死した。
生き残ったほうの子どもはしばらくの間、茫然自失の状態だったが、やがて正気を取り戻すと、自分のことを『シエル』だと言い、周囲の人々はみなそれを信じた。
だが本当は違う。それは嘘だ。
『シエル』は明るくて、スポーツも勉強もできて、みんなの人気の的だった。生き残ったのが、その『おまけ』の僕のほうだと知ったら、母も父もエリザベスも失望するだろう。
それに──それに、『シエル』はあんな風に死んでしまって。
僕はなんにもできなくて。
シエルはぎゅっと拳を握った。カタカタと震え出す身体を押さえ込む。
あの兄の分までも生きなくてはならない。
期待されない自分ではなく、あの優秀な兄に成り代わって、生きていかなくては。
だからシエルは、自分を『シエル』と偽わることに決めたのだ。
でも、それは思っていたよりも、ずっとずっと、苦しいことだった。
──僕は、もう僕じゃなくなったんだ。
『シエル』と呼ばれるたびに、本当の自分が泣いているような気がする。
誰にも本当の名を呼んでもらえない。自分は狭いところに押し込められ、そこから出たいともがいている。
だけど決して、言ってはならないのだ。自分が『シエル』ではないことを。それは周りのみんなを失望させることだから。
「本当の僕を、もう誰も覚えていないんだろうな」
シエルの名を騙る、誰でもない少年。
「誰かが『僕の名』を呼んでくれたらいいのに」
ただそれだけで自分のこの苦しみは消えてなくなるのに。
自分の部屋に戻ったシエルは床に座り込み、膝を抱えてその間に顔を埋める。
そのとき……。
遠くから、幽かにピアノの音が聴こえてきた。
「……?」
どこから聴こえるんだろう。いままでピアノなんて聴こえてきたことなかったのに。
綺麗な旋律。静かでガラスのように繊細なメロディ。
優しい月の光みたい……。