その頃、僕は大学一年の終わりで、ふわふわと浮ついた気分が漂っている校内を、なにをするでもなく歩いていた。イースター休暇明け。学生のほとんどはまだ戻ってきていない。ガランとした校内。学食の行列は消えたまま、いつもの混雑が嘘のように静まり返っている。
僕は遅過ぎる昼食をとる事にした。カルボナーラの食券を買って、出来上がるまでぼんやりとトレーを手にして待つ。脇に人の気配を感じて目を向けると、ちょうど肘の上あたりが目に入った。随分、背の高い男だ。ゆうに頭二つ分大きい。見上げると、黒髪が顔を半分隠している。僕の視線を感じたのか、男が急にこちらを見た。よく整った顔立ち。きめの細かい陶器のような肌、そして濃い紅茶色の瞳。磁力が強い。思わずはっと引き込まれた。
「……なにか?」
やや低めのテノール。少しだけ、甘い匂いを漂わせている。
「あ、いえ」
首を横に振って答えたとき、男はかすかに眉を上げた。ちょうどそのとき、できあがったパスタが差し出され、僕は男から離れた。窓際の空いた席に座って、フォークを取る。くるくると生クリームと卵が絡まったパスタをすくいあげて、口に入れた。さきほどの男は入り口近くに席を取って、トレーと持っていた何冊かの本を置いた。一瞬、目が合いそうになり、慌てて下を向いて、パスタを口に押し込んだ。
なにを動揺しているんだ、僕は。別に気にする必要はないじゃないか。
そっと上目遣いに男を見ると、食べる気がないのか、片手で本を広げて、つまらなそうにサラダが乗った皿をフォークでつついている。ページを繰るのも億劫そうだ。
入り口に人影が立った。腰までのロングヘア。細い手足に、だらりとしたカーディガン。ずるずるした長いスカート。見たことがある。確か、演劇史の授業で一緒だった子。妙に印象的だった。ロングヘアは黒髪の男を見つけると、足早に近寄った。顔を傾けて、「待った?」と男の顔を覗き込む。男はいきなり女の頭をつかんで引き寄せ、無理矢理、唇を合わせた。腕を突っ張って、女は離れようとしたが、男の力に抗いきれない。すぐにおとなしくなり、されるがままになっていた。僕は大きな手で押さえられている女の頭を、見るともなしに眺めていた。すると、長い髪の向こうに見えていた男の閉じた瞼がすっと開いて、僕を凝視した。
──キスしながら、僕を見てる?
目が合うと、男はかすかに笑って、女から顔を離した。立ち上がって荷物を取り、女の肩を抱いてドアのほうに歩いていく。最後にちらりと僕に視線を送って、去って行った。
僕は詰めていた息を吐き出した。手のひらに汗がにじんでいる。わずか五分ぐらいの出来事なのに、永遠にも感じられたぐらい長かった。
なんなんだ、あの男は。
一年じゃない。たぶん三年か四年。学校に慣れた風で……いや、人生に倦んでいるようなそんな雰囲気。
息を切らしながら、いまにも崩れ落ちそうな石造りの階段を上がって、六階の教室に行けば、楽しみにしていた授業は休講だった。いまさらフラットに帰る気など起きず、夜までどう時間をつぶそうかと考える。そう、時間をつぶす……。これがいまの僕の大学生活そのものだった
<中略>
物思いに耽りながら、薄暗い階段を下りている途中で、声に気が付いた。
「……」
「……あっ……あ」
「……」
「……いやぁ……あ……」
耳を澄ませていると、次第にはっきりと聞こえてくる。
これは──。
からだがカッと熱くなった。
目の前の、三階の教室からだ。
いけないと頭でわかっていても、足は吸い寄せられるように、扉の前に近づいていく。汗ばむ手を扉に添えて、隙間から中を覗いた。
「……気持ち、いい……?」
「あああっ……! ん、や、だ……ッ」
男が後ろから女にのしかかっている。教室の机に突っ伏した女の長い髪が乱れて、背中がガクガクと大きく震えている。うつぶせになっているその顔は、こちらからはわからない。容赦なく女に腰を突き立てている男に見覚えがあった。あの男。
──なにか?
冷たく甘く、低い声が脳裏に蘇る。学食で会った男だ。
男は僕に気付かずに、女を責め続けている。喘ぎ声がひときわ高くなったとき、男は女の口を大きな手で塞いだ。
「声を……抑えて」
男の声もかすれて、上擦っている。僕は反応してしまった自分の下半身に気付いて焦った。ふたりは激しく動き続けたと思うと、突然大きな波に飲まれたように痙攣し、机に突っ伏した。
息を整える間もなく、男はさっと女のからだから身を離すと、こつこつと僕の潜む扉のほうに歩いてくる。
まさか。ばれている?
咄嗟に踵を返そうとしたけれど、相手のほうが速かった。
「随分、悪趣味なのですね」
思い切り、扉を開けられた。情事の余韻の残る火照った頬、汗に濡れた前髪。男の瞳が怒りに満ちている。ぐいっと襟首をつかみ上げられて、つま先が宙に浮いた。指先から匂いが漂ってきて、僕は思わず顔を背ける。
「こ、こんなところで、するほうが悪い!」
言い訳にもならないみっともない言葉を吐くのが、やっとだった。
「どこでしようとも、こちらの勝手です。貴方に迷惑はかけていない。貴方こそ、人のセックスを覗くとは、随分と勇気のあることですね」
男はおやという顔をした。
「さっき……食堂で、会いました?」
忌々しくうなずくと、男の瞳が和らいだ。
「ひょっとして、つけてきたんですか?」
と、小馬鹿にしたような口ぶりで訊く。
「なにを言っている! そんなわけないだろう! 上の教室に行ったら講義が中止で、それでッ、下りて来たら、こんなッ……」
「ひと目惚れでもされたかと思いました」
からかうような男の口調が癪に障る。
「いい加減にしろ! 男に興味なんかない。なんだ、お前は……」
「ねえ、ミカエリス」
身支度を直した女が、男の腕を取った。
「もう、行こうよ。気分、悪い」
「私もです。愛の行為を盗み見する人間がいるとは……」
女は侮蔑の表情を浮かべて、すれ違いざまに「……最低」と呟いた。クスッと男は鼻先で笑って、女の腰に腕を回す。去って行くふたりを僕は憮然と見送っていた。
なんなんだ、あいつらは。
僕が悪いのか? 僕はただ、通りかかっただけで、あんなところでするほうが、どうかしているんじゃないか。あいつらは露出狂だ。変態だ。絶対おかしい。何度、悪態をついても、気持ちが収まらない。
<中略>
制服に着替えて、カウンターに出た途端、僕はあっと息を呑んだ。ついさっき、見送ったばかりのあの男が、女とテーブル席に収まっていた。なぜこの店に? どうしてこんなによく会うんだろう。まるで憑かれているみたいだ。
男は今度は年上らしい巻き毛の女と、楽しげに飲んでいる。三十分前は、確かボブの女の子と帰ったはずなのに。
巻き毛が男の首にしどけなく腕を巻き付けて、キスを仕掛けた。人前でキスをされて、動じるような男ではない。逆に巻き毛の腰を強く引き寄せ、深くくちづけた。香水と体臭の交じった女の匂いが、カウンターまで漂ってきそうで、淫らな気持ちをかき立てられた。
「あ……っ」
欲情した巻き毛はからだを男に押し付けて、さらに深いキスをねだっている。紫色のネイルをした指を男の黒髪に入れ、軽くかきむしった。スカートの間に男は自分の足を入れ、ふたりは蛇のように絡み合い、パブの隅でキスを続けていた。
琥珀色の液体が半分入ったショットグラスを片手に、女を抱いてキスしている男。いやらしいはずなのに、下品じゃない。ちっとも不潔な感じがしないのはなぜだろう。
「こら」
先輩の声にはっと我に返った。
「お子様か? お前は。客をあんまり見るなよ」
「すみません……」
「あいつは……おっと、フードが遅いな。厨房を手伝って来い」
急いで、奥の厨房に入った。ハギスの脂っこい匂いが鼻をつく。付け合わせのマッシュポテトに蕪。カリカリに揚がったフィッシュ&チップス、サバのフライ、鹿肉のシチューが湯気を立てている。羊の胃袋にミンチ肉を詰め込んでいるシェフの指図に従って、フードの仕上げをした。出来上がった順にトレーに乗せ、伝票と照らし合わせて、各テーブルに運ぶ。
「おや、また会いましたね」
僕を見つけた男は、気軽に声をかけてきた。にやにやした顔が小憎らしい。
「今度はなんです。覗き魔から、ボーイに転身ですか」
からかわれている。むっとして、僕は返事をしなかった。
「ミカエリス、なあに、知り合いなの?」
「ええ、彼は私の新しい恋人ですよ」
思わず、トレーを落としそうになった。咄嗟に足を踏ん張って、かろうじてバランスを取る。
「な……な?」
あまりの衝撃に声が出なかった。巻き毛は、男の言葉を聞くと、さっと顔色を変えた。
「ちょっとぉ、なによ、アンタ、男が趣味なの?」
「いえ、男性も女性も両方……」
言い終わらないうちに、巻き毛は脇に置いていたトカゲの皮のバッグを取り上げた。
「気持ち悪いっ。もう声かけないで!」
語気荒く言い捨てると、かつかつとヒールを鳴らして、店から出て行ってしまった。唖然として突っ立っている僕に、背後から先輩の怒鳴り声が飛んだ。
「なにしてる。早く運べ!」
「あ、はい! すみません!」
僕はトレーの上のフードを運ぶ仕事に戻った。
どきどきと胸が鳴っている。
私の新しい恋人……だって? どうしてそうなるんだ。勝手に決めるな、この馬鹿野郎。
ぐるぐると回る頭の中をどうにか鎮め、僕は仕事に集中した。
真夜中を回った頃、ようやく混雑のピークが過ぎ、店が空いてきた。ひと息ついた僕がテーブル席を見回すと、あの男はまだ居座っていて、ひとりで飲み続けている。僕に気付いて、空になったグラスを掲げた。スコッチをたっぷり入れたグラスをコトッとテーブルに置いて、僕はつぶやいた。
「ロングヘア、ベリーショート、ボブに巻き毛。二日で四人」
「それがなにか?」
悪びれもせず、男は聞き返す。
「どうして、何人もの子と同時につきあうんだ。かわいそうじゃないか」
「かわいそう、ですって?」
男は自嘲気味に笑った。
「本当にかわいそうなのは、私のほうですよ」
「え?」
「抱いていれば、それだけでいい。その間だけは、忘れていられます」
「忘れるって、なにを?」
「なにもかも」
「……?」
「なにもかも、ですよ」
後は言う必要もないとばかりに、ぐいっとグラスをあおった。僕を軽く睨んで「ボーイさん、同じものを」と注文する。
ひと息にあおっては、また次を注文する。ひっきりなしにずっと飲んでいる。なのに、顔色が変わらない。ひどく酔った様子もない。
「あいつを知っているのか?」
先輩がカクテルを作りながら、小声で聞いた。
「いえ、見かけたことが……」
「あいつ、目立つからな。医学部の四年だよ。なんだっけ……ミカエリスっていったかな。優秀で教授が手放したがらないって噂だ」
「……いつも違う女といますよ」
「ああ。スゴくモテるんだよ、人生ってのは不公平だな……あっ」
先輩は男がグラスを掲げたのを見て、会話をやめた。
「お前、もうこのまま持っていけ」
ついに、僕にボトルごとスコッチを持っていくように、先輩は指示した。封を切っていないボトルを持って、男のテーブルに運ぶと、男は怒気を含んだ声を出した。
「瓶ごととは、とんだ手抜きですね」
「……」
「一杯ずつ、貴方が運んできてください」
「……貴様、馬鹿にしているのか?」
「おやおや、穏やかではないですね。お客に向かってその言い方はないでしょう」
男はクスッと笑った。
そのときだ。なぜだろう。その笑顔がとても懐かしかった。
「からかってなどいません。自分で注いで飲むのは、苦手なんです。お願いです……」
傲慢な態度が急に消え失せ、百年の孤独に耐えている男のように、寂しそうな風情を見せる。わからない。からかっているのかと思えば、この世の終わりのような顔をして、すがってくる。
「この仕事は何時に終わるのです?」
「僕のシフト時間は、もうとっくに終わっている。貴様がいなかったら、帰れるところだったんだ」
声を荒げると、男はにっこりした。
「それなら、一緒に飲みませんか? 私はまだ飲み足りないのです」
即座に断った。
サンプル終わり