突発的に書いたバルセバです
ふいに、うまそうな匂いが鼻をかすめた。
顔を上げると、漆黒の執事の後ろ姿が目に入る。
真夜中の厨房。
執事は大量の洗い物を済ませると、疲れも見せずに、明日主人に出すという、なにやら手が込んだフランス菓子の試作に取り掛かっている。
バルドロイは自室に戻る気になれず、厨房の隅に陣取って、火のついていない煙草をくわえた。
ガランとした妙に空虚な気配が自分たちを包んでいる。
──宴の後は、いつもこうだ。
普段のファントムハイヴ邸は静か過ぎて、ひとの気配が希薄だ。ときに寒々しいとさえ思う静けさに、正直、気がめいることだってある。
だが、今夜は女王の命とやらで、珍しく夜会が催され、多くの客が訪れた。厨房でせわしなく働くバルドにもその賑わいは漏れ聞こえ、自然、心が浮き立つ。
──たまには、人の声もいいもんだ。
しかし客が帰れば、またもとのひっそりとした屋敷に戻る。いや、賑やかだった分、前よりも一層、寂しさが募るようだった。
それで自室にも帰れずに、未練がましく厨房に残って、手際良く作業を進める執事の姿をぼんやりと眺めているのだ。
「休まないのですか? バルド」
背中をこちらに向けたまま、執事が問いかけてくる。その声に非難めいたところはなく、ただ淡々と訊ねているだけだ。燕尾服を脱いで、シャツにカマーベスト、ギャルソンエプロンを付けた執事の腰は、肉厚な胸とは対照的にキュッと締まっていて、バルドを誘うように色香を放ち、思わずゴクリと喉を鳴らした。
返事のないのをけげんに思ったのか、執事──セバスチャン──が振り返ってバルドを見る。
深い琥珀色の瞳。
なにもかも見通すような、透明な瞳。
バルドは腕を伸ばし、黒くつややかな髪に触れようとして──思いとどまった。中途半端な位置で止まった腕をセバスチャンはただ見つめている。白い、造りもののような顔には、なんの感情も現れていない。その長い睫毛。美しい鼻梁。色素の薄い唇。
バルドは思うより先に動いていた。
細く締まったセバスチャンの腰を抱き寄せ、唇を合わせる。
温度のない唇に肌が粟立った。
──まるで死体みたいだ。
白い絹に包まれた手のひらに、軽く胸を押されて、唇がすっと離れ、バルドは自分がなにをしたのかを知る。
「あ……、いや、その」
「その?」
「す、すまねぇ……」
「謝るのなら、坊ちゃんに。私のからだは、坊ちゃんのものですから」
落ち着き払った平坦な声に、腹の底からむかむかとなにかがこみ上げてくる。
「なんだ、そりゃあ」
自分でも驚くほどの大声で詰った。その剣幕にセバスチャンが目を見張る。
「おめえのからだは、おめえのものじゃないっていうのかよ? 主人のものだと? え?」
「その通りです。私のからだは毛髪の一本に至るまで、主のもの。それは貴方だって同じことでは…………グ、……ッッ」
だん! と、両手首をつかんで思い切りセバスチャンを壁に押し付け、バルドは自分のからだを密着させた。
──熱い。
からだが、どうしようもなく火照っている。
「バルド!」
低く叱責する声を無視して、バルドは手荒く、セバスチャンのベルトをカチャカチャとはずす。
──本当に嫌なら、もっと激しく抵抗するはずだ。そうしないのは……。
ぎゅっと堅く目を瞑って、もう一度唇を塞ぎ、舌を無理矢理、口内にねじ込んだ。じっとりと冷たい舌を捉えて、絡め合わせる。
抵抗もないが、反応もない。いつまでたっても死体のようになすがままの相手に焦れて、目を開くと、すぐそこにさきほどと全く変わらない、澄んだ琥珀色の瞳があった。
ひたとバルドを見据えている。
「う……」
急にいたたまれなくなって、押さえていた手首を放し、よろよろと数歩下がった。セバスチャンは壁にもたれ掛かったまま、じっと動かない。
ふたりの間に、沈黙が降りた。
──そうだな。俺も、おめえも……。
坊ちゃんに捧げた身だ。自分のものじゃねえ。
坊ちゃんが行けと命じれば、どこにだって行く。たとえそこが死地とわかっていても。
「昔、な」
ぽつりと言葉が落ちた。
「俺に部下がいた頃、自分の身は隊長のものだ、隊長に従いますってよく言われたもんだ…………そして、みんな、死んじまった。運悪く、俺だけが、生き残っちまって、それで……」
それでいまここにいる──。
命を預けられたのに、その命を生かしてやれなかった。なすすべもなく、失うばかりだった。
──命なんて、人に預けるものじゃねえ、自分だけのものなんだ。
己のふがいなさを恥じて、力のなさに絶望して、悔しさをどこにもぶつけられずに、半ば八つ当たりのようにそう思っていたはずの自分は、この屋敷でかつての部下と同じように、主人に命を預けている。
ポケットからマッチを取り出し、シュッと擦って煙草に火をつけた。いつもならすぐに咎めるセバスチャンが、いまは押し黙っている。
ひと口大きく吸って、肺を満たすと、
「先に寝るぜ」
とぶっきらぼうに言い放ち、厨房を出た。
長く暗い廊下の片隅に部下たちの顔が次々と浮かび上がってくる。
奴らがいまの俺を見たら、笑うだろうか。
ああ、そうだな。
あいつらなら、腹を抱えて、笑ってくれるに違いない。
「た、隊長が、シェフですか?」と、明るい、屈託のない笑顔で。
ひとけのない廊下は、寂しい。
たった七人しかいない、この大きな屋敷は寂しい。
けれど、寂しくていいのだと、バルドは唇を噛み締めた。
底知れない闇を、哀しみを抱えて生きる、この家の人間たちには、これぐらい寂しいほうがちょうどよいのだ、と──。
FIN