夜空を流れる星よりも

2025年坊っ誕です。原作28巻146話あたり、劉たちと出会わない世界線です



「坊ちゃん、外は冷えます」
「ああ」
「中にお入りに……といっても、今夜の宿はみすぼらしくてとても横にはなれませんか?」
 いたらなくて申し訳ありませんと執事は殊勝に頭を下げる。
「そんなことは気にするな。ヤードから逃げているこの身で、泊まるところが見つかっただけでもマシだ」
 と後ろの廃墟のような建物を見遣った。
 おぞましい存在となって戻ってきた「シエル」から、その彼が放ったヤードを地下水道でまき、どうにか地上に出たものの自分たちを保護する存在などなく……。やっと夜をしのげそうな空き家を見つけて逃げ込んだのだ。
 使用人たちは下水道の汚物にまみれ、その臭いに悩まされ、凍えるような川の水で汚れをぬぐうと、家に残されていた黴臭いシーツをまとって寝入ってしまった。

「──では一体なにをなさっていたのです? そんな草むらに寝転んで」
「星を、見ていた」
「星? なぜそんなものを……。嗚呼、星に願いを、ですか?」
 悪魔は不愉快そうな声を出した。
「そういうわけじゃない」
「坊ちゃん、貴方の願いを叶えるのはこの私。夜空を走るちっぽけな流星ではありませんよ」
 膝を折り、身をかがめてシエルの手に小さなキスを落とす。

「ふ、お前は星にさえ、嫉妬するのか」
 からかうように聞くと、セバスチャンは無言で燕尾服の内ポケットに手を入れ、なにかを差し出した。
 見れば、それは猫のマークのついたファントム社のチョコレート。
「坊ちゃん、お誕生日おめでとうございます」
「!」
──ああ、今日は『あの日』だったか。
 シエルの胸にあの日の記憶が一気に蘇った。
 一夜にして愛する家族を失った日。残酷な12月14日。
「坊ちゃんのお好きなガトーショコラをご用意することができず、申し訳ありません。今年はこれでお許しください」
「お前、これをどこで……」
「先日──みなさんとファントム社の近くに立ち寄った際に失敬しました」
 白手袋を顎に添えて、クスリとセバスチャンは笑った。
「そうか……」
 自分でデザインしたチョコの包み紙をじっと見つめた。
 見慣れた包装紙が今夜は懐かしい。
 三年前、あの地獄のような場所から悪魔に救い出され、偽物の伯爵と執事になり、女王の番犬の任務の傍ら、幼い頃からの夢だったおもちゃの会社を立ち上げて……。
 兄の罠にかかって何もかも失い、こうしてお尋ね者の身に落とされてみれば、そんな日々はもう随分と遠い出来事のように思われる。
「取り戻せますよ」
「え?」
「坊ちゃんなら、すべて取り戻せます。爵位もファントム社もなにもかも」
 貴方にはこの私がついているのですから、と悪魔は唇の片端を上げた。
「……ああ、そうだな」
 ──けれど取り戻せないものだってある。
 たとえば父と母と……兄と過ごした、屋敷での幸せな時間。
 それはもう決して取り戻せない。この悪魔にだって、その願いは叶えられやしないんだ。
 シエルはきゅっと小さく唇を結んだ。
「坊ちゃん?」
「いや……」
 なんでもないと首を振る。
 
 僕には、過去に囚われている時間などない。
 傍らにいる悪魔とともに、前へ進まなければ。
 それが、僕の望んだ未来なのだから