密会

原作主従設定です。晩秋の静かな夜のお話。
しっとりとしたセバシエです。2023.12.31





春から秋にかけて、ファントムハイヴ邸の広大な庭の片隅で、ひっそりとお茶会が開かれていることは、誰も知らない。

***
 晩秋の或る夜。
 庭園のすべての植物は冬を間近にして、静かに眠ろうとしていた。
 三日月が細く銀色の光を落としている。
 [[rb:四阿 > あずまや]]に仄かな灯りが見えて、屋敷を出たシエルは足を早めた。息を切らせていつもの場所に着くと、
「おやおや、それぐらいで息を切らすとは。もう少々運動しないといけないようですね、坊ちゃん」
 先に来ていたセバスチャンが、たしなめた。
「うるさい。たまたまだ」
 言い訳にもならないことを呟けば、クスリと小さな笑い声がかえってきて、シエルは少しほっとした。
 テーブルには一人分のティーセットが用意されていて、ポットからはうっすらと白い湯気が出ている。

 ふたりはいつからか、庭園の隅の四阿で小さなお茶会をするようになっていた。お茶会といっても、客はいない。
 主人と執事だけのひそやかな時間だ。特別な話をするわけではない。仕事の話などはせず、ただバルドがどうしたとか、メイリンの失敗談や使用人たちの日々の様子、屋敷のこと……話題は少なく、いつも決まりきった話ばかりだったが、女王の番犬の仕事の合間にこうして四阿で茶を楽しむのは、本当にくつろげる時間だった。
「少し冷えるな」
 もうこの頃になれば夜のお茶会は終了だろう。また春風が吹くようになるまで、おあずけになる。
 シエルがそう思ったとき、
「今夜で今年のお茶会は最後でしょうか」
 セバスチャンも同じことを感じたのだろう。名残惜しげに庭を見る。
「──そうだな」
「あまり寒くなっては、体の弱い坊ちゃんが風邪をひいてしまいますし」
「僕を理由にするな。お前も寒がりのくせに」
 セバスチャンが寒さに弱いことをシエルは知っていた。コークスの補充と称して、暖炉にあたっている姿をみかけたし、こっそりと厚い靴下を履いていることも知っている。けれどなんの欠点もないよりは、ひとつやふたつ、苦手なことがあったほうがいい。そのほうが可愛げがあると、シエルは思う。
「私が寒がりなのを知っているのは坊ちゃんぐらいですよ。どうかご内密に」
「誰にも言ってないだろ」
 今更心配するなといえば、またセバスチャンは微笑んでくれる。
「今夜は、ミルクティーをご用意しました。カカオの香り高いアイリッシュモルトを煮出したティーは、今夜のような晩にはぴったりかと。甘い香りが特長ですので、どうかそのままお召し上がりください」
 なみなみとミルクティーの注がれたカップを渡される。
 こくりとひとくち飲んだ。
「……うまい」
 じんわりとからだが温かくなる。チョコレートのような甘さが舌に優しい。砂糖は入れていないから、もともとの味なのだろう。
 ひとくち、またひとくちと飲み、カップを置いた。まだ半分ほど残っている。
「お気に召ませんでしたか」
「いや、またあとで飲もうと思ってな」
 一気に飲んではこの紅茶に失礼なような気がしたけれど、それはセバスチャンには言わずにおいた。

 リーリー、リーリーとバラ園の方から、虫の音が途切れ途切れに聴こえてくる。秋の間に伴侶が見つからなかったのだろう。晩秋のこんなに冷えた夜でも相手を求めて鳴くとは、少し憐れに思う。
 季節は秋から冬へと変わっていく。
 今夜はその境目なのかもしれない。
 シエルはふと昔を思い出した。
「お前……雨の境目を見たことがあるか?」
「雨のさかいめ?」
「そうだ。昔、一度だけ見たことがあってな。こちらでは晴れているのに、少し離れた場所では雨が降っている。その境目がはっきり見えて不思議な気がした」
 虹の橋、雲の形、雨の境目……幼い頃はそんなものばかり興味を持って、屋敷の窓に頬杖をついて空を見上げていた。
──悪魔と契約をしてからは、空なんてまともに見上げたことはないけれど。
「あいにく私は見たことがありませんが……一度は見てみたいですね」
 その顔を見ると、追従でなく、本心から言っているようだ。
「めったにないことだとは思うが、お前も巡りあえるといいな」
 にこっと笑った。

 夜のお茶会に菓子は出ない。
 甘いものは大好きだが、もともと少食で胃は小さい。こんな真夜中に菓子を食べれば翌朝どうなるかわかっている。最初の頃は菓子をねだったが、朝の胃もたれの苦しさを味わって以来、紅茶だけになった。
 だから、その晩もそうだと思っていた。
「坊ちゃん、よろしかったらこちらをお召し上がりになりませんか?」
 差し出されたのは、小皿にのった小さなフィンガービスケット。
 うっすらと砂糖がふってあり、見るからに柔らかくて美味そうだ。
「罪だな。深夜に菓子を食べたらどうなるかわかっているだろう? なのにこんなに美味そうなものを出すとは」
 眉間にしわを寄せて、苦々しく言えば、セバスチャンは、
「軽くて、胃の負担にはならないと思いますよ。今年最後のお茶会ですから、なにか特別なものをと思いまして」
 シエルは欲望に打ち勝てず、ひとつ摘んで口に入れた。
 ビスケットはすぐに舌の上でとろけて消える。
 ふむ。確かに軽い。
 ミルクティーと一緒にもうひとつ、もうひとつと食べているうちに皿の上の菓子はすっかりなくなってしまった。
「おいしかったですか?」
 セバスチャンが嬉しそうに問いかける。
「ああ」
 答えれば、それはようございましたと、うなずいて食器を片付け始めた。

 これで『今年』のお茶会はおしまいだ。
 来年の早春にまたお茶会ができるのだろうか。
 おそらく──もうこれで最後、自分は来年の春まで生きてはいられないだろうという予感が、シエルにはあった。その頃には復讐を終えて、悪魔の腹のなかにおさまっているだろうから。
 だから、今夜で本当に最後の最期のお茶会だ。
──セバスチャンはどう思っているのだろう……。
「おや、坊ちゃん。お口にお菓子が」
 白手袋に包まれた指がふいに唇に触れた。ドキッとして身を固くすれば、セバスチャンは菓子をつまんで、静かにそれを自分の口の中に入れた。
「嗚呼、おいしい」
 と満足げにため息をついた。
「おい、人間の食うものの味なんてわからないんじゃなかったのか」
「この頃は、少しだけわかるようになったのですよ。坊ちゃんの食事の味見のおかげでしょうか」
 クスッと笑い、シエルをじっと見た。
 さわさわと冬の気配をはらんだ風が通る。白いバラの花びらが、ふわりとシエルの髪についた。 
「花びらが……」
 セバスチャンの腕が伸びて、シエルの銀の髪に触れようとした。
 シエルはじっと動かずに、セバスチャンが花びらをつまむのを待っている。
 だが、その手は髪ではなく、シエルの頰をそっと撫で──……夢かうつつか曖昧だったけれど、そのキスは忘れてはいけないような気がした。