真珠潭-序-[新刊サンプル]

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              一

 その地方には珍しく、もうひと月以上も雨が降り続いていました。来る日も来る日もしとしとと淫雨は執拗に降り続き、外ばかりか家の中までじっとりと湿り気を含んで、人々の気持ちを鬱々とさせていました。
 或る夜、これまでの細かく静かな雨とは異なり、まるで天が落ちてきたような大音量と共に激しい豪雨が降ってきました。水を孕み、地盤の緩んでいた山々はあちらこちらで小さな土砂崩れを起こし、流れる川は嵩を増し、濁流となってうねり、山間の小さな村を流し尽くさんばかりの勢いでした。

 セバスチャン、という名の青年は村のはずれの淡水生物研究所に勤める研究者でした。長身痩躯で髪は烏の濡れ羽色、琥珀色とも紅茶色ともつかない珍しい色彩の瞳、すっと整った鼻梁、色素の薄い唇……。
 しん、とした冬の夜を思わせる彼の美貌に恋い焦がれる娘たちは少なくありませんでしたが、彼は色恋などに心を動かすことなく、研究に勤しんでいました。なに真面目一方というわけではありません。彼だってときには山を下り、港町へ欲望を吐き出しに行くことだってあるのです。ただ……人と会話をしたり、気持ちを通わせるといったことに、さほど興味をもてなかったのでした。
 彼が通う研究所は、湖や川に棲む生き物──魚や貝や両生類など──を調査し、食用に役立てようとするものでした。仕事は忙しいわけでもなく、かといって暇なわけでもなく、水槽で飼育している貝や魚たちの世話をし、顕微鏡を覗いてさえいれば、誰にもなにも言われません。一日中無言で過ごせる職場は、セバスチャンにとってとても快適でした。

 
 さて、その恐ろしい豪雨の夜、セバスチャンはただひとり研究室に残っていました。同僚たちは家族を心配して早々に帰宅してしまい、気づけば、家に戻ったところで誰一人待つ者もいないセバスチャンだけになっていたのです。
 陽が落ちてすぐ辺り一帯は停電になりましたが、研究所には自家発電機が備わっていましたので、水槽内の生き物たちは皆無事でした。豪雨といっても、コンクリートの建物の中に雨の音はあまり響いてきません。窓から見える外の景色は黒一色の闇に覆われ、雨粒ひとつ見えません。セバスチャンはあまり恐ろしいとも思わずに、青白い水槽の光を頼りに論文を読みふけっていました。
 ゴトンッ。
 窓に大きなものがぶつかったような鈍い音がして、セバスチャンははっと本から顔を離しました。
「なんでしょう……?」
 大方、風に飛ばされた木の枝か、あるいは石の類いだろうとあたりをつけて、ロウソクを手にして窓に近づきました。
 外は真っ暗です。
 ゆらゆらと頼りなく揺れるロウソクの光が窓ガラスに反射して、長身の自分の姿が映っています。
 セバスチャンは窓の鍵をはずし、細く開きました。途端に大粒の雨が吹き込んで、ロウソクはあっという間に消え、辺りには墨をまいたような暗闇が広がりました。雨音に混ざって、遠くからごうごうと吠えるような音が響きます。川の音でしょうか。いつものせせらぎとはまるで違う、獣じみた咆哮にセバスチャンはぞっとしました。
 ゴトッと、また音が聞こえました。音は窓の下からするようです。セバスチャンはおそるおそる下を覗きました。
 大きな黒い塊。
 ぴちゃんと音がして、暗闇の中、尾鰭のようなものが見えた気がしました。
 魚、でしょうか。目を凝らすと、その生き物はだいぶ弱っているようで、ときどき短く痙攣してはぴちゃん、ぴちゃんと地面を叩いています。やはり魚のようです。
 セバスチャンは窓から身を乗り出すと、
「ちょっと待っていてください」
と、つい魚に声をかけてしまいました。すると、まるでその言葉が理解できたかのように、魚はぴたりと暴れるのをやめました。不思議に思いましたが、いまのうちにとセバスチャンは急いで研究所の玄関を飛び出して、雨が吹きつける中、建物の裏を回って、窓の下に横たわっている魚を両腕に抱き上げました。いくら目が慣れたといっても、真っ暗闇の嵐の夜のことです。どんな魚なのか判然としませんでしたが、大きさのわりには軽く、容易く持ち上げられたので、ほっとしました。

 自分の研究室に戻り、魚を大きな水桶の中に入れました。魚はじっと動かずにいます。
 セバスチャンは開けっ放しにしていた窓を閉めると、ロウソクにまた火を灯しました。
 魚はその光を嫌がってか、尾鰭でかすかに桶を叩きます。ロウソクの淡い光が、魚の輪郭を浮き彫りにしました。
「ッ」
 セバスチャンは息を呑みました。
 魚は……いえ、魚と思ったものは、実は魚ではなく──裸の少年でした。絹糸のように細い銀の髪に小さな顔、大きな青い瞳(あとでわかりましたが、左右で瞳の色は異なり、それぞれ青と紫の二色の瞳でした)、薄い胸、少し色づいた乳首、そしてへそ。その下に人間の足はなく、魚のように蒼銀色の鱗が尾鰭まで、びっしりと生えていました。
「まさか……」
 セバスチャンは我が目を疑いました。
 人魚などというものがこの世にあるはずはない。
 あれは幻の、伝説の……。
 そう自分に言い聞かせても、目の前の少年が人魚であることは覆せません。セバスチャンはそれでも認められずに、頭を振ってごしごしと目をこすり、そっと薄眼を開けました。
 やはり人魚はそこにいます。怒っているような顔をして、こちらを睨んでいます。水桶は彼には狭いようで、居心地悪そうに身を縮めていました。
「嗚呼、すみません」
 セバスチャンは慌てて、隣の部屋の鍵を開けました。そこには巨大な水槽があって、先週まで年老いた淡水鮫を飼育していたのですが、その鮫を欲しいという水族館が現れ、研究費のために売り払ったのでした。
 セバスチャンは人魚を抱きかかえて、水槽の脇に設置された階段を上がり、満々と水を湛えた水槽の縁からそっと放しました。人魚はセバスチャンの手から離れると、すい……とからだをくねらせて、乳緑色のライトに照らされた水の上を滑るように軽く何度か泳ぎ、それから水槽の奥に設置された人工の岩場のようなところに上って、腰を下ろしました。
 人魚の髪が水に濡れて妖しく光っています。宝石のような二色の瞳が、じっとセバスチャンを見ています。
 なんと美しい……。
 人間の少年だったならば、きっと巷の評判になっただろう。
 けれど、あどけなく可愛らしいその顔はまったく無表情でした。
「あの……、私の言っていることがわかりますか?」
 人魚の反応はありませんでした。先ほどと変わらず、セバスチャンを見据えています。
 人間ではなく、獣なのだ。
 人に対するように接してはいけない。
 セバスチャンは自分を諭しましたが、少年の顔を見れば、どうしても人のように感じられて、語りかけるのをやめられませんでした。
「どこか痛めてはいませんか? さっき随分大きな音がしましたから」
 聞くと、人魚は少し宙を眺めてから、おもむろに水に潜り、ゆっくりと水槽内をひと回りしました。セバスチャンがポカンとしていますと、眉をひそめて、もう一度、一周しました。
 どうやら怪我をしている様子はないようです。胸を撫で下ろしたセバスチャンは、あ、と気づきました。
「もしかして……わざわざ見せてくださったのですか?」
 そう尋ねると、人魚は横を向き、フンと鼻を鳴らしたようでした。

 翌朝は、それまでの雨が嘘のようにピタリと止み、空には何週間ぶりかの太陽が顔を出しました。人々が待ち望んだ陽光。澄みきった青空。しかしそれは逆に嵐の爪痕をくっきりと見せつけることになりました。
 水に抉られた山、流木の積み上がった道、土砂に押しつぶされた家……幸い命を失ったものはおりませんでしたが、多くの怪我人が出て、村が普段の顔を取り戻すのはまだ先のようでした。セバスチャンの住居も浸水し、とても住めた状態ではなかったので、しばらくは研究所で寝泊まりすることになりました。
 セバスチャンは人魚のことを誰にも言いませんでした。
 言えば、ただちに研究の対象となるに違いありませんし、下手をすれば自分の手元を離れて、別の研究員に託される可能性だってあります。それになにより人魚を衆目の的にされるのが嫌だったのです。
 自分の感情にセバスチャンは驚きました。
 本来はあまり物事にこだわらない性格だったのです。研究の成果をライバルに盗られても、簡単に諦めがつきましたし、名声を上げたいとも、金持ちになりたいとも思っていませんでした。仕事は命をつなぐために最低限やっていればいい、そう思っていました。
 けれど、人魚に対しては違いました。
 水の中を優雅に泳ぐ姿、無表情にこちらを見つめる孔雀青の瞳と紫翡翠の瞳、見る角度によってオーロラのように色彩が変わる神秘的な鱗……。
 人魚に出会った晩、セバスチャンは魔物に魅入られたように水槽の傍を離れられず、一睡もできませんでした。そうして見つめているうちに、人魚への執着心が黒い泡のようにふつふつと湧き上がってきたのです。

 彼は私だけのもの。
 他の人間になど渡さない。

 それは人魚の魔性の力がなせるわざだったのでしょうか。
 セバスチャンがそれほど強い執着心を抱いたのは、後にも先にもこのときだけでした。
 人魚のことを思うと、胸の中がひどくざわめいて、なぜか泣きたくなるような、甘く懐かしい気持ちで胸がいっぱいになるのです。

-中略-

 桜色の可愛らしい唇を見ているうちに、セバスチャンは徐々に自分のからだが熱を帯び、その熱が卑しい男の欲に変わっていくのを、自覚しました。そして自分でも気づかぬうちに、人差し指で直に人魚の唇に触れてしまったのです。
 びくっと人魚がからだを縮めます。
「っ、すみません」
 指を引っ込め、慌てて小声で謝ると、人魚はセバスチャンの指をじっと見て……それから伸び上がるようにして、突然指先にチュッとキスを落としました。
「ッ」
 マシュマロのような柔らかく弾力のある唇。それは氷のようにひんやりしていました。人魚は唇を静かに開き、セバスチャンの人差し指を口に含みます。その行為はひどく官能的で、情欲を煽りました。セバスチャンは言葉も出せずに、息を詰めてじっとしていました。
 人魚は舌でセバスチャンの指を弄びます。
 少しざらついた、子猫のような舌。
 薄い皮膚を愛撫され、セバスチャンの下半身が少しずつ熱を溜めていきます。

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