カフェを始めた #3

 母が壊れた。
 ある日突然、彼女は時計が読めなくなった。
 夜七時の待ち合わせに、朝十時から出掛けてずっと待ち続け、時間通りにやってきた友人たちを怒鳴りつけた。あるいはその逆。それが何度も続き、母の友人たちは困惑した。当然だ。悪いのは母だ。けれど母はそれを認めない。おかしいのは友人たちだと主張する。
 そして突然、計算ができなくなった。「数字」がわからなくなったのだ。
 月末の請求書をまとめていたときのこと。
「ねえ、シエル、一と一と七を足すと幾つ?」
「ねえ、シエル。計算機がへんなのよ。数字が間違ってる」
「ねえ、シエル」「ねえ、シエル」
 一と一と七を足すと九だし、計算機は全然間違っていない。間違っているのは母のほう。
 そう言っても母はそんなはずないって言い張るし、僕があまり何度も言うと、「いじわるを言わないで」としくしく泣くようになった。
 それから──。
 財布を持っているのに、レジの意味がわからず、そのまま品物を持って店を出て、万引きと間違えられて警備員に掴まった。
 呼ばれた僕が母のポケットの中にあった財布を店長に見せ、うっかりしてたんだと思います、と平謝りに謝って許してもらった。けれど、母は失礼だわ、万引きだなんて!そんなことするわけないじゃない、といつまでも怒っていた。自分がおかしいとは決して認めなかった。
 僕はきっとこれは一時的なもので、すぐに母は前の明るくて、少しばかり強引な彼女に戻ると思っていた。実際、翌日には母は嘘みたいに元に戻り、平穏な日常が帰って来て、僕は安心したんだ。
 けれど、これはまだ始まりに過ぎなかった。

 ある夜、母は消えた。
 いつもの通りの夕食を終えて、僕が風呂から出て来たときにはもう、彼女はどこにもいなかった。家の周囲を探してもいない。友人たちの家に連絡しても寄っていないという。心当たりのあるところをすべて探したけれど、母は見つからなかった。
 不安に満ちた長い夜が明ける頃、巡査に連れられて母は戻って来た。
 隣町まで歩き、気づいて家に戻ろうとしたけれど、標識の文字が読めなくて、ふらふらと彷徨っていたところを、巡査に保護されたのだそうだ。自分の名前は思い出せなくて、「シエル」「シエル」と僕の名を呼び続けて、その名を頼りにして、僕の家を探したと疲れ切った表情で巡査は言った。
 母は家に入るなり、玄関ホールの隅にコトンと横になって眠ってしまった。ベッドにも行かない。ベッド、というものが存在することさえ忘れてしまったようだ。顔は埃で薄汚れて、髪は老婆のようにぼさぼさに乱れている。
 これが自分の母親だなんて、信じられない。
 けれどいま起こっていることはまぎれもなく現実で、僕の意思とは関係なく、事態は進行している。
 母はそれからも頻繁に、夜中に家を出るようになった。出るたびに考えられないほど遠くの街に歩いて行き、また迷い、泣き……。
 見兼ねて「病院へ行こう」とひとこと言ったら、彼女は烈火の如く怒り出し、手当たり次第に僕にモノを投げつけた。陶器の黒鶏、マントルピースの上の写真たち。お気に入りのロイヤルコペンハーゲンのカップ。砂糖壷。肘で顔をかばい、飛び散る破片から身を守りながら、母を止めようとしたけれど、彼女は信じられない力で僕を突き飛ばし、来客用のクリスタルの灰皿を思い切り天井のライトに投げつけた。
「……っ」
 上からキラキラとガラスの雨が降り注ぐ。
 母は輝く破片を見て子どものように歓声を上げ、今度は窓ガラスに椅子を投げつけ、テレビを投げつけ、頬や手のひらがガラスで切れるのも気にせずに、少女のように笑いころげて、部屋中を走り回った。
 僕ははなすすべもなく、部屋の隅に立ち尽くし、母が笑いながら部屋を破壊するのを茫然と見つめていた。

***
 甥っ子からの急な電話にアン叔母さんは忙しい合間をぬって、助手とともにすぐに家に来てくれた。
「あら、アン。久しぶりね」と、母はいつもの笑顔を浮かべて、自分の妹を迎える。ぼさぼさの頭にノーメイク、全身血にまみれた姿で。見るなり、事態を悟った叔母さんは母を抱きかかえて車に乗せ、僕に連絡を待つようにと言い置いて、自分の勤めるロンドン中央病院へ連れて行った。

 いまは夜。
 母がいなくなって、家は急に静かになった。
 リーリーリー。リーリーリー。
 気の早い秋の虫の声が聴こえる。
 静かだ。
 美しく完璧な静けさ。
 灯りのない真っ暗な居間に、月の光が差し込んでいる。たくさんのゴミが青白い光に照らされて、浮かび上がってる。大切なモノたち。僕たちの記憶のカケラ。それがただのゴミ屑。僕はゴミ袋を持って、幽霊のように部屋を歩いてゴミを拾う。
 砂鉄並に粉々になってしまったポルトガルのおみやげの陶器の黒鶏。僕たちのお気に入りだったのに。母と一緒に行った唯一の海外旅行のお土産だったのに。
 ソファの下敷になってるのは、僕と母の写真。二歳のとき、五歳のとき、小学生の僕、中学生の僕……。写真の中の母は今とあまり変わらない。いつまでも綺麗で、ずっと若くて。でもその写真もいまはひび割れたガラスの向こう。顔もひび割れてる。壊れた枠とガラスをゴミ袋に入れ、中の写真は丁寧に伸ばして、角が割れたテーブルの上に積み重ねた。
 テーブルの向こうには蚤の市で買ったフェーヴのコレクションが散らばっている。毎年一月になると、フェーヴを入れたガレット・デ・ロワを母は焼いた。本当はケーキ一台にフェーヴは一個なんだけれど、母は必ず二個入れて、僕も母もその年の王様になれるようにしたんだ。「そんなのずるだよ」と言う僕に、母は「シエルと一緒がいいもん」と口を尖らせた。
 ささやかだけど、かけがえのない思い出。
 ポロッと涙がこぼれた。
 ねえ、涙って一度こぼれだすと、ほろほろと続けざまにこぼれて、なんか止まらないよね。みんな、そうでしょ。僕だけじゃないよね。
 なんか、止まらないんだ。
 静かな部屋にゴミ袋のカサカサという乾いた音と僕の嗚咽がひそやかに響く。
 と、そこへ冷ややかな声が落とされた。

「泣いているのですか」

 ああ。
 最低な奴がやって来た。

***
 最低な奴はうずくまっている僕の背に向かって、淡々と告げた。
「しばらくの間、貴方の家に泊まるようにとアンジェリーナに言われました。子どもがひとりでは物騒だからと」
「……なっ!?」
 なんだって!?
 涙も、母のことも一気に頭からぶっ飛んだ。
 アン叔母さん。貴女はなんてことを!
 僕をこんな病んでる男と、僕に無理矢理キスするヤらしい男とふたりきりにするなんて!
 大人は子どもに黙って勝手なことを決める。それが子どもの危機につながろうとも。そう、危機だ。僕の貞操の危機。キスの防衛ラインはもう崩された。次に狙われているのは──うわあ。
 しかし、大人が決めたことは子どもにはくつがえせない。アン叔母さんの決定は絶対だ。ならば賢く振る舞おう。
「……わかりました。すみません、わざわざ来てくれて」
 年上にはまず敬語で懐柔だ。負け犬呼ばわりしたことはこの際、忘却の彼方へ押しやっておく。
 セバスチャンは僕の言葉を聞くと、すごくイヤなものに遭遇したみたいな表情になった──まるで毛虫かなにかに出会ったみたいに。
「……」
「……」
 ああ。沈黙の天使は今日も通る。僕たちの頭の上を。しずしずと。厳かに。まるで僕らを嘲笑うかのように。
 だが、静寂はすぐに破られた。
「──で?」
「で?」
「──で?」
「で?」
 すごい。
「で」だけで会話は成立する。
 感心してる僕を、セバスチャンは草むらにとぐろを巻いた蛇のように無表情に見据えている。
 慌てた。
「で……で、でですね、貴方の部屋ですよね。二階にゲスト用の部屋がありますから、そこを使ってください」
 セバスチャンはまったく愛想のない、冷えきった声を出した。
「貴方の部屋へ」
「は?」
「貴方の部屋へ案内してください」
 え、なんで?
「なんで、ですか?」
「理由が必要ですか」
「…………いえ」
 いえ、要りません。本当は要るけど。訊けないよ。ディープキス攻撃が怖いから。
 くるりと向きを変えて、セバスチャンの前に立ち、ホールの脇の階段を二、三段、登ったとき。
「クソガキ」
 と、思っても見なかった言葉が背後から飛んで来た。
 振り返ると、セバスチャンは何事もなかったような顔をして澄ましている。でも聞き間違いじゃない。
「いま、なにか言いました?」
「クソガキ、と言ったんですよ」
 平然と返された。
──この野郎。
 理不尽な言葉に、むくむくと怒りが持ち上がる。ぐっとこぶしを握ってこらえた。
「おや、反論もしないのですか?」
 声が笑いを含んでいる。
「つまらない子どもになったものです。以前の貴方はそんな風ではなかったのに」
「意味がわかんないよ。なんでそんなことばかり、言うん……!」
 突如セバスチャンは獲物に食らいつく狼のようにしなやかに動き、ドン! と僕を手すりに追い詰めた。
──しまった! キスが来る!
 そう思った瞬間、僕は咄嗟に上下の唇を口の中に仕舞っていた。つまり口は一文字にまっすぐ。線みたいに。
 セバスチャンは意表を突かれて、目を丸くした。僕を逃さないよう、からだで前を塞いで、クククッと喉の奥で鳩みたいに笑った。そのまま大きく喉をのけぞらせて、声を出さずに笑ってる。
 大人の喉仏が上下する。
 どきりとした。
 セバスチャンの笑顔は爽やかで、それまでと別人のよう。
 僕は魅入られたようにその顔を見つめ……そのとき、結んでいた口元が一瞬ゆるんだのだろう。チャンスを掴んだセバスチャンの唇は、すかさず僕の唇に重ねられた。
「んっ!」
 柔らかい舌がすばやく口の中に滑り込み、あの快感を引き出して、あっという間に僕を攻め落とす。
 上顎を舌でこすられると、なんでこんなに気持いいんだろう。舌を絡め合うと、なんでこんなに……。
 僕の右の瞼にセバスチャンの左手が触れる。びぃん、と共鳴するあの音が、またどこからか聴こえ出す。僕とセバスチャンを包み込むように、音は反響しながら、ふたりの周囲をぐるぐると回る。

──覚えていますか?
 なにを?
──貴方が五歳の頃
 五歳の頃?

 幻聴?
 夢?
 水の中みたいにわんわんと声が反響してよく聞き取れない。
 曖昧に聴こえる声と、音叉の響き。入り混じったその音はあたたかくて、不思議に心地よく……。
──力が入らない。
 僕のからだはずるずると手すりから階段の上にずり落ちる。力なく、くったりと横たわる僕の上に覆い被さり、セバスチャンは細く尖らせた舌先で首筋を愛撫し始めた。濡れた舌が甘い官能を喚び、四肢が痺れるように疼き出す。
「あ……っ」
 シャツのボタンが次々とはずされる。舌は鎖骨を舐め、そうして胸の突端を目指していく。腰から下がぐずぐずに溶けてしまって、もうどうでもいい感じ。からだ中、熱くて、疼いて、たまらない。
「そんな顔をされたら、犯したくなる……」
 欲望を剥き出しにしたセバスチャンの呟きを耳にしても、僕はもう抗えない。催眠術にかけられたみたいに、セバスチャンにされるがまま。唇からはかすかな喘ぎさえ漏れてしまう。
「……ん、ぁは……」
 いつのまにか下着の中に入ってきたなめらかな指が、静かに僕を愛撫する。濡れ始めた先端をセバスチャンは親指の腹で、軽くやさしく撫で続ける。
 からだがカタカタと震えてる。つま先がぎゅっと丸くなって、頭の中がぼおっと霞んで、もうなにも考えられない。
──強く触って。もっと強く。
 セバスチャンのシャツをぐっと掴んで、強請るように腰を動かした。からだを寄せて、腰を擦りつけて、もっと、もっと、と……。
 ふいに耳元でささやかれた。
「誘惑が、お上手ですね」
「──ッ!」
──どこまでコケにする気だ!
 恥辱に我を忘れ、拳をかためて殴り掛かった。
 僕のひとつめのパンチを彼は軽々とかわし、ふたつめに繰り出されたパンチを片手で受け止めると、背中をぐいっと引き寄せた。
「嗚呼。まだそれほどクソガキではないのですね。よかった」
 愛想よく微笑み、「では貴方の部屋に行きましょう」と僕の頭をぽんぽんと叩いて、さっさと階段を上っていく。
 僕は馬鹿みたいに階段に突っ立って、しばらくの間、ぽかんとしていた。
 まったくわけがわからない。

***
「ここ、だけど?」
 むっつりと言って、細く扉を開けると、セバスチャンは片手で扉を大きく開き、ずんずんと奥に入ってしまった。
「ちょっと」
 無視。
 彼は部屋を一瞥すると、おもむろに持っていた大きなバッグを開け、そこから寝袋を取り出した。
「あの……」
「シャワーは浴びてきたので、今夜は結構です」
 と聞いてもいないことに返事をし、寝袋を僕のベッドのすぐ横に敷いて、中に潜り込んでしまった。
 そんなところで寝られたら大変邪魔ですし、夜中にトイレに行くときに絶対踏みますし、大体、僕のベッドタイムを……違う、違う! 一番大事なことを忘れている。
 夜、襲われたらどうする?! 寝込みを襲われたらっ!
 この体格差じゃ、まず勝てない。さっきみたいに音叉が鳴って、からだに火をつけられてしまったら。
 真夜中。突然、両手首を拘束されて、服を剥ぎ取られ……。
 妄想が暴走する。
「おい、出て行っ……」
「うるさいですね」
 カチンときた。部屋の主はこの僕だ。
「なんで、そこで寝る?! あっちの部屋に行ってよ」
 セバスチャンはごろんと寝返りを打って、こちらに背中を向ける。
「困ります」
 無言。
 寝返りを打ったほうに回って、もう一度言った。
「出て行けって」
 くるりと今度はベッドのほうへ寝返りを打つ。
 ああ、ザ・ディスコミュニケーション。こんな奴と一緒の部屋で寝るのはごめんだ。
「なら、僕があっちに行く」
 踵を返すと、
「待って下さい」
 寝袋から伸びた手に、足首をぐっと掴まれて、前につんのめった。
「あ、危ないだろっ!」
 怒鳴ると、セバスチャンが寝袋の中から、不安げな表情で僕を見上げている。
「……?」
 あ、と僕は気づいた。
 そんなことってある? ……でも。
「──もしかして…… ひとりで寝るの、苦手……?」
 聞くと、セバスチャンは白い顔をほんの少しだけ赤くして、もぞもぞと寝袋のなかへ頭ごと入ってしまった。
「え?」
 まさか。当たり? え? え?
 唖然としていると、寝袋の中からブツブツと念仏のような声が聞こえてくる。
「ここは初めて来ましたし」「別に寂しいわけじゃありません」「寝袋、好きですし」「鳩がいなくても」……
 声はだんだん小さくなる。そのうちに、すうすうと寝息を立てて、セバスチャンは眠ってしまった。
──なんだよ、こいつ。
 殺気立つようなさっきの淫靡な気配は微塵もなく、子どものような寝顔。この落差はなんなんだ。
「まあ、この調子なら襲われそうもない……か」
 気休めを自分に呟いて、僕はセバスチャンの寝袋を跨ぎ、自分のベッドに入った。一応、布団の中に、買ってもらってから一度も使っていない、クリケットのバッドを忍ばせて。

 ベッドの中から、太陽系が描かれた天井を見つめた。この柄、母が選んでくれたんだっけ。「男の子はみんな宇宙飛行士になりたいんでしょう?」とか言って。
 バカな母。僕は宇宙飛行士なんて全然なりたくないのに。
──いまどうしてるのかな。
 光る破片に喜んで、楽しそうに部屋のガラスを割っていた、無邪気な母の姿が脳裏に浮かぶ。
 病室のベッドにおとなしく寝ているだろうか。院内を歩き回ったりしていないだろうか。
 母は……元に戻るんだろうか?
 太陽系が滲んだ。木星の輪がぼやけてしまう。火星なんて赤いだけの塊。
 下唇を噛んで、濡れた頬をシーツに押し付けた。両手で肩を抱きしめて、蓑虫みたいにぎゅっと背中を丸める。
 ほら、こうすると誰かに抱きしめられてるみたいだろ?
 優秀な僕は知っている。
 孤高の僕は知っている。
 ひどく寂しいとき。そう、たとえば友達のいないことがひどく堪える夜なんか、こうやるんだ。そうすれば、からだがあたたかくなって、心も少しはあたたかくなるのさ。
 ゴソッと音がした。セバスチャンが寝返りを打ったらしい。床から聞こえる平和な寝息がしゃくに障る。僕の悲劇的な状況とまるでそぐわない。
 大きくため息を吐いた。
 母は壊れて病院へ、代わりに病んでる男が僕の家にやって来た。
 ああ、残念な僕の夏休み。
 もう半分が過ぎてしまったよ。

to be continued…