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セバスチャン・ミカエリスは荒れていた。
いつもなら、たいていのトラブルはうまく避ける自信があったし、同僚のミスをフォローすることなど、毛ほどの労力も使わないはずだった。しかし今日に限っては、いままで遠ざけてきた不運がすべて身に降りかかってきたようで、覚えのない失敗を押し付けられ、謝罪させられ、ミスを招いた当の同僚からは、無能呼ばわりされる始末で……そう、この日のセバスチャンはこの上なく不幸な運気を背負った男だったのだ。
そんな男の前に、どこか色気のある美しい少年が現れたとしたらどうだろう。
少女のようでいて、明らかに違うのは不遜ともいえるその態度。高慢そうな面構え。こいつを跪かせたらどんなにか気分がよいだろうと、たいがいの男なら思うはずの美貌。
混み合うカフェの片隅のテーブルで、いらいらした気持ちを持て余しながら、強い酒を呷っていたセバスチャンは、突然、少年に声をかけられた。あたかもセバスチャンが彼を呼び出したかのように、迷惑そうな、だるい声で。
「おい、お前」
「……なんです」
不意に不機嫌な声を浴びせられて、セバスチャンはいらいらを一層募らせた。
「なんだっていいだろう。なあ、二万でいいぞ?」
「はあ?」
「二万でどうだと言っている」
「なんのことです?」
「二万で、抱かせてやると言っているんだ」
と、少年は少し青ざめた顔を向けて言った。
なるほど、男娼か。くだらない。そんなものを抱く趣味はない。セバスチャンは野良犬を追い払うように、あちらへ行けと無言で手を振った。
「……なら三万でどうだ?」
耳を疑った。
「どうして、高くなるのです」
「お前が二万で手を打たないからだ。もっと高くなるぞ」
「馬鹿馬鹿しい」
立ち上がって、テーブルにコインを投げ、カフェを後にした。散々な一日だと思ったら、最後にこれか。浮浪者みたいなナリの少年につきまとわれるとは、厄日極まりだ。
「おい、お前! 待て」
セバスチャンは振り向きもせず、足早に歩いた。明日もまたつまらない仕事が待っているのだ。さっさと帰って眠ってしまおう。背中越しに「お前を……」と呟く声が聞こえたが、もう耳を貸すつもりはなかった。
角を曲がるときに、くだんの少年が丸鼻で豚のように太った男に声をかけられ、無理に抱き寄せられるのが目に入った。ぬめぬめとしたタラコのような分厚い唇を頬に押し付けられ、必死で小さな手で押し返している。
「嫌だっ。やめろ!」
「金ならあるぞ。さあ、行こう、坊や」
嫌がる少年の腰を抱え、丸鼻の男は引きずるようにして、カフェの前から少年を連れて行こうとする。そのとき、救いを求めるような少年の瞳と目が合った。
しかし少年はすぐにセバスチャンから目を逸らし、覚悟したように唇を結んで、引きずられるままに行く。助けるつもりなどなかったのに、少年のなにもかもあきらめたような表情が心を動かした。
「……横取りしないでいただけますか」
気付いたときには、もう男を呼び止めていた。
「おう? 何だ、お前」
「その子は私が買ったのです」
「いいや、こいつはひとりだったぞ。お前の連れじゃない」
「ええ、一緒にいるところを見られたくなかったので、離れて歩くように、私が言いつけたのです」
丸鼻の男は卑屈に顔をゆがめ、脂ぎった太い指をセバスチャンに突き付けた。
「へっ、俺はな、見ていたんだよ。お前はこいつの誘いを断ってただろう? それを惜しくなったからって、今更しゃしゃり出て来ちゃ困るよ」
さきほどのやり取りを見られたとあっては、返す言葉がない。セバスチャンが返答に詰まっていると、
「買われた」
それまで沈黙していた少年が口を開いた。
「さっき、この人に買ってもらったんだ。だから、あんたとは行かない」
「おい、嘘をつくな」
「嘘じゃない! この人の言う通りだ。わざと離れて歩いていたんだ」
男の手を振り切って、少年はセバスチャンにすがるように身体をすり寄せた。丸鼻の男は短い腕を伸ばしかけたが、セバスチャンの背後にパトロール中の巡査の姿を認めて、しぶしぶ腕を下ろした。チッと小さく舌打ちをし、
「フン! 最初から好みじゃないんだよ、そんな痩せっぽっちのガキ」
と、捨て台詞を吐いて、別の相手を物色しによろよろと広場のほうへ戻っていく。
さて、とセバスチャンは腕にぶらさがるようにして張り付いている少年を見下ろした。
「……これからどうするんです」
セバスチャンの問いに、少年は黙って手を引っ張った。
◆
案内された場所は、カフェからそう遠くない路地裏の小さな家で、出てきた老婆に少年は耳打ちした。老婆はさかんに何事か訴えていたが、少年はかぶりを振って、その場から逃れるようにセバスチャンの手を取り、急いで二階へと連れて行く。
部屋は心配していたほど汚くはなく、そこそこに清潔で、そして意外と居心地よく作られていた。
「ふうん……」
男にせよ、女にせよ、街で買うことがほとんどなかったセバスチャンはもの珍しげに部屋を見渡した。
木製のシンプルなベッドがひとつ。椅子がふたつ。小さなテーブルが窓際に置かれている。場にそぐわない手縫いのパッチワークのテーブルクロスが目を引いた。売春宿というよりは普通の下宿の一室に近い。
少年はと振り返ると、部屋の隅でさっさとシャツを脱ぎ、ズボンを下ろそうとしている。
「脱がせる楽しみを取り上げるのですか、貴方は?」
少年ははっと顔を上げると、言葉の意味を理解したのか、みるみるうちに顔を真っ赤にした。慌ててズボンをぐいっと持ち上げて、履き直す。小汚いシャツを肩に引っかけ、両手を腿に添えてぎこちなく立ち、「じゃあ、こんな感じで……」と口の中でぼそぼそ言った。
さっきまでの強気な態度はいったいどこへ消えたのだろう。くすりとセバスチャンは心の中で笑った。黒いコートを椅子の背にかけ、衿をくつろげながら、少年のもとに歩み寄る。
不安げな表情で立っている少年の顎を指でくいっと持ち上げ、瞳を覗き込んだ。蒼い瞳が不思議な磁力を放っている。外では気付かなかったが、もう片方はアメジストの紫色。オッドアイか。
「いまは、いくらです?」
「え?」
「貴方の値段。三万? それとも四万?」
「に、二万」
「おや、それでよいのですか」
「い、いい! 二万だ。文句あるなら……」
「二万で結構ですよ」
酷い一日で気分が荒んでいたこともあったし、なぜかこの少年に惹かれるものがあったと認めざるを得ない。男を買うなどまったく自分らしくない行動だが、やけを起すときとはそういうものだ。ほんのかすかな心のひび割れ。苛立ちと不安。その隙間に魔はひそやかに忍び込んでくる。
いま抱こうとしているこの少年は果たして魔なのか、あ
るいはきつかった一日を癒す精霊なのか。
◆
「……ぅん」
長いキスから唇を解放してやると、少年は甘い吐息を吐いて、セバスチャンの胸に寄り掛かった。すっかり身体の力は抜けて、瞳は快楽に蕩け始めている。
「キスだけで感じているんですか?」
意地悪く囁くと、少年はむきになって言い返す。
「か、感じてなんかいないっ。変なこと、言うな!」
「おやおや、感じて頂けないとは。そのほうが残念ですよ」
少年は淡く濡れた瞳でセバスチャンを見上げ、しばらくもじもじと言い淀んでいたが、思い切ったように小さな声で言った。
「なあ……。もっと、して……」
「なにを?」
「う……」
「ちゃんと言わないと、わかりませんよ」
「……キ、ス。キスだ、キス、しろ!」
これではどちらが客かわからない。セバスチャンは苦笑いしながら、親指で少年の頬を優しく撫で、ふっくらとした少年の唇に唇を重ねた。
おずおずと近づいてきた小さな舌を捕まえ、吸い上げると、ん……と少年の鼻孔から切なげな息がこぼれた。さらに深く舌を潜り込ませ、舌と舌を絡み合わせてキスを続けながら、背中を軽く抱きしめ、もう片方の手を静かにズボンへと伸ばす。ボタンをはずして、するりと中へ指を忍ばせたとき、少年が叫んだ。
「うわっ! お、お前、そんなとこ! だ……めだっ!」
「は?」
「触るなんて……」
「え?」
セバスチャンは絶句した。そこに触らないでいったいなにをしろと言うのだ。さっきは自分から脱ごうとしていたではないか。少年はボタンをはずされて、ずり落ちそうなズボンを懸命に引っ張り上げ、セバスチャンを睨んでいる。
「だって、そのために私を誘ったのでしょう」
「……ッ」
「違うのですか?」
問いつめると、ほんの一瞬ためらったのち、
「違わない……その、ちょっとびっくりしただけだ」
乱暴に言い放ち、セバスチャンの胸に顔を伏せて、背中に腕を回した。だが、その腕がカタカタと細かく震えていて、緊張を隠しきれない。再び腰に手を伸ばせば、ぎゅっと身を硬くしてしがみついてくる。
セバスチャンは、はたと思い当たった。まさか。いや、そんなはずはない。声を低くして訊ねた。
「……ひょっとして、初めて、なのですか?」
「ちが……う!」
「ねえ、正直に言ってください。未経験……なのでしょう?」
「~~~~ッ」
ぷいっと横を向いた顔で確信した。初めてなのだ。
「別にいいだろ」
少年がぼそっと呟いた。
「え?」
「初めてでも、なんでもいいだろっ。お前に買われたんだ、抱けよ、早く」
ほとんどやけになっている少年の様子に、あきれてものも言えない。厄日もついにここまで来たか。
「あのですね、私は無理にする趣味はないのですよ。やめておきましょう」
「なにをっ! 貴様、バカにするのか。ぼ、僕はできる。やれる!」
ぷっと吹き出しそうになるのをやっとの思いでこらえた。
「そういうものではないのですよ。経験のない貴方は私を満足させることはできない。つまり、仕事にならない。仕事ができない貴方は、客を取る資格はありません」
いささかきつい口調で言うと、少年は目に涙をためて、うつむいてしまった。ふうと長い息をつき、少年の目の高さにしゃがみこむ。
「お金が必要なのですか? それなら、差し上げましょう」
「……施しか?」
やれやれ。面倒な子だ。
「先払い、ですよ。いつかできるようになったら、私を満足させてください」
と、立ち上がると、少年はキッとセバスチャンの顔を睨みつけた。
「お前っ、僕ができるようになるって……あの豚野郎みたいのに散々ヤられて、それで、たっぷり仕込まれた僕を抱くっていうのか? お前、それでいいのか?」
「いいのかって……。貴方が何を言っているのか、よくわからなくなってきました」
「うるさいっ。抱けと言っているだろう。それとも、なんだ…………お前、できないのか?」
ははっと嘲るような笑いを浮かべられて、癪に障った。
こちらが優しくしてやれば、つけあがって。そんなに抱いて欲しいのなら、お望み通りにしてやろう。
セバスチャンは、さっと少年を抱き上げると、乱暴にベッドに投げ落とした。
「……な……?」
腹を立てた少年が起き上がろうとするのをさらに押し倒し、両手をひとまとめにして頭上に抑え込んだ。空いたほうの手で、遠慮なく少年のズボンを脱がせていく。
「では、きっちり二万分、愉しませてもらいましょうか」
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