ようやく床についた主はいつもにも増して口数が少ない。ここのところの番犬の仕事の疲れがまだ抜けていないのか。同じ年頃の少年よりひと回り小さい身体が今夜は一層細く儚げに見える。
「…おやすみなさいませ」
毎夜の通りに燭台の火を吹き消し、扉に向かって歩く。と、くぃっと小さくひっぱられて、振り返った。燕尾服のテールを主が軽く引っ張っている。…随分久しぶりですね。貴方がそんな仕草をするのは。
「御用ですか、坊ちゃん」
「…ここにいろ」
「おや、珍しい。そんなお言葉を聞くとは思いませんでした。子守唄もご所望ですか?」
「ああ、そうだな」
「…!……」耳を疑った。
「どうした」
「本気、ですか?」
「お前が歌うと言ったんだ。聞いてやる」
「……」
いつもの様にそんなものはいらん!と言われるとばかり思っていた。見れば、冗談を言っている顔でもない。眼帯をはずした蒼と紫色の瞳がこちらをじっと見つめている。…いつもより少しばかり影が薄い。
「では、僭越ながら子守唄を歌わせていただきます」
背筋を伸ばして、息を吸い、さて…と始めようとした途端、主の罵声が飛んで来た。
「オペラ歌手か、お前はっ!どこに子守唄を立って歌う奴がいる!!」
「…は…」
「お前、子守唄を歌ってもらったことがないのか」
「…嗚呼、そういえば」
「つくづく気の毒な悪魔だな」
あきれ果てたような顔で息を吐き、ポンポンと、ベッドを叩く。…ポンポン?
「子守唄はベッドの中で、子どもの傍らで歌うものだろう?」
少し、動揺した。悪魔も魅了するほどの邪気のない表情でそんなことを言う。
「こういうときだけ、子どもになられるのですね」
わざとらしくふぅとため息をついて、お仕着せの燕尾服を脱ぎ、サイドテーブルに置く。一歩踏み出したとき、じゃらり…と音がして、懐中時計の鎖に気づいた。主の肌に触れたら冷たいだろう。歩みを止めずに身から外した。
「失礼いたします」
するりとベッドの中に入り、主の傍らに身を横たえる。ふたり並んで顔を見合わせた。
「…」
「…」
主はフっと笑った。
「腕を。セバスチャン」
頭を持ち上げて、命じる。空いた空間に右腕を入れれば、そこに頭を乗せてくる。見慣れているはずの銀灰色の髪がふわりと顎をくすぐって心地良い。温かい体温が伝わってきた。
「歌わないのか?」
「…ただいま」
催促されて我に返った。なにを歌おう。…嗚呼、ではひさしぶりにあれを。
***
低く静かな旋律。単調でかすかにもの哀しい。
…あれはいつのことだっただろうか。よく思い出せないほどの遠い昔。いまはもうどこにもない言葉を話し、唄を歌い、群れて、狩りをしながら命をつないでいた人間たち。もう誰も覚えていないだろう…その唄もその言葉もその人々のことも。
「どこの唄なんだ、それは?」
「さあ?いまはもう、存在しない国の民の唄と申しましょうか」
「ない国?」
「他からやってきた人間に土地を奪われ、追われ、殺された。たぶんひとりも残っていないでしょう。国は滅び、今では別の名前の国となって栄えていますが」
「滅ぼされた国の唄か」
「ええ。…その民がよく歌っていた恋の唄です」
「ハッ。恥ずかし気もなくよく言う。大方、娘たちを誑かしていたんだろう?起きていたら張り倒しているところだ」
「坊ちゃん。ヒトの感情で二番目に強いのが恋愛感情ですよ。そう馬鹿にしたものではありません」
「…ふ…一番強い感情はなんだ」
「坊ちゃんならお分かりでしょう?」
「……」
主は黙って天井を見上げている。
「…怒り、だな」
きゅっと唇を結んだ。怒り。それがヒトの感情で一番強い。彼を支えているのはその強い怒り。それがあるからこそ、今日まで自分を見失わず、迷わずに歩き続けている。
「ヒトはヒトを狩りますね」
「…そうだな…」
主は小さくため息をつく。軽く私を睨んで、お前だって、人を人とも思わないじゃないか、それは私が悪魔ですから…お決まりの戯れ言の後、もっと歌えとねだられた。
***
数曲歌ったところで主の気配が静かになった。そっと腕を抜こうとすると、声がした。
「行くな」
「…坊ちゃん?」
「朝まで、ここにいろ」
「添い寝、ですか?いつからそんなお子様になられたのです?子守りのために私はいるんじゃないんですよ」
「ふん、似たようなものじゃないか。こんなことは、これきりない」
ーー今日はバレンタインデーだから。
主はつぶやくと大きなクマを抱きしめるように私の胸に腕を回し、寝息をたて始めた。…本当に貴方という人は…。幼さの残る顔を見つめ、シャツを握る細い指に触れる。愛おしい……などと「らしく」ないことを想ってしまった。
夜が明けるまでまだ長い。たまには眠ってみようか。今夜なら主と同じ夢を見られるかもしれない。…その小さく儚い肩を抱き寄せ、目を閉じた。遠くに恋の唄が聴こえるーー。
fin