デビルズフードケーキ
「わあ、真っ黒~! なぁに、このケーキ?」
セバスチャンが運んで来た皿を見て、エリザベスは目を丸くした。
彼女が驚くのも無理はない。
真っ黒なケーキが純白の皿の上に鎮座しているのだ。スポンジはもちろんのこと、間に挟まれたクリームも、デコレーションも真っ黒。どこもかしこも黒いケーキ。
──まさか失敗したんじゃないだろうな。
シエルの胸を不安がよぎった。
決して失敗などしない、完璧な悪魔で執事がそんなケーキを客人に出すわけはないと思っても、一抹の不安は隠しきれない。
そんなシエルの心を知ってか知らずか、セバスチャンは平然と一切れずつ、ケーキをサーブする。
「こちらは『悪魔のケーキ』と呼ばれているものでございます」
「あくまのけーき?」
「はい、エリザベス様。『デビルズフードケーキ』と申しまして、悪魔の大好物、食べたら頰も落ちるほど激甘で美味なケーキ、とアメリカで大変流行っているスイーツでございます。本日は六月六日、世間でいうところの『悪魔の日』です。せっかくですから、それにちなんで、いつもとは違うチョコレートケーキをお作りしてみました」
「悪魔のケーキなんて、楽しーい! ふふ、食べたら、悪魔になっちゃったりして!」
「っ!」
セバスチャンとシエルはぎょっとして、一瞬固まった。そうとは気づかず、エリザベスは無邪気に続ける。
「あっ、いいことを思いついたわ! これを食べたら、悪魔になっちゃうっていうのはどう? 今日は悪魔になって遊びましょうよ!」
──悪魔の目の前で、悪魔ごっこか?
傍らのセバスチャンを見やれば、後ろを向いて、くくくと肩をふるわせている。シエルは苦虫をつぶしたような顔をして、黒いケーキを忌々しく睨みつけた。
***
「おいし~い♪」
ケーキを一口食べたエリザベスが、嬉しそうな笑顔を浮かべて、叫んだ。
「すごぉく甘くて、すごぉくおいしいぃいいっ!」
瞬く間にたいらげて、セバスチャンにおかわりをせがんだ。
「もうひとつ頂戴、セバスチャン」
「エリザベス様。このケーキはバターと砂糖とチョコレートをふんだんに使っておりまして……つまり大変に高カロリーなのです。どうか、召し上がり過ぎませんように」
「だいじょうぶよ、セバスチャン。剣のお稽古は結構きついのよ。ケーキのカロリーなんて、あっという間に消費するわ!」
セバスチャンの言葉なぞ意に介さず、エリザベスは次から次へとデビルズフードケーキをたいらげる。
──あんなに食ったら、さすがに消費しきれないんじゃないか。罪作りな、まさに悪魔のようなケーキだな。
ひときれで胸焼けしてしまったシエルは、エリザベスに気づかれないように、そっとフォークを置いた。
「うう~ん、食べた、食べたわっ。さ、悪魔にならなきゃ!」
ポンッとエリザベスは椅子の上に飛び乗って、キッと周囲を見回した。
「呪いをかけてやるぞ~、悪魔だぞう~」
眉間にしわをよせ、低い作り声でしゃべるエリザベスの姿があまりにおかしくて、シエルは吹き出してしまった。
「な、なによ、シエルったら。シエルだってケーキを食べたんだから、早く悪魔になって」
真っ赤な顔をして怒鳴るエリザベスにせかされて、
「悪魔になるって……いったいどうするんだ?」
「えっと、そうね。人にいじわるしたり、ええっと…嘘をついたり……?」
「それなら、普段、坊ちゃんがなさっていることですね」
とセバスチャンが横から口を出す。
「えっ、そうなの、シエルったら!」
「いや、そんなことはしてないっ! いい加減なことを言うな、セバスチャン」
ぶんぶんと激しく頭を振りながら、執事の言葉を否定するも、当の執事はニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべている。
──あいつ。あとで見てろ!
「さあ、シエル、悪魔になって! セバスチャンもよ」
「いえ、私は」
「だめよ、セバスチャンもケーキを食べて、悪魔になって!」
「エリザベス様、私はあくまで執事。主人と共に遊ぶなどとんでもありません。遠慮申し上げます」
そうなの、残念だわとしょんぼりしたものの、すぐに
「あ、そうだわ!」
と屋敷の使用人たちを呼びつけ、ケーキを食べるよう強要した。彼らは逆に大喜びでお裾分けにあずかり、さっそく悪魔のふりをして、いたずらを始めた。
「トリック オア トリート!」
「フィニ、それじゃ、ハロウィーンだろ」
「地獄に落ちろ~ってダンがいってる」
「地獄の沙汰も金次第、ですだ~!」
「ほっほっ」
悪魔ごっこはだんだんと、鬼ごっこのような様相を呈し、彼らは「悪魔だぞう」と叫びながら互いを追いかけて、屋敷中を走り回っていた。
***
「ふぅ…」
すっかり満足した様子のエリザベスを見送り、自室に戻ったシエルは大きくため息をついた。
「おつかれさまでございました、坊ちゃん」
すました顔で声をかける執事をうらみがましく見上げ、
「お前があんなスイーツを作るからだっ」
と声を荒げた。
「悪魔が大好物のケーキなんて、悪趣味にもほどがある」
「坊ちゃん、悪魔はあのようなものを好みません。あれは人間が勝手にそう名付けたものですから」
「なら、お前たちの好物はなん……」
言いかけて、シエルははっと気づいた。
──そうだ、こいつらの好物は、ヒトの……。
シエルの心の中を読んだように、セバスチャンの唇の片端が持ち上がる。
「そうですよ。私たちが好むのは、ヒトの魂です」
紅茶色の瞳が一瞬にして紅く変じた。
針のように細い虹彩。
薄く開いた唇からは鋭い犬歯が見える。
背筋が急速に冷えた。
「坊ちゃん? どうかなさいましたか?」
わざとらしく気遣うセバスチャンの視線を断ち切るように、
「ふん、悪魔のケーキがあるなら、天使のケーキもあるのか」
と話をそらせば、即座に
「ございます。『エンジェルフードケーキ』と申しまして、『悪魔のケーキ』とは逆に真っ白なシフォンケーキです。ただ──悪魔のケーキと比べて、味も薄く、ただ甘いだけのケーキのようですが」
と眉根を寄せた。
「それなら、来年の悪魔の日にはそれを……」
嫌味をこめて命じるつもりが、途中で言葉をのんだ。
──しまった。今日はどうかしている。
なんていう悪手。これがチェスならたちまちチェックメイトだ。
セバスチャンの顔色を窺えば、おもしろそうな表情を浮かべて、こちらを眺めている。
来年まで僕が生きているなんて保証はない。復讐が完遂したら、僕の魂はこいつに喰われて……。そうだ。僕には未来なんてないんだ。来年の約束などできはしない。
すぅっと息を吸い込み、シエルは蒼と紫の瞳でまっすぐに執事を見つめた。
「セバスチャン、命令だ。来年の今日、まだ僕がこの世界に存在していたなら、『天使のケーキ』を作れ!」
悪魔は一瞬息をのみ、ルビー色に染まった瞳でシエルを凝視すると、ゆっくりとひざまずいた。
「イエス、マイロード」
もしも来年の今日、貴方が生きていたならば、上質なバニラ・ビーンズとレモンをたっぷり使って、『天使のケーキ』を焼きましょう。真っ白な雪のような、純白のケーキを。
貴方が生きていたならば……