この物語は黒執事18巻カバー下の「黒宮司」の二次創作です。
[登場人物]
不破シエル
セバスチャン
妖怪
白髪の男
その一
その男と出会ったのは、カンカンと鳴る遮断機の前で、列車が通り過ぎるのを待っていた時だった。
線路の向こう側に、古めかしい黒い燕尾服を着た男が立っていて、こちらを見つめている。その視線は強く、身体の隅々まで見られているようで、シエルの全身が奇妙にざわめいた。
男はシエルが気づいたのを見てとると、切れ長の瞳を軽く細めた。
濃い琥珀色……いや紅茶色といっていい瞳は何の感情も湛えていない。
ただじっと獲物を見るような視線を投げているだけだ。
唇は薄く、男が酷薄な男であることを表している。
その唇が唐突に動き、短い言葉を紡いだ。
「……──」
──えっ?
「なんだ……?」
シエルが耳を澄まそうとしたとき、突然、男とシエルの間を轟音を立てて列車が通り、窓に並ぶ不機嫌な乗客たちの顔を見せつけながら走り去ったとき、向かいにいたはずのその男は消えていた。
幻か……? とシエルは目をごしごしとこすった。しかし、視界には一切不審なものはなく、陽炎の立つ、ひと気のない田舎の道が続くだけ。シエルは道端にころがっている小石を蹴り、線路を渡って家に向かった。
***
シエルの家は代々続く古い神社である。
父も祖父も曾祖父も宮司として、この不破神社を受け継ぎ、シエルも当然そのつもりだった。大人になったら宮司になると、ごく自然とそう考えていたのだ。だが、両親が突然の交通事故で亡くなり、宮司としての教育をまだ受けていなかったシエルは、なにもできないまま取り残された。
この神社をどうするのか。
継ぎたい気持ちはあるけれど、宮司の仕事をいったい誰に教えてもらったらよいのか。
シエルを導いてくれる人間など、ひとりも思い浮かばなかった。
いまは遠い親戚のタナカという老爺に面倒をみてもらっているが、その彼も神社の仕事には疎く、なにを尋ねてもほっほっと笑うばかり。老爺の笑顔にシエルは癒されたものの、自分がもしも宮司になれなかったら、いずれここを手放すことになるかもしれない、と最悪の事態を考えていた。
不意にざわざわと神社へ続く参道の大杉が鳴った。
風はない。
不審に思って立ち止まり、上を見上げた。天まで届くような巨大な杉が、参道の両脇に続いている。木が太陽の光を遮っているせいで、昼でも薄暗い。
音がしたのはほんの一瞬で、さっきの葉ずれが嘘のように、今、杉はしんと静まり返っていた。
「なんだろ……」
頭を傾げながら、仄暗い参道を小走りに抜け、「ただいま」と古ぼけた家の玄関に靴を脱ぎ散らかして、上がった。
「ただいま、タナカさん……あれ?」
いつもいるはずの茶の間に老爺がいない。
座卓の上にはいかにも年寄りが好きそうなミニ羊羹や甘納豆の小袋が入っている菓子盆、急須に湯のみがそのまま置かれている。
だが、書き置きのメモもなく、家に気配はない。
「夕飯の買い物かな」
シエルはあまり気にせずに、とんとんと二階に上がり、学生鞄を部屋の片隅に放り投げた。詰め襟をゆるめて制服を脱ぎながら、ふと先程の男のことを思い出した。
「あの男……」
幻ではなかったのかもしれない。
以前、どこかで会ったような気がする。
恐ろしいほど美しい男だった。
すらりと均整のとれた身体。顔も身体も完璧に左右対称で、まるで作り物のようだった。
──「……──」
あの唇が線路の向こうでどんな言葉を紡いでいたのか、知りたかった。
結局、夜になってもタナカは家に戻らず、シエルは杉が立てる不吉な音を聞きながら、浅い眠りについた。
──タナカさんはいったいどうしたんだろう……。
一晩中まんじりともせず、朝、買い置きのパンを牛乳で流し込んで登校したシエルは、授業中、教科書を見るふりをして、ずっとタナカのことを考えていた。タナカがこれまで無断で家に帰らなかったことはない。留守にするときは必ずメモを残してくれた。
もしかしたら、どこかで事故に遭ったんだろうか? 今日もまた帰ってこなかったら、警察に知らせたほうがいいんだろうか……。
ふと目の端に、黒い影が走った。
──あ、カラス?
「不破! 不破シエル!」
チョークがびゅっと飛んできて、パシンと白い塊が頬を叩いた。
「うわっ」
「おい、不破! ちゃんと聞いてんのか?」
目を上げれば、丸メガネの教師が眉を寄せて怒鳴っている。
「……すみません」
「すみませんじゃねえよ、もうすぐ試験だろ。いくら優秀ったって、お前、授業ぐらい聞いてろ」
「はい……」
「んじゃ、不破。二十五ページから読め」
英語の教師は罰のようにシエルに音読しろと命じる。その口元がにやりと下品にゆがめられているのは、シエルが音読が苦手なことを知っているからだ。
外見こそ、プラチナブロンドに蒼い瞳──どう見ても西洋人だが、シエルは単に英国人だった祖母の血を引いているだけで、生まれも育ちも日本だ。両親も同様だから、英語など話せるわけがない。
「えーと、they アー ……」
「もういい。お前、見た目は外人なのに、その発音はなんだ? まったく見掛け倒しだな」
教師がシエルを浅ましく愚弄する。
隣の男子がそっと、シエルに耳打ちした。
「あいつ、自分がもてないからって、不破を目の敵にしてるんだ」
「大丈夫だ、気にしてない」
実際、シエルは女子にも男子にも──生徒だけでなく、教師にも──もてた。そのルックスに惹かれる者がほとんどだったが、読書好きで、物腰が柔らかく、穏やかなシエルに好意を持つ者は多かった。 しかし逆にそのルックスゆえに、嫌われることも少なくなかった。シエルの姿をやっかみ、嫉妬心が敵意に変わるのも容易いことだったのである。
「じゃあ、隣、読め……いてっ!」
教師が突然情けない声を出し、額を押さえている。
どこからか飛んできたチョークが額に当たったらしい。
「おいっ! 誰だ、今投げたのは! 前に出ろっ」
教師は手のひらで額をしきりにこすりながら、教室中を睨め回す。
そのとき。
教壇が不自然に傾き、バランスを失った教師の身体が前に倒れた。
「うあ!」
「ッ、先生!」
助け起こそうと生徒が駆け寄った途端、教師の大柄な身体がふわっと宙に浮く。
「えっ?」
生徒たちが驚いて一斉に息をのむ。
教師はまるで巨大な手につかまれたように、ゆっくりと天井近くまで吊り上げられていく。
「助けて……助けてくれっ!」
蜘蛛の巣にかかった虫のように懸命にもがきながら、眼下の生徒たちに助けを求めるも、皆なすすべもなく、口を開けて見つめるばかり。
「お、おい、見てんじゃねえよ、助けろよっ!」
すると。
持ち上げていた力がふっと消え、教師はものすごい勢いで、床めがけて落下してきた。
「うっわぁあああ!」
ガツッと大きな音がして、太った身体が床に叩きつけられる。
「イテテテッ」
「先生!」
「大丈夫ですか!」
尻餅をついた形で落っこちた教師は、尾てい骨のあたりをさすりながら、よろよろと立ち上がった。
「っ、いったい、なんだっていうんだ……?」
なにが起こったのか、教師にはすぐには理解できなかった。
たったいま、宙に浮かんでいたなんて信じられない。幻を見せられたような気分だが、青ざめた生徒たちの顔を見渡して、それが幻ではなかったことを知る。
「あ、えー……、今日の授業はここまで。あとは自習。チャイムがなるまで静かにしてろよ」
教師は首を傾げ、尻をさすりさすり、保健室に向かった。
あとに残された生徒たちは一斉に喋り出す。さっきのあれはなんだ? みんな見たよな、見た見た、男子は興奮して大声で話している。どういうことなの? あれ。こわい……女子は怯えて、教室の隅にひとかたまりになっている。
シエルは皆の輪に入らず、ひとり黙って、窓のそばに立っていた。
もうカラスはいない。
「……」
あのとき。
シエルだけが見ていたのだ。
シエルがチョークをぶつけられたとき、窓枠にいたカラスの瞳が怪しく紅に染まったことを。
──あのカラスの仕業なんだろうか……。
あり得ないとすぐに否定したが、紅く変じた禍々しい瞳が妙に気になった。
かつてどこかで見たような。
いや違う。
あの禍々しい気を、つい最近感じたような気がする……
その日はなんとも落ち着かない気持ちで帰路につき、杉の参道を抜けると、家の居間に明かりがついている。タナカが戻ってきたのだろうか。
「ただいま、タナカさん!」
玄関を開けると、ざわざわと奥が賑わしい。
「……?」
誰か来ている?
珍しいこともあるものだ。タナカさんはめったに人を家にあげないのに。
と。
「あ、おかえりなさい~!」
「鞄、お持ちしますだ」
「ひさしぶりですぜ!」
奥の座敷から出てきたモノたちにシエルは目を剥いた。
「え、えええ?」
唐傘小僧。
化け狸。
カッパ。
民話の挿絵から飛び出てきたような三人……いや三妖怪が部屋にいる。
「な……っ? なんなん? お前らなんだ?」
「おや、お帰りなさい」
異様な化け物たちに気を呑まれていると、奥からさらに妙なモノが出てきた。
真っ黒い霧のような塊……霧の表面には目玉がいくつも埋め込まれ、そのすべてがシエルのほうを向いている。中からは、うねうねとした蛸のような触手が幾つも伸びて、見るからにえげつなく、おぞましい。
「え……っ」
恐怖に固まっていると、ソレはまた喋った。
「どうしたのです? 坊ちゃん」
少し低めの甘いテノール。
シエルが眼をしばたたかせると、そこには恐ろしい化け物などではなく──……昨日、線路の向こうにいた、美しい男が佇んでいた。
その二
「どうしたのです? 坊ちゃん」
男は「坊ちゃん」と、あたかも毎日シエルにそう呼びかけているかのように、ごく自然に呼んだ。その落ち着いた声はどこか懐かしく、しかし同時に腹の底が冷えるような寒々とした気持ちを呼び起こした。
坊ちゃん、と呼ぶのはタナカの口癖だ。その呼び名が恥ずかしくて、シエルは何度もやめてほしいと頼んだが、タナカはいつもあたたかい口調で「坊ちゃん」と呼んでいた。
いま、男がその名でシエルを呼んだということは……。
「もしかして、お前、タナカさんの知り合いか……?」
おそるおそる問いかければ、
「まあ、そうですね」
嘘くさい笑みを作って、男は答える。
知り合いといわれれば、無碍にするわけにはいかない。
「タナカさんはどうした…んですか」
「お帰りになりました」
「え? 帰った? どこにですか」
タナカはシエルの面倒をみるために、自分の家を処分したはずだ。
「坊ちゃん、敬語などお使いにならないでください。私たちは貴方の使用人なのですから」
「使用人?」
「ええ、今日からはタナカさんに代わって、私たちが貴方のお世話をいたします」
『使用人』という言葉にもびっくりしたが、シエルをさらに驚かせたのは、『私たち』と男が言ったことだった。
「私たちってつまり……?」
男は黙って、キッチンを指差した。
そこには……例の妖怪三人組。
「茶葉はどこだっ?」
「この茶箪笥の中みたいですよ~」
「あっ、落としちまいましただ!」
妖怪たちがいまにも家を破壊しそうな勢いでうろちょろしている。
「いや、ちょっ、やめろ」
「あ、坊ちゃん! 今お茶を淹れようと思って!」
唐傘小僧がぴょんぴょんと嬉しそうに跳ね回る。
あわあわとシエルが止めようとするより早く、後ろからパンパンと手を打つ音が聞こえ、
「私がやりますから、貴方がたは何もしなくて結構ですよ」
男が厳しい声で命じると、妖怪たちは一斉に押し黙った。
「さあ、もう戻ってください。今日はもうそのまま出てこなくてよいですから。くれぐれも、おとなしく……おとなしくしていてください」
妖怪たちはすごすごと庭に向かいながら、
「いま二回言った」
「おとなしくって二回言いました!」
「ワタシも聞きましただよ。確かに二回でしただ」
妖怪たちはしつこく「二回」を強調し、庭の奥の古い祠の前に行くと、しゅうぅっと姿を消してしまった。
「え……?」
シエルは息を呑んだ。
あの祠は先祖代々不破神社に伝わる大切な祠だ。うろんな奴らが入り込んで、なにかあったらご先祖様に申し訳が立たない。
慌てて縁側を走り降り、腰をかがめておそるおそる祠をのぞく。
だが祠の中には、なにもいなかった。
「あいつら、いったいどこへ……あぁっ!」
シエルは思わず目を見張った。奥に祀られていた、不破神社の大切な御幣が破られている。
「おい! これ、お前らがやったのか!」
振り向いて怒鳴ると、男はすまなそうに眉を寄せ、
「申し訳ありません。急を要しましたので」
「急? 言い訳をするな! どうするんだ、これ!」
シエルが眦をあげると、男は落ち着き払って、
「それよりも坊ちゃん、今日の夕食はどうなさいます?」
と聞いてきた。
途端、シエルの腹がぎゅるるる……と鳴った。
男のつくった夕食はすこぶる美味かった。
かぼちゃのスープに、蒸し鶏と野菜のサラダ、スズキのムニエル、焼きたてのパン。洋食が苦手なシエルでも食べられる、胃に優しい献立だった。シエルが胃弱なことをタナカから聞いていたのだろうか。
「……悪くない」
「それはようございました」
まるで主人と執事のようである。
男のいんぎんな態度にも、シエルは次第に慣れてきた。しかし、ここで気を許すわけにはいかない。
御幣を破られた上に、勝手に家に上がりこまれたのである。が……。
「デザートはガトーショコラです。どうぞ」
白い皿に美しく盛られたガトーショコラを目の前に差し出されれば、怒りは引っ込み、ごくりと喉が鳴る。
男はシエルの家のどこから見つけてきたのか、覚えのない西洋柄の茶器に茶葉を入れ、熱湯を注いでいる。
燕尾服のポケットから慣れた仕草で懐中時計を取り出すと、きっちり三分間測り、温めたカップに注いだ。
微笑みながらどうぞ、と言われ、ひとくち飲めば、とびきり美味い。これまでに飲んだどの紅茶よりも美味かった。だが、それで懐柔されるシエルではない。
「おい、お前たちはどこから……」
「セバスチャン、と」
「は?」
「セバスチャンとお呼びください。貴方がつけてくださった名です」
僕がつけた? 確かにどこかで聞いたことのある名だけれど……。
シエルはおぼろげな記憶を辿った。そうだ。その名はもう死んでしまった愛犬の名前だ。父がもらってきた黒い子犬に、シエルがつけた名。……すると、この男はセバスチャンの生まれ変わりなのだろうか。
「私の前世は犬ではありません」
男がシエルの心を読んだかのように、憮然として言った。
「え」
「そもそも前世など私にはありませんし、ね。私はあくまで執事、ですから」
そう言うと、セバスチャンはシエルの顔色を窺うように見つめた。シエルがなにも言わないとみるや、がっかりした表情で、
「やはりお忘れになっているのですね。困ったものだ」
と小さなため息をついた。
──今日は大変な一日だった。
タナカさんはどこかに消えて、代わりに化け物三匹と、あの得体の知れない男、セバスチャンが家に入り込んできて。
優しげな態度をとってはいるが、踏切で見た時のあの禍々しい視線をシエルは忘れてはいなかった。自分の身体を舐めるように見つめていた男……。ぶるっと全身に寒気が走った。
「明日、出て行ってもらおう」
見知らぬ人間、いや妖怪たちに家を乗っ取られてはたまらない。シエルは決意すると、それで安心したのか、ぐっすりと寝入ってしまった。
***
「だから、なんで出ていかないんだ!」
シエルは両手の拳を震わせながら、妖怪三匹とセバスチャンに向かって怒鳴りつけた。
あれからもう一週間が経ってしまった。
毎日「出て行け!」と言うも、彼らは一向に出て行く気配がない。
口々に、
「おれらは坊ちゃんを守るために側にいるんですぜ」
「そうですよ~。全部忘れちゃったんですかあ、坊ちゃん」
「しっかりしてくださいですだ」
と心配げな顔をするばかり。
彼らのリーダー格であるセバスチャンはというと、当たり前のように日々掃除、洗濯、炊事をこなし、今朝も、
「さあ、坊ちゃん、学校に遅れますよ。朝食を召し上がってください」
と優雅な仕草でテーブルを指し示す。
そこにはこんがりと焼かれた薄切りのトースト、ベーコンに卵、ビーンズに焼きトマト……完璧なトラディショナルイングリッシュブレックファーストが並んでいた。
「……美味い」
和食党のシエルが、すっかり洋食の味に馴らされてしまった。
セバスチャンは嬉しそうな笑みを浮かべ、甲斐甲斐しくシエルの世話をする。
「じゃあ、行ってきます……」
釈然としない気持ちだったが、鞄を渡され、シエルはしぶしぶ家を出た。
その背後で、セバスチャンの瞳の奥が紅く妖しく光っていることに気づかずに──。
時を同じくして、シエルの周囲で奇妙なことが起こり始めた。
「おい、救急車呼べ! 救急車!」
放課後、掃除の時間にシエルの容姿をからかった生徒が、英語教師同様、宙に掴み上げられ、落とされて、今度は肋骨を折る重傷を負ったのだ。
「ねえ、この間も同じようなこと、あったよね?」
「ああ、不破が授業で怒られたときだっけ?」
生徒たちの記憶にも新しいあの出来事。今日もあの日とそっくりだ。クラスの生徒たちに動揺が広がる。
一度だけならともかく、二度、同じようなことが起これば、誰しも訝しむだろう。
「不破に関係あるんじゃね?」
その言葉はさざ波のように生徒の間に広がり、出来事はみるみるうちに学年中に広まった。
不破シエルの周囲に起こる「悪いこと」はそれだけでは済まなかった。
翌日、シエルの陰口を叩いた生徒数人が、車にはねられ、重体となった。
その次の日、朝礼でシエルの忘れ物を注意した学級委員が、何者かに階段から突き落とされ、足の腱を切った。
不可解な出来事は続く。
化学の授業中、シエルのミスを指摘した生徒のアルコールランプが爆発して、顔にやけどを負った。
廊下ですれ違いざまにほんの少しシエルの肩に触れた生徒が、帰宅途中に石塀が崩れ、もう少しで生き埋めになるところだった……。
「不破シエルの悪口を言っただけで、怪我をする」
「不破くんのそばにいると不幸になる」
「不破には関わらないほうがいい」
シエルと接した者すべてが不幸な事件に遭う……。怪しく不確かな噂ほど広まるスピードは速い。やがて生徒のみならず、教師もシエルを避けるようになってしまった。
クラスメイトたちはシエルに対して無視することはない。無視すれば、不幸な出来事が身に降りかかってくると思っているからだ。けれど、親しくすることも、もうなかった。
これまで、シエルは友達に恵まれ、穏やかで楽しい学校生活を送ってきた。それなりに嫌なことはあっても、ひどくいじめられることもない、平和な生活。それがあっという間に崩れ去ってしまった。
「どうして……」
シエルはきゅっと唇を噛み締めた。
自分に関わると不幸になると噂され、腫れ物に触るような扱いを受けて、これまでにない深い孤独を感じた……。
その三
肩を落とし、とぼとぼと神社の参道を歩く。まだ陽も落ちていないのに、参道はいつもよりも暗く、まるで闇夜のようだ。
「ヒッヒッ、困ったことになったねえ」
頭上から男の声が聞こえ、はっとして振り仰ぐと、太い枝に白髪を長く伸ばした男が立っている。
「せっかくこの世界に馴染んでいたのにねえ、伯爵」
──はくしゃく?
「執事くんは本当に伯爵を不幸にしかしないねえ」
「誰だ……?」
シエルの問いに男は答えず、ふわりと枝から飛び降りて、音もなく地面に着地した。白髪が舞い上がり、髪の奥に隠れていた男の顔があらわになる。端正な顔の左側から右にかけて、大きな傷跡があった。瞳は黄緑色の燐光を発し、人間ではないことはあきらかだ。
「っ」
「怖がらなくていいんだよ、伯爵。小生はね、君を助けにきたんだ」
ヒッヒッと不気味な笑い声を立てた。
「……助ける?」
「そう、あの執事くんの魔の手から、ね」
男が『執事くん』と呼んだのは、シエルの家に居座っているセバスチャンのことだろう。だが、いまのところ、セバスチャンはタナカの代わりに家事を担っているだけで、魔の手といわれるようなことはしていない。
「あいつは、別になにもしていない」
「ヒッヒッ、気がついていないだけさぁ。最近、君の周りに妙なことは起こっていないかい?」
「──妙なこと?」
言われてすぐに、このところ学校で続いている出来事が頭に浮かんだ。
──不破と関わると不幸になる。
そうだ。確かに、不可解なことが起こっている。
「君に害なす者がいれば、その相手は不幸に巻き込まれる……。あれはね、君の執事くんの……」
「そこまでですよ。葬儀屋さん」
美声が、杉の木立に響いた。
振り返ると、いつのまにかセバスチャンが立っている。しかし、いつものような笑顔を浮かべてはいない。厳しい眼差しで、葬儀屋と呼んだ男を睨めつけていた。
「おや、もう来たのかい? さすがだねえ、執事くん」
「坊ちゃんを貴方にさらわれては、元も子もありませんから」
ふたりはシエルを挟んで対峙する。
ごぉ、と風が鳴った。
参道の木々が大きくしなる。
頰を切るような鋭い気配が、あたりに充満していく。
──これは……殺気だ。
セバスチャンも男も見合ったまま、微動だにしない。
一秒、二秒、と時が過ぎる。
どちらが先んじるのか。
緊張が頂点に達したとき。
「坊ちゃん〜!」
「大丈夫ですだか!」
「おぉーい」
参道の向こうから聞こえてきたのは、妖怪たちの声。
ピンと張りつめていた空気がたちまち解け、葬儀屋は苦笑すると、
「ヒッヒッ、とんだ邪魔が入ったねえ。今日のところは失礼するよ」
とん、と飛び上がり、現れたときと同様、杉の大枝に立つと、
「またね〜、伯爵」
ひらひらと手を振って──すっと姿を消した。
「やれやれ。こんなところまで追って来るとは」
セバスチャンが白手袋をはめ直し、シエルに近づいてくる。
「あいつも……お前たちの仲間なのか?」
シエルが訝しげな顔をすると、
「坊ちゃん、彼は……嗚呼、そんなことも忘れてしまったのですか」
と眉を寄せる。
「これは、荒療治が必要ですねえ」
ため息まじりに呟いた。
***
夜になって風が一層強くなった。
参道の杉たちがざわざわと不穏な音を立てている。
床についたものの、昼間の出来事が気にかかり、シエルはなかなか眠れなかった。
──誰なんだろう、あの男。
葬儀屋、とセバスチャンは言っていた。
どこかで会ったような気がする。あの長い爪、底の知れない笑い声、黄緑色の燐光を放つ瞳……。
考えていると、突然、すぅっとシエルの部屋の戸が開いた。
「誰だ!」
こんな真夜中にいったい誰が……いや『何』が来たんだ。
「私ですよ。貴方のセバスチャンです」
聞き慣れた声が返ってきて、ほっとする。
「何の用だ」
「貴方を抱きに」
「……えっ」
「いつまでもぬくぬくとここに留まって、目を覚まさない主人に業を煮やしたのですよ」
「どういうことだ……?」
まったく状況がつかめない。
戸惑っている間にも、セバスチャンは後ろ手に戸を閉め、シエルに近づいてくる。
満月の銀の光がカーテンをすり抜けて、部屋をぼうっと明るくしている。その光に照らされて、セバスチャンの身体のあちこちから、黒い霧のような触手が這い出てきたのが見えた。
「わっ!」
細い触手がシエルの手首にじっとりとまとわりつき、ぐるりと両手首を拘束した。
「なにをす……」
言い終わらないうちに、別の触手がシエルの口の中に入り込み、声を封じてしまう。
「んっ! んん──っ!」
新たな触手がつるバラの蔓のように、シエルの下半身に絡みつき、両足もすっかり縛られてしまった。
「う……、っん」
「暴れても無駄ですよ」
セバスチャンが氷のような眼差しでシエルを見下ろした。すっと腕を伸ばし、ゆっくりと人差し指でシエルの右目の周囲を撫でる。その体温のない指は、セバスチャンが人間でないことをやはり表していた。
「貴方は私のもの。葬儀屋などに渡しません」
そうささやくと、パチンと指を鳴らした。一本の触手が器用にシエルの寝間着のボタンをはずしていく。
一つはずされるたびに、いやらしくぬめった触手が素肌に触れて、そこだけ痺れたようにじぃんと熱くなる。
「んっ、んううっ」
左右に身をよじって、必死に抗えば、ずるる……と口を封じていた触手が離れ、シエルは叫んだ。
「っ……やめろ、セバスチャン!」
「それはご命令ですか?」
「命令?」
シエルが聞き返すと、
「嗚呼。契約のことも覚えていらっしゃらない。こんなところで、生ぬるいお湯のような生活に浸っているからですよ」
「なにを言ってるんだ?」
「思い出させてあげましょう」
セバスチャンは苛立たしげな表情を浮かべながら、燕尾服を脱ぎ捨てると、しゅるる……とタイをほどく。
ぎしっと音を立てて、ベッドに膝をつき、
「夜な夜な愛し合っていたというのに、すっかり忘れてしまうとは」
薄情なお方だと、頰をすり……と撫でた。
やめろ、と言いたかった。なのに言葉は喉に張りついて出てこない。ドキドキと心臓が早鐘を打っている。
「坊ちゃん……」
身体を侵す、低く、甘い声。ぞくり、と背筋に寒気のようなものが走った。
「早く思い出して。私のことを」
「……僕とお前は、どういう関係だったんだ?」
訊くと、セバスチャンは絶望したような顔をした。
黙ってシエルに覆いかぶさり、くちづける。しっとりと濡れた唇。冷たいけれど、決して不快ではない感覚。舌でそっと口を開かされ、歯列を舐められた。
「ん……っ」
鼻腔から甘い吐息が洩れて、死ぬほど恥ずかしくなった。なのに、セバスチャンの唇からは逃れられない。ひんやりとした舌がシエルの舌を捕らえて、優しく吸い上げる。腰の奥が甘く疼いて、ふるり、と身体が震えた。
「おや、感じてるんですか?」
からかうようなセバスチャンの言葉に、シエルは頭を激しく振る。
「感じてなんかいない!」
「感じてくださらないと困るのですよ。いつまでもここにいるわけにはいかない」
シエルの両足を縛っていた触手は、いつのまにか左右の足首に絡みついて、じわじわとシエルの足を開いていく。
「やめろっ!」
ひざを閉じようとしても、触手に掴まれた足は自由にならない。
「この美しい肌も」
触手が、白いふくらはぎに絡みつく。
「この甘い汗も」
肌を伝う汗を舐めるように、触手が這う。
「この芳しい魂も」
暗闇に光る紅い瞳が、シエルの身体の輪郭をねっとりとなぞっていく。
「すべて私のもの」
指のように細い触手がじわじわと肌を這い上がり、シエルの内腿にそろり、と触れた。
「あ……っ」
「まだ、思い出さないのですか?」
「お、お前のことなんて、知らない! 思い出すっていったいなんのことなんだ!」
セバスチャンは冷え冷えとした表情で、シエルを見下ろした。
「こうまでしても思い出さないとは──……」
腹立たしそうに顔を歪め、
「期待した魂とは違いますが、腹の足しにはなるでしょう」
三日月の形に口を開き、舌なめずりをする。セバスチャンの犬歯が鈍く光った。
──っ、喰われる!
身体をぎゅっと縮めた瞬間、窓ガラスがビリビリッと震え、大きな音を立てて、割れ散った。
「お取り込み中、失礼するよ」
白髪を風に乱した葬儀屋が、大きな満月を背負って窓枠に立っている。
「執事くんが余計なことをしないうちに、小生が伯爵をもらっていくよ。ヒッヒッ」
言うと同時に部屋に飛び込み、瞬く間に触手を切り払って、シエルを奪いとると、さっと屋根に飛び退った。
「坊ちゃん!」
セバスチャンが必死に手を伸ばしても、主人には届かない。
葬儀屋は屋根の上に立つと、ずるりと背中から大鎌を取り出した。
柄に取り付けられた禍々しい骸骨が、ギラリ、と白銀の月光を反射する。
鈍く光る妖しい狂気。
対するセバスチャンも銀のナイフを懐から取り出すと、逆手に持ち、身構える。
「おや、やる気かい。じゃあ、遠慮なく行くよ」
向かってきた大鎌をセバスチャンはナイフで受けた。が、衝撃で足元がふらつく。慌てて、体勢を立て直すも、すでに大鎌は、セバスチャンの腹を狙ってやってくる。
セバスチャンは見切って、間一髪、横に避けた。
ぶん、と大きな音を立てて、セバスチャンすれすれに大鎌が弧を描く。
黒髪の先が切れて、ばっと散った。
「っ!」
「ヒッヒッ、しぶどいねえ」
葬儀屋はシエルを抱えたまま、一段高い屋根に飛び上がり、そのあとをセバスチャンも追う。
「坊ちゃんを返しなさい!」
「君の記憶のない伯爵を返したところで、価値がないだろう? 小生と共にいたほうが伯爵にとって幸せなんだよ」
セバスチャンは唇を噛み締めて、一瞬シエルを見た。
刹那。
セバスチャンめがけて、葬儀屋は大鎌を大きく振り上げる。
「セバスチャン!」
シエルは思わず叫んだ。
瞬時にセバスチャンは後方に転回し、大鎌をギリギリかわす。
「──あのときと、同じだね、執事くん」
葬儀屋はヒッヒッと笑った。
──あのとき?
「伯爵はよほどあの場面が恐ろしかったんだねえ、ここでもこんな闘いをするはめになるとは」
「うるさいですよ」
──あの場面? なにを言っているんだ、こいつらは。
葬儀屋の言葉を聞いても、シエルにはなんのことかわからない。
けれど、ふたりの間の緊迫した空気が、シエルの脊髄をジリジリと炙るように刺激する。
──いつか、こんなことがあったような気がする。
つきん、と頭が痛んだ。
──なんだろう。なにか、忘れているような。
なにを、忘れているんだろう?
「坊ちゃん、どうか私を思い出して……!」
切羽詰まった口調で乞われて、ハッと顔を上げれば、男の鋭く熱い視線がシエルを射抜いた。
紅い瞳。
針のように細い虹彩。
人ではない。
悪魔の……
そう思った途端、シエルの頭の中に、なにかが奔流のように溢れ入ってきた。
伯爵。
執事。
使用人。
悪の貴族。
女王の番犬……
そうだ。
僕は。
僕は……!
「セバスチャン!」
シエルは叫んだ。
その名を。
そう、その名は。
契約で結ばれし名前。僕が悪魔に名付けた名前!
シエルは葬儀屋の腹を思い切り後ろに蹴り上げた。
「ッ!」
葬儀屋が怯んだ隙に、大鎌の下をくぐり抜けて、セバスチャンのもとへとひた走る。
「坊ちゃん!」
セバスチャンは自分の身体の陰にシエルを守るように隠すと、葬儀屋と再び向かい合う。
「おやおや、伯爵はここでも執事くんを選ぶのかい? やっと小生特製の棺に入ってくれると思ったのに。……残念だねえ」
葬儀屋の顔がかすかに歪んだ。黄緑色の瞳の燐光が少しずつ薄くなる。
「ここまでにしておくよ、伯爵。また会おうね」
寂しく笑うと、すっと姿を消した。
***
「ようやく思い出してくださったのですか、坊ちゃん」
「──お前、さっき僕を喰おうとしただろう?」
「おや、お気づきでしたか」
「フン、気づかないわけがない」
シエルはぐっと顎を上げた。
「よくも、あんなもので遊んでくれたな」
「だいぶお気に入りのようでしたが」
「誰が気にいるもんかっ。そもそも僕はお前に身体を許した覚えはない」
「ああでもしなければ、お目覚めにならないかと思いまして」
「嘘を吐くな! あれはお前の願望だろう」
「まさか、坊ちゃん。貴方のようなお子様に欲情するほど、私は愚かな悪魔ではありませんよ」
クスクスとセバスチャンは笑う。
──こいつが本当はなにを考えているかなんて、誰にもわからない。
けれど。
──「お前と僕とはどういう関係なんだ?」
そう訊いたときの、こいつの絶望した表情。あれは嘘やごまかしではない。
僕との関係──それは契約だけのはずだ。
だが、もしかしてこいつにはそれ以上の感情が……?
いや、とシエルは思った。
セバスチャンが自分に好意を持っているはずは、ない。
自分も悪魔になぞ、心を奪われるわけはないのだ。
蕩けるような甘やかなくちづけが脳裏をよぎった。あの熱く、身体が浮き上がるような甘い感覚……。
シエルは心の中でかぶりを振る。
あれも悪魔の手管だ。騙されるんじゃない。
「──で、これはどういうことなんだ? この世界はなんだ?」
シエルはセバスチャンを問い詰めた。
「第一、タナカはどこへ行ったんだ?」
セバスチャンはこめかみを押さえ、大きくため息をついた。
「それですよ」
「は?」
「タナカさんがすべての元凶なのです。なのにご自分はさっさと姿を消してしまって」
「どういうことだ……?」
ふと気づくと、例の三匹が部屋の窓から顔を出して、心配そうに屋根の上のふたりを見上げている。
「お前たちもその姿は、一体なんなんだ。なにがあった?」
問えば、彼らは一斉に飛び上がり、
「坊ちゃん、思い出してくれたんですかい?」
「坊ちゃんっ!」
「よかったですだー」
三匹が嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねているうちに、その姿は次第に……シェフ、庭師、メイドと、シエルが見慣れた姿に変化していった。
「貴方たちもようやく、本来の姿に戻れましたね」
「これはどういう……」
「さあ、坊ちゃん。帰りましょう」
いざなわれ、一歩進むと──、そこはファントムハイヴ邸の書斎だった。
***
「すべてはこれのせいなのです」
セバスチャンはシエルの机の上から一冊の本を取り上げ、忌々しげに見遣った。
ざらざらとした異国の紙に、紐で綴じられた黒い本。その面には、墨で書いたらしいおどろおどろしい文字が並んでいる。
『黒宮司』
「タナカさんの故郷から送られてきた本です。向こうにいる親戚が、暇つぶしにと送ってきたのでしょう。随分おもしろかったようで、屋敷の者にも読ませてやりたいと、タナカさんが英文に訳したのです。それを見つけた坊ちゃんが……」
「読んで夢中になり……?」
「ええ、そうしていつのまにやら本の世界に取り込まれてしまったのです。異国の本のことです。なにか術でもかかっていたのかもしれません。本の世界と坊ちゃんの意識が融合し、あのような世界を作り出したものと思われます。まったく面妖な」
セバスチャンはやれやれと肩をすくめた。
「私と使用人とで、本の世界に渡り(その際にあちらの祠の御幣を破ってしまいましたが)、坊ちゃんを救い出そうとしたのですよ。ですが、まさか葬儀屋さんまで渡ってくるとは思いもしませんでした」
全く油断も隙もありません、とセバスチャンは顔をしかめる。
「この本は処分いたします。よろしいですね?」
「──わりとおもしろい世界だったのにな」
シエルが惜しそうにつぶやくと、
「とんでもない。あちらでも豪華客船の時のように、あやうく死神の鎌にやられそうになったではありませんか。たとえ本の中であれ、もう一度あれに刺されるなんてごめんです」
と眉をひそめた。
「それに……あんなところで安穏としていたら、私の大切な『魂』が駄目になってしまいます」
低く呟き、ちらりと仄暗い視線を投げる。
「さて。お疲れになったでしょう。何か甘いものでもお持ちいたします」
一転して明るく微笑み、書斎から出て行った。
不思議な気分だった。
さっきまでは、神社の奥の日本家屋に住んで、杉の参道を抜け、学校に通っていたのだ。クラスメイトがいて、教師がいて、なごやかに日常が続いていて……。
書斎の窓越しに差す、午後の光に目を細めた。
「まるで白昼夢のようだったな」
そんな穏やかな日々もセバスチャンが現れて、壊されてしまった。
あの悪魔は決して僕を逃さないだろう。地獄の果てまで追ってくるはずだ。
シエルは思う。
あのまま、本の中にいられたら、どうなっていたんだろう。
大人になって、結婚して、子どもが生まれ……?
シエルは首を横に振った。
それらはみな、本のまやかしだ。
あの世界にいて、僕が幸せになれるはずはない。
僕は現実のこの世界で、悪魔と共に復讐へと歩むほかはないのだ。
それが僕の唯一の人生なのだから。
終