エディンバラに吹く風は[7]

シリーズ目次

 仕事に出ることのなくなった男は、命こそ奪わないものの、ねちねちと執拗に子どもたちを虐めるようになった。地下室の中は恐怖の匂いで充満し、淀んだ空気が頭から思考力を奪っていく。
 絶望に陥り、日々虐待されるうちに、シエルの脳は痛みを意識から切り離そうと操作し始めた。動物の自己防衛の本能に従い、潜在意識を操って。

──これは僕じゃない。

 痛いことをされているのは僕じゃない。
 こんな目に遭っているのは僕じゃない。
 だから、僕は大丈夫なんだ。
 全然平気なんだ!
 そう思い込むことで、シエルのからだは、痛みに、苦しみに、必死に耐えようとしていた。

「くっそ、もうおめぇらを殺すわけにはいかねぇし──なにかおもしれぇことはねえのかよ!」 
 地下にこもるようになって、男の酒量はますます増えた。土間には飲みきった酒の空き瓶が何本もころがり、スコッチ独特の、煙のようなくすんだ匂いがあたりに漂っている。
「畜生、もう空かよ! なんてこった」
 さかさまに瓶を振って、底に残った最後の一滴を飲みきると、「しかたねぇ、買ってくっか」と忌々しそうに立ち上がり、おぼつかない足どりで、階段のほうへ向かった……が、急に何かを思いついたように足を止め、子どもたちのほうへゆっくりと振り返った。
「なあ、お前たち……おとうさまとゲームをしねぇか……?」 
 濁った瞳をぎらりと光らせ、歯をむき出して、男は笑った。

***

──なあ、お前たち……おとうさまとゲームをしねぇか……?

 男がなにを思いついたのか、子どもたちにはまるで予想がつかなかった。が、きっといいことじゃない。ひどいことに決まっている。やがて来る災いを確信して、全員が身を硬くした。
 男は左右に並んだ小さな洞の檻をじっくりと眺め回した。
「俺の代わりに誰か、酒を買ってきちゃくれねぇか?」
「えっ?」
 一瞬、子どもたちはなにを言われたのか呑み込めなかった。

 お酒を買う?
 ひとりで?
 外に行って?
 それって……それって……もしかして……?
 逃げられるかもしれないってこと……?

 男の言葉の意味を理解するなり、子どもたちは我先にと叫んだ。目の前に垂れてきた蜘蛛の糸のような儚い希望に飛びついたのである。
「僕、僕が行く!」
「だめだよ、行くのは僕だ!」
「買い物、できるよ」
「ぼく、歩ける…から、行かせて……!」
 幼い子も、衰弱している子も精一杯声を張り上げて、男に訴えかける。
 その態度を満足げに見やって、男は檻の間をゆうゆうと歩いた。あたかも、天気の良い日に散歩をするように。
「そうだなあ、誰がいいかなぁ、誰に行ってもらおうか」
 へへと笑い、ひとつひとつ檻をのぞく。
「お前がいいかな」
 檻を覗き込まれた子どもは、鉄格子を両手で握った。
「僕、行く! 行きます!」
「そうかい? お前は、ちゃあんとここに戻ってくるかな? 逃げちまうんじゃないかい?」
 へっ、お前じゃダメだ、と男はその子の頭を乱暴にこづいた。
「さあ、誰がいいかな」
「お前はどうかな?」
「お前は?」
 そうやって、子どもたちを期待させては、どん底に落とし、そのたびに男は嬉しそうにくつくつと笑った。
 やがて男は、シエルの隣の檻の前で立ち止まった。
「お前、よく見りゃ、賢そうなツラしてんな。お前なら、ちゃんと買い物できそうだ」
「…………」
 子どもは黙っている。
「おい、行きたくねぇのかっ、みんな行きたがってるぜ! ここから出られるって喜んでな。いいチャンスじゃないか、おいお前! 聞こえてんのかっ?」
 沈黙を続ける子どもに男は焦れて、鉄格子の間に腕を突っ込み、襟を掴んだ。びりっと音を立てて服が破れる。
「ちっ、そんな格好じゃ、表に出せねぇ。虐待だなんだって、世間がうるせぇからな。すぐに保護されちまう」
 男はぺっと檻に唾を吐きかけると、シエルの前に来た。
「よう、俺の天使ちゃん。なあ、お前はどうだ、行きたくないか」
「い、行きたい、です!」
「そうだろう! そう来なくっちゃな。素直ないい子だ! うん、服はまだ汚れてねぇし、お顔だって綺麗だ。お前なら父親の使いだっていえば、店の連中は信じるだろう」
 男は牢からシエルを出し、ぐいと顔を近づけた。
「おい、逃げようなんて思うなよ」
「…はい」
「その言葉に嘘はねぇか」
「はい、お酒を買って、必ずここに戻ってきます」
 周囲の子どもたちは息を詰めて、ふたりのやりとりに耳を澄ませている。
「じゃあな、保険をかけよう」
「ほけん?」
「お前の言葉だけじゃ危なくてしかたねえ。天使ちゃんがイイコだってことは知ってるが、魔がさすってこともあるからな」
 男は太い腕に嵌めた腕時計を確かめた。
「そうだな、往復で15分もあれば足りるだろう」
と独りごち、
「いいか、もうすぐ5時45分だ。いまからここを出て、お前が6時までに酒を買って戻らなかったら、こいつらを殺す」
「えっ?」
「それもただ殺すんじゃねぇ、ひとりずつ、生きたままゆっくりと皮を剥いでいくのさ。さぞかし痛いだろうなあ。苦しいだろうなぁ、おい、こいつらをそんな目に遭わせたくないだろう?」
「うんっ!」
「だったら、ちゃんと時間までに酒を買って、ここへ戻ってくるんだ! わかったなっ!」
 大声でわめきたてた。
「いいか、ここを出たら、左に行け。路地を抜けるとクレマチスの茂みがある。そこを右に折れて、建物の間の小さな橋をくぐったら、坂道をまっすぐ上がるんだ。大通りに出るから、そしたら向かいのパブに行け!」
「パブ?」
「そうだ。黒犬亭っていうパブだ。そこに行って、一番安いスコッチをくれって頼め。父親の使いだっていえば、売ってくれるはずだ」
「クレマチス、橋、坂道、大通り、パブ」
「そうだ、しっかり頭に叩き込めよ。遅れたりしたら、まずこいつを引きずり出して、殺すからな」
 男はシエルの隣の檻を指差した。
「わかった……!」
 いつも檻越しに「僕たちは絶対助かるよ!」とシエルたちを勇気づけてくれるその子。シエルは彼を初めて正面から見た。明るいブラウンの髪に黒い瞳。頰に細かいソバカスが散っている。血や泥で随分汚れていたけれども、その子は落ち着いた顔つきでシエルを見返している。
 大丈夫、というように、シエルに向かって小さくうなずいた。
「へえ…お前はこいつと仲良しなのか。いいねえ、それは。檻の中の友情なんて泣けるじゃねぇか。おい。天使ちゃん、お友達を裏切るなよ」
 言って、男はパンパンと手を叩いた。
「さあ! スリルたっぷりなゲームの始まりだ。お前が逃げるか、酒が来るか。友達を助けるのか、見殺しにするのか。おっと、大事なことを忘れてた。おまわりを連れてこようなんて了見を起こすなよ。へへ、もっとも、そんな時間はねぇだろうがな」
 男はシエルの背中をドンと思い切り叩き、
「さっさと行け!」
と叫んだ。
 シエルはまろびころびつしながら、男のあとについて階段を上がった。男が蓋を力一杯押仕上げれば、ぎぃっと軋んで、外へと開く。背中に子どもたちの息を呑む音が聞こえた。
──大丈夫。僕は必ず、戻るから。逃げたりしないから。
 唇をぎゅっと噛み締め、地上に出ると、シエルは全速力で走った。

***
 薄青い闇。夕方の光がうっすらと空に残っている。すでにぽつぽつと街路灯がつき始め、暖かいオレンジ色の光を放っていた。
 人々の声。車の音。なにかを煮炊きするおいしそうな匂い……。かつては当たり前のように思っていた風景。
 何日かぶりで見る外の景色に、しばらくの間シエルは動けず、惚けたように突っ立っていた。

──遅れたりしたら、まずこいつを引きずり出して、殺すからな。

 男の声が稲妻のように脳裏に響いた途端、ばっと弾かれたように、シエルは地面を蹴った。
 ぼんやりしてる暇なんかない。一刻も早く行かないと!
 まず左。シエルはくねくねと蛇のように曲がったカビ臭い路地を抜け、クレマチスの茂みを探した。
 クレマチス……あった! ここを右に折れるんだ。
「にゃあ」
 猫の鳴き声。見れば、茂みから黒猫が顔を覗かせている。柔らかそうな毛並みにシエルの頰が一瞬ほころんだが、すぐに頭を横に振って、再び走り出す。
 けれど急く気持ちとは裏腹に、ろくにものを食べていない身体はよろよろと頼りなく揺れ、ともすれば倒れそうになる。それでもシエルは歯を食いしばって前に進んだ。
 いまにも崩れ落ちそうな石造りの古い建物の間にかかった小さな橋。両側のどの窓からもたくさんの洗濯物が揺れている。
 その光景を見上げながら、橋をくぐり、そのまままっすぐ行くと、ゆるやかに登る古いレンガの道が続いていた。
 うん、大丈夫。道は間違ってない。
 古い道。欠けたレンガの隙間にときどき足をとられそうになりながら、シエルは坂を登った。
 途中、陰気な空きホテルの部屋が覗けた。色の褪せた花柄の壁にかけられた時計は5時50分を示している。
──あと10分…!
 早く、早く! とぜいぜい息を切らし、重い足をひきずるようにして、坂を登りきる。何人かの大人とすれ違い、シエルは思い切って「あの……」と呼び止めようとした。だが、家路を急ぐ大人たちはシエルに一瞥もくれず、足早に歩き去る。
 絶望に胸を塞ぎながら、やっとの思いで大通りに出た途端、シエルは茫然と立ち尽くしてしまった。
 夕方のラッシュどき。たくさんの車が走っている。信号はない。道の向こうを見やると、黒い犬の看板がかかったパブがあった。
──あそこだ! 黒犬亭!
 だが、スピードを出して走る車が怖くて、なかなか道を渡れない。
 行かなきゃ! 6時に間に合わなければ、あの子が殺されてしまう…!
 茶色の髪、利発そうな黒い瞳。泥と血に汚れた顔が目の前に浮かんだ。
 半ば泣きそうになって道を渡り始めれば、クラクションを激しく鳴らされ、追われるうさぎさながら車の間を縫うように駆け、どうにか道路を渡りきった。
 つんのめるようにして、パブに駆け込む。
「おや、坊主。ここに来るにはまだ若すぎるんじゃないかい?」
 でっぷりと腹の出た中年の男が、カウンターの中でグラスを磨いている。
「ス、スコッチ、一番安いスコッチをちょうだい」
「スコッチだって? だめだね、子どもに酒は売れないよ」
「あいつが…違う、お、おとうさまが、買ってこいって」
 必死の思いでカウンターにすがりつけば、マスターは困ったように頭をかき、
「おとうさまだって? まったくどこのセレブなんだい。困ったオヤジだね」
 しょうがないねえと、棚からスコッチの瓶をつかんだ。
「ほら!」
「あ、ありがと!」
 爪先立って、腕を伸ばした。その拍子にカウンターに放り投げられていた夕刊が目に入る。日付は8月6日。シエルが攫われてから10日経っている。
「もう10日も……」
「ん? なんだい、坊主?」
 聞かれてシエルはためらった。いまこの人に、僕らが閉じ込められていることを話したら。すぐに助けてくれるだろうか……。ふと見上げると、酒瓶の間に挟まれたように置かれているデジタル時計は、5時55分を示していた。

──あと5分しかない!

 だめだ。話していたら、きっと間に合わない。
 喋っている間に6時になってしまう。そしたらあの子は……。
 シエルは喉まで出かかっていた言葉をのみ込んだ。
「ううん、なんでもない!」
 硬貨をカウンターの上に置いて、粗悪な紙に包まれたスコッチを受け取った。 
「坊主、オヤジに飲みすぎるなって言いなよ!」
 こくこくとシエルはうなずき、パブを飛び出した。
 急がなきゃ!
「くそがきっ、飛び出すんじゃねぇ」
「さっさと行けよ!」
 クラクションと罵声を浴びせられ、泣きながら道路を渡り、坂道を一気に走り降りる。橋をくぐり、クレマチスの角を曲がって、ようやく地下への入り口にたどり着く。バンバンと蓋を叩き、
「僕だよ!!開けて!」
 叫べば、蓋がほんのわずか開いた。
 男の目がきょろきょろとシエルの周囲を見回す。
 誰もいないことを確認して、
「遅かったなぁ。あと少しで始めるところだったぜ?」
 蓋を大きく開けながら、男がニヤリと笑った。その肩越しに、あの子が暖炉の前のテーブルに縛られているのが目に入る。
「僕、間に合ったでしょ?! 間に合ったんだよね?」
「ああ、1分前だ、よくやったなあ」
 男が愉快そうに腕時計をシエルに見せた。
「お前は絶対に逃げないって、思ってたよぉ。優しい天使ちゃんだからな。お友達を見殺しするなんてこたぁしない」
 お前らとは違うんだ!! と、男は檻の中の子どもたちに向かってわめいた。
「お前らはきっと逃げるだろう。誰を犠牲にしたって、自分が助かりたいからな。だが、天使ちゃんを見ろよ。お前らを裏切らなかった。約束を守ったんだ。たいしたもんじゃねえか……」
 男はしきりにうんうんとうなずいている。
「……へへ、実をいえば、俺は少し怖かったんだ。おまわりがここへ踏み込むんじゃないかってな。ああ、面白かった! スリル満点のゲームだったぜ」
 男はスコッチを受け取って包み紙を破りとると、蓋を歯で開け、ごくごくとうまそうに喉を鳴らした。

***

 それからシエルはたびたび、男の使いに出されることになった。
 そのたびに、後に残された子どもたちは羨望と不安の入り混じった表情でシエルを送り出し、戻ってくると、男が酔いつぶれるのを待って、
「外に出られて、いいなあ…」
「今日は何日だった?」
「天気は?」
「お城は見えた?」
 小声で、矢継ぎ早に質問を飛ばした。
 何度か外に出ているうちに、この街がどこなのかわかった。遥か遠くに古い砦が見えて、たぶんそれがあの有名な城だと、すでにシエルはみんなに話していた。
「猫はいた?」
 クレマチスの茂みにいる黒猫のことはみんなの興味を引いたようで、しきりに猫の様子を聞きたがった。もふもふとした生き物は可愛い。シエルが黒猫の話をすると、みな楽しげに聞き入った。
「ねえ、おまわりさんを呼んでこられない……?」
 あるとき聞かれて、シエルは唇を噛み締めた。
 とてもそんな余裕はない。
 急ぐあまり、足元がもつれて、スコッチの瓶を落としそうになったこともある。
 そのときは必死になって抱きかかえて、事なきを得たけれど、もしも割っていたら……と思うと肝が冷えた。
 割ってしまったら──男はシエルを許さないだろう。シエルだけではなく、他のみんなもまた虐められるだろう。  
 そう思うと恐怖で頭がいっぱいになった。戻るだけで精一杯で周囲を見る余裕なんてほとんどない。
 大通りを急いで渡るときだって、何度も轢き殺されそうになり、わき目を振らずに走り抜けるしかない。
 一度だけ、1ブロック先に交通整理の巡査が立っているのが目に入り、慌てて助けを求めそうになったが……でもきっと話している途中でタイムアウト。あいつにみんなが殺されてしまう、とあきらめた。
「そう、なんだ……」
 シエルの話を聞いて、子どもたちはうなだれた。
 しかしシエルが外に行くようになって、ささやかだが、良いこともあった。
 パブのマスターはシエルの様子が些か気になっているらしく、
「坊主、お前大丈夫かい? いつも同じ服だし、痩せこけてるし……。ちゃんとオヤジに食べさせてもらってるかい?」
「う…ぅ、うん!」
 シエルがうなずくと、マスターは「うーん」と疑わしげに首を傾げた。
「まあ、ひとの家のことに口を突っ込んじゃいけないけどねえ……」
 呟きながら、カウンターのケースを開け、
「坊主、おじちゃんの作ったパイを食べるかい?」
 並んでいたパイを一切れ、帰りを急ぐシエルに手渡した。唇に人差し指をあて、
「オヤジに取り上げられないように、こっそり食べなよ」 
 もらったパイ──パイだけでなく、スコーンやチョコレートバーもくれた──は、子どもたちの大切な栄養源になった。シエルたちは隙をみて、こっそりとひと口食べては隣の檻に回し、全員に行き渡るように工夫した。

 だが、男は残酷だった。



***
 シエルが時間までに戻ってくることに気を良くした男は、とんでもないことを言い出したのである。
「なあ、天使ちゃん。また、おとうさまのお使いにいって欲しいんだがよ、今度はもう少し早く帰ってきてくれねぇか?」
「え……?」
 それまでは15分以内に戻ってくればよかった。それだってシエルの足ではギリギリの時間だった。なのに、男は1分縮めると言うのだ。
「無理、無理です。いまも全然時間なくて……」
「嘘つけ! 余裕で戻ってきてるだろう? 大丈夫だよぉ、少しぐらいタイムを縮めても天使ちゃんなら間に合うって。俺はゲームを面白くしたいだけなんだ。なあ、天使ちゃん、おとうさまの言うことを聞いておくれ?」
 男はぎらぎらと狂気に目を光らせる。
 逆らったらどうなるかわからない。
 シエルは恐怖に震えながら、頭を垂れた。

 そうして、買い物の時間は1分、また1分と縮められた。
 そのたびにシエルは死ぬような思いで走り、車の合間を駆け抜け、パブのマスターから奪うようにしてスコッチを受け取り、クレマチスの黒猫さえ覗けずに、地下室に戻った。大通りで車に轢かれそうになったことが何度もあった。急ぐあまり、足元がもつれて、スコッチの瓶を落としそうになったこともある。
 それでもシエルは必死に駆けた。
 今日も使いに出され、疲れ果てて檻の中でうずくまっていると、隣の子が小さな声でシエルを呼んだ。
「起きてる?」
 シエルは鉄格子までずるずると重い身体を這わせた。
 男は土間に大の字になって、いびきをかいている。
「なに?」
「あのさ、次にお使いに行くとき──誰か大人を……おまわりさんでも誰でもいい。助けてくれそうな人を呼んできて」
「えっ?!」
「──僕、ずっと考えていたんだ。君が外に行くときしか、助けを呼べるチャンスはないって」
「でも、でも、おまわりさんをここへ連れてくる間に、君は殺されちゃうよ……! 絶対間に合わない」
 シエルは大きくかぶりを振った。けれど、彼は言い募る。
「大丈夫。君が戻れなくても、きっと僕が殺されるまでには時間がある。ナイフで肌を削がれれば、痛いだろうけど、もう痛いのは毎日だから……少しぐらい傷つけられても平気さ」
「でも……!」
「それに──もしも……もしも、僕が殺されたとしても、君が誰かを連れて来られれば、他のみんなは助かるよね」
「……っ」
 だから、僕は決めたんだ。
 少しぐらい遅れてもいいから、助けを呼んできて。
 真摯な声。
 シエルはしばらく考えた。
 彼の言うとおり、僕らが助かるにはそれしかない。
 やるしかないんだ……。
「──わかった。パブのおじさんに言ってみる。僕のこと、気にかけてくれてるから、きっと話を聞いてくれる。おまわりさんも呼んでもらって、できるだけ早く戻ってくる。約束するよ!」
「君が約束を守ってくれること、僕は知ってるよ。心配しないで。大丈夫、絶対、僕は殺されないから。君はきっと間に合うから」 
 力強い声に背中を押され、シエルは心を決めた。

 それから二日後。
 男はシエルに使いを頼んだ。
 タイムは更に縮められ、一番最初に使いにいったときよりも5分も短くなっている。
 シエルはいちもくさんに走った。

 もうすっかり見慣れたクレマチスの茂みの横を駆け抜け。

 たくさんの洗濯物が揺れる橋をくぐり。

 息が切れる憎らしい坂道を登り。

 車の途切れることのない大通りを渡り。

 そして、パブに着いたら、おじさんにこう言うんだ。

「僕たち閉じ込められているんです。助けてください」って!

 だが、その日──。
 街の様子はいつもと違っていた。
 シエルは知らなかったが、サッカーシーズンが始まり、その晩は人々が待ちかねたイングランドとの試合があったのだ。大勢の人間がスタジアムに向かっている。普段よりずっと人も車も多くて進みにくい。
「どうしよう……」
 今日は助けを求めるのは諦めて、いったん戻ろうか。
 あいつには、人がいっぱいいて、パブに行けませんでしたって言えば……ああ、でもそんなことしたら、あいつは怒り出して、また誰かを虐めるだろう。みんな弱っている。今度酷い目に遭わされたら……
──だめだ! 今日、絶対みんなを助けなきゃ!
 シエルは人波をくぐり、大通りまでたどりついた。ひっきりなしに鳴り響くクラクションの音、人々の怒鳴り声。中にはビール瓶を振り回しながら、騒いでいる者もいる。まるでお祭りのようだ。熱気がすごい。
 道路をやっと渡って、パブに飛び込めば、中は大勢の客でびっしりと埋まっていた。カウンターにはハンチングを被った男たちが、グラスを掲げて賑やかに喋っている。タバコの煙とエールの匂い。炙ったブラッドソーセージや焼きたてのキドニーパイの載った皿が次々と差し出される。マスターはオーダーに追われて、てんてこまいの様子だった。
「あ、あの、僕……」
 大人たちの合間から、シエルは伸び上がって、顔を出した。
「おや、坊主! 今夜は盛り上がっちゃって大変だよ! なんていったって、数年ぶりのイングランドとの対戦だからね! 地元には絶対勝って欲しいねえ!!ああ、スコッチだね? ちょっと待ってな、いま出してやるよ」
 棚に腕を伸ばして、スコッチを取り出そうとする。
「ち、違うの! あの、あのね、僕たちを助けて。お願い……!」
「……? 坊主、どうしたんだい…?」
 シエルのただならぬ形相に、マスターが眉をひそめて、カウンターの扉を開けて出てきた。
「おい、おれのエールまだかよ!」
「ガキの相手なんて後にしろよ」
 ガラの悪い酔客に大声で呼ばれて、
「坊主、すまないね。ちょっとだけ待ってくれるかい」
「……っ!」
 だめだ。待っていたら、間に合わない!
 シエルは店の外に駆け出して、巡査の姿を探した。
 幸い少し先に、車を整理しようとやっきになっている若い巡査がいた。
 シエルは走りながら叫んだ。
「おまわりさん! 助けて、僕たちをたすけ…………!」
 そのときだった。
 ドン、と鈍い音がして、シエルは前につんのめった。
 からだを衝撃が貫く。
 頭の奥が痺れて、意識が薄れていく。
 目の端で、オレンジ色のアーク灯がちかちかと不安定に瞬いた。
「ちょっ、やべ、ひっかけた」
「アンタ、ちゃんと前見てよ! また携帯いじりながら運転してたんでしょ!」
「ちげえよ、こいつが飛び出してきたんだよ」
 ピピーッと警笛が鳴り響く。
──おまわりさんだ! 早く、言わなきゃ、みんなが……
 薄れる意識の中、シエルは腕に力を入れて、起き上がろうとした。だが、すぐに地面に崩折れてしまう。
「おい、やばいよ、ポリ公につかまったら、試合に間に合わないぜ!」
「やだよ! ロンドンからわざわざ来たんだよ? すんごく楽しみにしてたんだから! まんまにしとけばいいじゃん」
「だめだよ、人に踏み潰されちまうって!」
「ならもう……乗っけちゃったら! 試合終わってから考えようよ!」
「だな!」
 頭に響く男女の声。
 だめ、僕、おまわりさんに言わなくちゃ。
 助けてって言わなくちゃ。
 みんなを助けないと……助けないと────

***

「どうして、忘れていられたんだろう、なんで、僕は……っ」
「ッ、シエル?」
 胸の中で不意に聞こえた声にセバスチャンは驚いて、シエルから身を離した。汗に湿った黒革のベルトはとうにはずれて、ベッドの端に醜く追いやられている。
「早く、行かなきゃ……戻らなくちゃ……」
 切羽詰まった口調で呟きながら、シエルはのろのろと起き上がった。その宝石のように美しい二色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちている。

「みんなが僕を待ってる……待ってるんだ……」

to be continued…