輝く月の夜に-第二章- 第二話

嫉妬

男は外出から戻ると、抱えていた品物を手早く中央のテーブルに置いた。
「特集 英国ヴィクトリア朝時代の夢」と題された真新しい雑誌を開き、買って来た品物と照らし合わせる。確認し終えると、ゆったりとした手つきで雑誌を閉じ、表紙を凝視した。
 光沢のある誌面から、見つめ返すのは、美しいオッドアイの瞳───。

 シエルが表紙を飾った雑誌は、米・英同時発売され、凄まじい反響を巻き起こした。
 発売されるや否や瞬く間に売り切れとなり、続々と出版社に注文が入った。すぐに増刷したものの、並べる端から飛ぶように売れ、読者や書店からの問い合わせに出版社は追われていた。
「いやあ、おかげさまで凄い売れ行きですよ。時期がよかったんですかねえ。ほら、英国貴族ドラマもヒットしているじゃないですか。まさに旬の特集テーマだったんですねえ! それに、シエル君! 表紙、インパクトありますよ! あれは誰だと問い合わせが殺到して……ええ、ええ、個人情報の件はご安心を。いやあ、もう、モデルやらないなんて、もったいないですよ。気が変わったら、いつでも連絡してくれるよう、伝えてください。あ、モデル料は月末にお振込しますんで……」
 喜びに舞い上がる編集者の話はいつまでも終わらない。セバスチャンは適当に相槌を打ちながら、届いたばかりの雑誌に目を落とした。
───シルクハット姿の少年は、黒い天鵞絨のケープを風に翻し、すっくと立って、遥か彼方を見据えていた。
 待ち受ける運命に抗うかのように、あるいは、何かに復讐するかのように、瞳を絶望に昏く染め、唇を白くなるほど、きつく一文字に結んでいる。衣装の下に息づく、少年特有の華奢で柔らかいからだとは、真逆の厳しい顔つき。
 強い決意を秘めたその姿は、凄絶なほど美しく、凛々しい。
 セバスチャンの胸は激しく揺さぶられた。

「……で、あれ、あれ? ミカエリスさん? 聞いてます? そこにいらっしゃいます?」
「嗚呼、すみません」
「あ、よかった。それで、これはオフレコ情報なんですが、うちの『現代文学全集100』、御存知ですよね? あれをリニュアルすることが決定しまして……」
 セバスチャンは受話器を握る手にぐっと力を込めた。
「次の装幀デザインは、コンペティションで決めることになりました。私、選考委員の特権使って、ミカエリスさんを候補者のひとりに加えてしまいました。おふたりが雑誌に協力してくださった、ささやかなお礼です。お忙しいと思うんですが、ぜひコンペに参加して、勝ち取ってくださいね。私、ミカエリスさんのファンなんですよ。あのシリーズ、ミカエリスさんがデザインしてくださったら最高だなあ」
「ありがとうございます。がんばります」
 力強く返事をした。
 この出版社のロングセラー「現代文学全集100」は、装幀する者ならば誰でもいつかは手がけてみたいと思う文学全集で、デザインリニュアルの機会をいまかいまかと窺っているデザイナーは多かった。もちろんセバスチャンもそのひとりだ。
 まだ自分の幸運は続いているらしい───。
 セバスチャンは己のツキに感謝した。
 実際、セバスチャンの躍進ぶりは神がかっているとしかいいようがなかった。
 昨年、ベストブックデザイン賞を受賞したのを皮切りに、若手デザイナーが喉から手が出るほど欲しがっている各賞を総なめにし、名実共にデザイナーとして頂点に立とうとしている。幸運の女神がついているとしか思えない彼の驚異的な活躍に、やっかみの声がそこここで囁かれたが、セバスチャンは気にも留めなかった。
 登れるときに登らずに、いつ這い上がれるというのだろう。徹夜が常態化し、机上のMacは電源を落とす暇もないほどだったが、フリーランスのデザイナーなど、仕事のオファーが切れたら終わりだ。多少の無理をしても、欲しい仕事は獲るつもりだった。
 それにしても───。
 再び手元の雑誌に目を向けた。
 こんなシエルを、私は知らない。
 嫉妬めいた感情がふつふつと沸き上がる。
 何もかも知り尽くしていると思っていたシエルの新しい一面を、他人に引き出され、写し取られたことが無性に腹立たしかった。

***
「ほっほっほっ……さすがですな、シエル坊ちゃん」
「だから、その『坊ちゃん』っていうの、いい加減、勘弁してください、ドクター」
 シエルの抗議を柳に風と受け流し、
 「そう、刃をいれたら、力を入れずにスッと引く。ふむ、筋がよろしい」
 師匠がうなずくのを見て、シエルはほっと息を吐いた。
 ドクター・タナカの家での週に一度の和食レッスン。
 今日、シエルが習っているのは「刺身」だ。すでにおせち料理まで作れるようになってはいたが、刺身は難しいからと、なかなか教えてもらえなかったのだ。
「切る、というのは案外大変なことですぞ、坊ちゃん。心を無にし、無駄な力を抜いて、肉に刃をいれる」
「はい」
「一瞬でも力めば、肉はつぶれ、旨味が逃げてしまう。魚を無駄にしないよう、心して取り掛かってくだされ」
 何度か繰り返したあと、シエルの出来に満足したのか、タナカは「ではお昼にしましょう」とレッスンを終えた。

 庭に面したリビングルームの窓を大きく開け、檜の一枚板のテーブルに、作ったばかりのスズキ、マグロ、イカの刺身、季節の野菜のおひたしと煮物、赤だしを並べた。
 タナカは箸を取り、シエルが作ったものを一通り口にする。
 刺身は切り口鮮やか、ぷりっと歯ごたえもよく、素材の味をよく引き出している。丁寧にだしを取った煮物、しゃきしゃきとした歯触りのおひたし、赤だしは香り高く、心浮き立つ日本料理に仕上がっていた。
「よろしい、合格ですぞ。もう教えることはありません。これにて、免許皆伝ですな」
「ありがとうございます。でも、ドクター。レッスンはまだ、続けてほしいんです」
「なぜですかな」
「ドクターのレッスンが終わったら、僕、セバスチャン以外、誰にも会わない生活になってしまう。それって、どうなのかなって思って……」
「また学校に通ってはいかがかな?」
「う……ん、いろいろ、考えていることはあるんだけれど……。まだ決めかねているんだ」
「なるほど。悩みの時期というわけですな。ほっほっほっ。よいことです。悩めばよろしい。悩んで悩んで、悩み尽くせば、やがて答えが見えてくる」
「そうかな……」
「はい」
 ほっほっと明るく笑うタナカの姿に、シエルの心はいくらか軽くなった。庭に目をやれば、薔薇は夏の日差しを受けて、きらきらと輝くように咲いている。
「見事な薔薇ですね」
「家内がよく手入れをしておりましたからな」
 タナカは目を細め、懐かしむように庭を眺めた。長く患っていた夫人は、タナカ自身による手厚い看護も空しく、先月亡くなったばかりだった。
 もの思わしげにぼんやりと薔薇を見つめるシエルに、
「人はいずれ去るものです。いまのうちに、大いに悩んでおきなさい。レッスンの件はわかりました。次回からは、和菓子をお教えしましょう。奥が深いので、たっぷり通ってもらうことになりますぞ。ほっほっほっ」
 と、肩を叩いた。

***
「セバスチャン?」
 シエルの声にセバスチャンは夢から覚めたように、何回か目を瞬かせ、後ろを振り返った。
「嗚呼、お帰りなさい。シエル」
「考え事? 何度も声をかけた」
 すでに日は落ちかかっている。いつの間に、こんなに時間が経ったのだろう。
「すみません……」
「ううん。あのね、薔薇が綺麗だったよ」
「薔薇?」
「ドクターの家の薔薇。奥さんがずっと手入れしてたんだって。ドクター、元気そうにしてたけれど……」
───人はいずれ去るものです。
 年老いた医師の声が脳裏に蘇った。
 知ってる。
 とうさまもかあさまも、去ってしまった。
 目の前の恋人に視線を向ける。
 セバスチャンだって、いつか必ずいなくなる。僕だって……。
 けど。
 それはいまじゃない。まだ先の、ずっと先のことだ。
 シエルは強いて明るい声を出した。
「レッスンは続けてくれるって…………あああっ、これ、僕!? すごいなあ、こんなに大きく、僕、載っている……」
 机の上の雑誌を掴んで、パラパラとページを繰る。
「あッ、ここだ。これ、貴方の仕事部屋だ。すごい! 実際よりも広く見えるよ。あのカメラマンの人、上手いんだ」
「そのようですね」
 セバスチャンの言葉の裏に潜む苛立ちに、シエルは気付かない。
「ねえ、セバスチャンの写真、どうしてこんなに小さいの」
 略歴の写真を指差して、子どもらしく不満げに口を尖らせた。
 雑誌の第二特集は、セバスチャンが取材されたデザイナー訪問記事だった。広角レンズでおさえた仕事部屋は、シエルの言う通り、実際よりもかなり広く見える。愛用のMac4台に囲まれた机に、手がけた書籍、ポスターの数々。部屋の隅には、受賞記念のトロフィーがいくつか飾ってあった。
「あのトロフィー、美意識に合いませんって、普段はしまっておくくせに」
「こういうときこそ、飾っておくものです。人は腕のよいデザイナーに、仕事を依頼したいものですから」
 薄く笑って答えると、
「セバスチャンって、意外とちゃっかりしてるんだから」
 僕も見習わなくちゃと呟きながら、記事を読み耽っている。
「へ……え。貴方、東欧生まれなんだ。全然知らなかった。自分のことはあまり話してくれないんだもの。インタビュー記事で知るなんて、ちょっと悲しいよ?」
「昔のことですから。あまりおもしろい話ではありません。それより、シエル……」
 トゥルルルと電話が無機質な音を響かせる。僕、出るよとシエルが受話器を取った。
「はい、もしもし……」
 途端に顔が強ばる。
「フランシス叔母さま……ごぶさたしています。えっ、ごらんになったんですか? はい……あ、ぅ、ありがとうございます」
 どうやら相手は英国の叔母らしい。海の向こうでも、シエルの雑誌は話題になっているのだろう。本当に予想以上の反響だ。
「はい、居ます。かわります」
 シエルから受話器を受け取ったセバスチャンは苦笑して、大きく深呼吸した。シエル同様、セバスチャンもミッドフォード夫人は緊張する相手なのだ。

***
「シエル」
 バルコニーで夜景を眺めていたシエルに声をかけた。
「叔母さま、なんて言ってた?」
「シエルがとても綺麗に写っていると褒めておられました。あの雑誌、ご家族分、購入してくださったそうですよ。それから、再来年、こちらにおいでになるそうです……結婚式に出席するために」
「うわっ、本当? いまから緊張する」
 シエルはおずおずとセバスチャンを見上げる。
「エリザベスも……来るかな」
「……ええ、たぶん」
 そのまま、ふたりとも黙り込んでしまった。
 一年前、ここで流れ星を見たっけと、シエルは思い出す。
 あのとき、星に願ったことは、もう叶ってしまった。その代わりに、許嫁のエリザベスには悲しい想いをさせてしまったけれど……。
「後悔していますか?」
「え……なにを?」
「私と、婚約したこと」
 シエルはキッとセバスチャンを睨みつけた。
「……それ、本気で言ってるの?」
「……」
「後悔なんてしてない。なにを言っているの、セバスチャン。僕……僕が、貴方のこと、どんなに好きか、知ってるでしょう?」
「ええ、ですが……」
「そんなくだらないこと、訊くな。僕の気持ちは変わらない、変わらないんだからっ!」
 頬を紅潮させ、もどかしげに叫ぶと、シエルは部屋の中に走り込んでしまった。あとを追えずに、セバスチャンはぎゅっとバルコニーの手すりを掴む。
「ですが……貴方は」
 黒い衣装に身を包んだシエルの姿がよぎる。
 一体、何を見つめているのです。何を想っているのです。
 あんな目をして。あんなに唇を噛み締めて───。
 夜空を仰ぐセバスチャンの瞳に、星も月も映らない。ただ、茫漠とした闇が広がっていた。

 闇が天を覆っている。
 闇が街を覆っている。
 闇。
 闇。
 闇はヒトの心を蝕む。蕩かす。喰い尽くす。

 暗闇のなか、かすかな明かりを頼りに、男が指先でしきりに何かをなぞっている。
 雑誌。写真。シエル・ファントムハイヴの顔。
 その頬を指先でなぞっている。
「シエル・ファントムハイヴ……」
 耳障りな声でその名を呼び続けている。

to be continued….