ハロウィーンの夜




……ハロウィーンの夜になると私は思い出す。

 子どもの頃、親に隠れてこっそりと遊びに行ったあのお屋敷を。



 あの頃。

 八歳になったばかりの私は、新しく引越してきた家が気に入らず、ひとり外に出て、遊ぶことが多かった。

 その週はハロウィーンウィークで、家族も村の人たちも週末のハロウィーン祭の準備にかかりきりだった。ジャック・オ・ランタンが苦手だった私は、裏庭で弟たちがかぼちゃに穴を開けている間にそっと家を抜け出して、林の中へ逃げ込んだ。

 十月の終わりの風は冬の気配がして冷たかった。

 私は薄いカーディガンを両手でかきあわせて、さくさくと少し早足で歩いていた。

 目指すのは、あのお屋敷。

 もともとは貴族の館だというそのお屋敷はとても大きくて立派なのに、どうしてだか林の中に入らないと見えないのだ。だからいつも家の近くばかりにいる弟やかあさんはまったく気づいていない。そこは私だけの秘密の館だった。

 私はお屋敷にたどりつくとまっすぐに玄関に向かい、爪先立ってノッカーを掴もうとする。でもその前に扉は音もなく開いて、背の高い、すらりとした綺麗な執事さんが立っている。真っ黒なつやつやとした髪を少し揺らして、紅茶色の瞳を細め、

「寒かったでしょう。さあ、中に入って暖まってください」

 なめらかなクィーンズイングリッシュで話す彼の声は深みがあって、気持ちがいい。

 私は少しドキドキして、お屋敷の中に入る。

 入ってすぐ右手に書斎があって、中には小さなお茶会のようにテーブルと椅子がセッティングされている。私は執事さんに勧められるまま、いつもの席に座る。

 すぐに執事さんは「ただいま、お茶をお持ちいたします」と軽く会釈し、私の正面の席に向かって「坊ちゃん、レディのお相手をお願いいたします」と微笑んで部屋を出て行く。

 けれど、部屋には私ひとりだけ。

『坊ちゃん』なんていう人はいない。

 テーブルを挟んだ向かいの椅子には誰も座ってない。

 最初はとまどったし、ゴーストがいるのかしらと少し怖かったけれど、執事さんがごく自然に振る舞うので、幼い私はやがて、これは「ごっこ遊び」のようなものだと思うようになった。

「お待たせしました」

 執事さんは運んできたワゴンの上の花模様のティーポットを持ち上げて、お揃いのカップに優雅に紅茶を注いでくれる。

 それから──

 もうひとつ別のティーポット──それはいつも黒いティーポットだった──から、やっぱりお揃いの黒いティーカップにお茶を注ぐ……フリをした。まるで本当に紅茶を淹れているようだったけれど……ただ注ぐ動作をしているだけ。ポットには何にも入っていないし、ティーカップにも何にも入っていない。

『見えない紅茶』を注ぎ終えると、執事さんはティーカップを『坊ちゃん』の前に置いた。

「坊ちゃん。本日の紅茶は、新月の夜に摘まれた『ニュームーンドロップ』ですよ」

 温かく優しさに満ちた声。

 でも……その席は空っぽなのだ。

「貴女には『フォロームーンティー』をご用意しました。満月の夜に摘まれたとても甘いお茶ですよ。さあ、どうぞ召し上がってください」

 執事さんはワゴンから焼きたてのスコーンやパイを皿にとって、勧めてくれる。家からここまで冷たい風にあたって、お腹の中まで冷えきった私は、がつがつとお菓子と紅茶を交互に口に入れた。それはかあさんが作るケーキとは全然違っていて、ほっぺたが落ちるぐらい美味しくて、まるで童話の中に出てくるお菓子みたいだった。バターの香りたっぷりのプティフール、真ん中にラズベリージャムの入ったクッキー(ヴィクトリアという名前だと執事さんが教えてくれた)、そしてそこには必ずガトーショコラがあった。

「坊ちゃんも召し上がってください。ガトーショコラ、お好きでしょう?」

 愉しげに微笑んで、お皿に『坊ちゃん』のケーキを取り分ける。

 けれど──

 お皿には何ものっていないのだ。

 紅茶と同じで、お菓子もガトーショコラも、お皿にのせる『フリ』だけ。

 執事さんはお皿の上の『見えないお菓子』を坊ちゃんに勧め、

「ほら、食べないと、背が高くなりませんよ」

 指を顎にあててくすっと笑うのだ。

 その笑顔は優しいけれど、ほんの少しだけ寂しげで、見るたびに私の胸は針で刺したみたいに、つきんと痛くなった。

 『坊ちゃん』と私のお茶会はいつも三十分ぐらいで終わる。

 お菓子も紅茶も全部お腹におさめると、私はだんだん、『見えない坊ちゃん』といることが気詰まりになり、「遅くなるとかあさんが心配するから」と、もじもじ言い訳をして、席を立った。

 執事さんは残念そうな顔をして「そうですか。ではまた明日、いらしてください。坊ちゃんも楽しみにしております」と『坊ちゃん』のほうにちらっと視線を走らせ、私に別れの挨拶をした。

***

 その週は、日に日に増えていくかぼちゃの怪物から逃げるために、毎日お屋敷に通っていたと思う。

 行くたびに執事さんは私を優しく迎え、テーブルに案内し、私と『坊ちゃん』に話しかけながらお茶をサーブした。一連の流れはいつも決まっていて、あたかも──そう、あたかもずっと同じ一日が繰り返されているような、そんな気持ちにさせられたものだった。

 いよいよハロウィーン当日になった。

 昼間から、村はジャック・オ・ランタンでいっぱい。夜になれば、中に明かりの入った大量のかぼちゃがてらてらと橙色の光を発し、気持ちが悪くなった私は、魔女の扮装をしたままお屋敷へと向かった。大人も子どももハロウィーンのゲームに夢中で、私のことなど誰も気にとめていなかった。

 夜の林は不思議なことに怖くなかった。さながら夜空を飛ぶ魔女になったような気分でお屋敷につくと、やっぱりその夜も、私がノックする前に執事さんが扉を開けた。

「………おや、今日はハロウィーンでしたか」

 執事さんは私の格好を見て、目を丸くした。

 そういう執事さんはいつもと同じ服装で、ハロウィーンのことをすっかり忘れていたようだった。

「なるほど。それでいつもよりも遅くいらっしゃったのですね。今日はもういらっしゃらないのではと、坊ちゃんと心配していたところでした」

 彼はわずかに眉をひそめ、だけどすぐに微笑んで、私を中に招き入れてくれた。

「では、小さな魔女さん。お茶会にようこそ」

 いつもの部屋で、いつもと同じお茶会が始まった。

 けれど、その夜私は思ったのだ。

 ハロウィーンなのに、いつもと同じなんてつまらない。

 なにか違うことをしたい。

 きっと私は少し浮かれていたのだろう。

 紅茶とお菓子を前にした私は、

「trick or treat!」

 といきなり男の子みたいに元気よく叫んだのだ。

「え?」

 執事さんはびっくりして固まっている。

「……って『坊ちゃん』が言っています」

 私は耳を傾けて、『坊ちゃん』の言葉を聞いているようなフリをした。

「お菓子をくれなきゃ、いたずらするって言ってますよ。『坊ちゃん』にもお菓子とお茶をあげてください」

 いつもの空のティーカップと空のお皿じゃなくて。

 そう言うと、執事さんはぎくりとしたように顔をこわばらせた。

 目を伏せて、しばらく黙っていたけれど、

「そう、ですね。今夜はハロウィーンですし……もしかしたら、坊ちゃん、が……」

 声はだんだん小さくなる。私にはそのあとの言葉は聞き取れなかった。


 執事さんは、『坊ちゃん』の黒いお皿に本物のお菓子を取り分け、黒いティーカップに本物の紅茶を注いだ。

「坊ちゃん、本日の紅茶は『フォロームーンティー』です。満月の夜に摘まれた甘いお茶で……」

 ふいに、言葉がとぎれた。

 驚いて顔を上げると、執事さんの手がカタカタと震えている。

 『坊ちゃん』に差し出したティーカップも震えて、いまにも中身がこぼれそうだ。

 その顔は黒髪に隠れてよく見えない。けれど背中が小刻みに揺れている。

「あ、あの……?」

 おろおろしていると、執事さんは気を取り直したように姿勢を正して、『坊ちゃん』の前に紅茶とガトーショコラを置いた。

「さあ、坊ちゃん。召し上がってください」

 その声はうわずり、掠れていて、いつもの執事さんのようでなく、私は次第に不安になってきた。 

 軽いいたずらのつもりだったけど、もしかすると、私はよくないことをしてしまったのかもしれない。

 気まずくなった私は花柄のティーカップに口をつけ、いつものように甘いフォロームーンを飲んだ。それからプティフールをつまんで口に入れた。

 私の紅茶は減っていき、お皿の上のお菓子も少なくなっていく。

 でも。

 目の前の『坊ちゃん』の紅茶はちっとも減らない。お皿のお菓子もちっとも減らない。

 執事さんは椅子の傍らにまっすぐに立ち、食い入るようにそれを見つめている。

──なんで、あんなに見ているんだろう。

 私は訝しんだ。

 『坊ちゃん』なんて、いないんだから、中身が減らないのは当然だ。

 むしろ減っていったら怖い。怖すぎる。

 なのに、執事さんは……

「え……?」

 なぜだろう。胸がざわざわする。触れてはいけないものに触れてしまったような気がして、私はソワソワと落ち着かず、席を立とうとした。そのとき──。


「坊ちゃん」

 執事さんは唇をわななかせ、身を振り絞るようにして呟いた。

 それは、生まれてから私が一度も聞いたことのない、胸を引き裂くような心の叫びだった。

 その瞬間、私は身体に電流が走ったようなショックを受け──自分のしたことを悟ったのだ。

 ああ。

 私は。

 私は、なんということをしてしまったのだろう。

 なんという残酷なことをこの優しい人にしてしまったのだろう。

 執事さんにとって『坊ちゃん』は本当に存在していたのだ。

 小さなお茶会のこの席に、『坊ちゃん』は座っていたのだ。

 執事さんは本当に『坊ちゃん』にお茶を淹れ、お菓子を取り分けていたのだ。

 それがたとえ、空の食器であっても。

 ううん。空だから、よかったのだ。

 だって空ならば、中身が減らないことに、気づかずに済むもの。

 『坊ちゃん』がいないことから、目をそらしていられるもの。

 なのに、私は……

 私のしたことは。

「あの……」

 ごめんなさいと言いかけた私を遮るように、執事さんはすっとテーブルに腕をのばした。

「嗚呼、坊ちゃん。今夜は召し上がりたくないのですね。わかりました。それではお下げします」

 まるで『坊ちゃん』に命令されたかのように執事さんは応え、黒い食器を片付け始めた。カップにたっぷりと残っている冷えた紅茶、堅くなってしまったガトーショコラを、執事さんは淡々とワゴンの上にのせていく。

 それから、

「すっかり遅くなりました。おうちの方が心配しておられますよ」

 と私を静かに玄関へうながした。

 玄関の扉の前で、執事さんはいつもの「ではまた明日、いらしてください。坊ちゃんも楽しみにしております」と言わなかった。
代わりに「おやすみなさい」と頭を下げ、私を見ることなく、ゆっくりと扉を閉めた……。


 私は執事さんを傷つけたことが悲しくて、『あの人たち」の世界を壊したことが悲しくて、泣きながら家に帰り、私を探していた両親に怒られ、弟たちに心配され、どこにいたのか聞かれても答えずに、「ごめんなさい」とそればかり繰り返し、ベッドにつっ伏して泣き続けた。