銀の舟

銀の舟[麻薬・麻薬II 番外編]

拙著「麻薬・麻薬II」を読んでいること前提の番外編です。本編未読の方にはネタバレになりますので、ご注意ください。しっとりとした七夕セバシエです。

 
 ロンドンでの日々を「地獄」というのなら、標高二千メートルを超えるこの村での生活は差し詰め「天国」か。街の喧噪も車の騒音も人の声も聴こえない。地球上の誰にも知られずに存在している閉ざされた世界。
 干し草の香ばしい匂いのする質素な藁のベッドに横たわり、セバスチャンは天窓から見える星空を眺めていた。ついさきほどまで、星祭りに興じる人々の唄が聞こえていた。短い夏を惜しむように儚く、ものおもわしげで、それでいて明るい唄。
 いまはそれも消えて、物音ひとつしない。生きているものなど、まるで存在していないようだ。

──今日は年に一度、星の河が見える日。

 この村の老人はそう言った。
 この日だけは、霧がきれいに晴れて、雲ひとつない夜空を見ることができる、と。
 その言葉どおり、見上げる空には白く、青く、紅く、星たちがキラキラと煌めいている。どれも驚くほど大きくて、手を伸ばせば掴めてしまいそうだ。
 星が降るような夜空……とはこんな光景をいうのだろうか。
 吸い込まれるようにして、天体の姿に見蕩れていると、ふいにカサリとかすかな音が立った。
 少し離れたベッドに眠っている少年が、身じろぎしたのだろう。
 彼のベッドと私のそれとの距離は、ほんの数メートルに過ぎない。
 しかしその隔たりは、私にとって数万光年にも感じられる。
 東洋の伝説にあるという、年に一度だけ星の河を渡って逢瀬する、恋人たちの間に流れる河よりももっと遠いだろう……。
 いま伝説に従って、ベッドを下りて見えない河を渡り、彼のもとに行ったなら、彼は私を受け入れてくれるのだろうか。かつて悪魔のように、彼を奈落に突き落とした私を、いまどう思っているのだろう──。

 セバスチャンは逃亡の最後の日を思い出していた。わずか四ヶ月前なのに、それはもう遥か昔の出来事のように思えた。
 組織を裏切り、追われて「悪魔の橋」から谷底に落ちたとき、薄れる意識の中ですべては終わったと思っていた。車のトランクに積んだ何億もの金も、それと同様の価値を持つヘロインも燃え尽き、塵となって、凍りついた河に散り、自分たちは氷よりも冷たい水の中に沈み、半ば溺れながら、どうにかして岸に這い上がった。
 そこから、どこをどう歩いたのか。
 まともな意識などとっくに手放し、ただ彼だけを決して離さぬよう、腕のなかにその冷えきったからだを、自分の命のようにしっかりと守り、降り積もった雪を踏みしめて歩き続けた。
 突然視界が開けて、奇跡のように現れた小さな村にたどりつき、老いた人々に助けられた。 
 少年のからだに蓄積した麻薬を抜くために、彼らに頼んで小屋を借り、自分の怪我も忘れて、三日三晩閉じこもって治療した。禁断症状に苦しみ、薬を乞い、獣のように叫ぶ彼に水を飲ませ、汗をかかせて毒を抜く。地獄のような時間を乗り切きって、それで気が抜けたのか、終わったあと、左腕に激痛が走り、それから後のことはよく覚えていない。

 シエルの地獄は終わったが、セバスチャンの地獄はそこから始まったのだ。
 からだの左側が抉られたように酷く痛く、熱かった。波のように襲いかかる痛みと高熱にからだが悲鳴をあげ、軋んだ。いっそ殺して欲しいと何度願ったことか。
 かすむ意識の中、唐突に視界がはっきりとして、老いた人々の間に彼の白い顔が見えた。蒼銀色の髪、痩せこけた顔。あ、と思って、腕を伸ばした。彼をつかまえなければ。彼をこの身の傍に置かなければ。彼を離してはいけない。
 なかば強迫観念のような切羽詰まった気持ちに襲われ、必死に腕を伸ばした。しかしなぜか腕は微動だにせず、苛立った。
 ほんの一瞬まばたきした間に、彼が消えた。
 「離れないで」と叫んだけれど、自分の唇がそうと動いただけで、喉からひゅうひゅうと掠れた音が発せられただけだった。
「大丈夫だ」
 彼の声が聴こえた。小さな手のひらが肩に乗せられて、ほのかなぬくもりが伝わってくる。もう一度彼の声が聴こえた。
「……お前のそばにいる」
 その言葉を聞いて安堵し、腕を伸ばして彼に触れようとしたが、やはり腕は動かなかった。
 だが「お前のそばにいる」と言った彼の声は確かに耳に届き、その声を何度も頭の中で反芻した。そうしていれば、地獄の業火に灼かれているような痛みにも耐えられるような気がした。何度も闇に堕ち、何度も目を開け、意識と無意識が交互にやって来た。その繰り返しがどれほど続いたのだろう。
 永く眠っていた気がする。

 目を覚ましたとき、少年はベッドの横の椅子に座り、ウトウトと眠っていた。起こさぬように、そっと触れようとして、そのときにようやく左腕がないことに気がついたのだ。
 そういえば彼の治療をしているときから、肉の腐ったような匂いはしていた。
 二の腕のところできつく布を巻いて、出血を押えていたのがいけなかったのかもしれない。結局、こんなぶざまな姿を彼に晒すことになってしまった……。
 気配に気づいたのか、少年が瞼を持ち上げ、驚いたように目を大きく開いた。
「わかるか?」
 少年はセバスチャンの瞳を見つめて訊いた。セバスチャンはかすかに頷いた……。

 そうして、いまここにいる。
 ここに住んでいる彼らは、一切外の世界と関わらず、何百年も前の暮らしを保ち続けている。
 男たちは濃い髭をたくわえ、女たちは頭に白い頭巾を被って。
 よそ者として入ってきたふたりを次第に受入れ、その存在を喜ぶようになってくれたのは、本当に僥倖といっていい。
 ふう、と小さくため息を吐いた。
 こうして生きている事がいまだに実感できない。
 ひょっとすると、自分たちはあの谷底で命を失って、いまいるここは生と死のあわいなのかもしれない。でなければ、あんなに星が大きく見えることなどあるはずがない。
 けれど──それがなんだというのだろう。
 生きていようと死んでいようと、あの子と共に在りさえすればいい。あの少年の存在だけが、私という人間をこの世につなぎとめているのだ。

***
 シエルは暗闇の中で目を凝らした。
 向こうのベッドに横たわっている男は、どうやら起きているらしい。
 頭上に広がる天の煌めきをきっと眺めているのだろう。
 部屋には星明かりが満ちていて、男の顔をおぼろげに浮かび上がらせている。やはり起きているようだ。
 この村へ来てから、男は一度もシエルを抱かない。
 まったく性的な雰囲気を見せない。
 それは出会った頃のようだとシエルは思う。
 誘拐され、男のもとに連れてこられたとき、執事のように淡々と世話をされた。
 それからヘロインとセックスに漬けられた。 
 懐かしむどころか、嫌悪の感情が沸き立つ思い出。
 否。
 本当に?
 心の奥底で思う。あの時間──調教と呼ばれたあの時間、男に抱かれていたときは決して不快ではなかった。自分の望むことではなかったが、薬に操られていたとしても、男の腕の中で快楽の頂点まで行くあの瞬間は、深い幸福感に包まれていた。
 のちに女王と呼ばれる女のもとで受けた下品で無慈悲な仕打ちに比べたら、男の行為はやさしく丁寧で……そして礼儀正しくさえあった。
「……」
 いま、なぜそんな事を思い出しているのだろう。
 一生憎んでやると言った気持ちは微塵も揺らいでいない。
 なのに。
 男が黙ってシエルに尽くしているから?
 片腕を失うことになるとわかっていても、シエルの治療を優先したから?
 そのことを村人から聞いたときには、シエルの胸が少し痛んだ。
──こいつが、これまでしてきたことと、引き換えにはならないが……。
 秤にかけたら、どちらに傾くのだろう。
 自分が地獄の底まで突き落とされたことと、男が人生の終わりまで、片腕で過ごさなければならないことと。
 シエルはちらっと、男に視線を向けた。
 目の粗いシャツを着た男の片袖は力なく垂れ、その中は空洞だ。
 男はさりげなく以前のとおりにふるまっていたが、時折、眉をひそめて、端正な顔に腹立たしげな表情を浮かべるときがあった。
 きっと、思うように動かせないことを悔しく思っているのだろう。
 憐れみの気持ちが浮かばなかったといえば、嘘になる。
 のろのろと、からだを男のほうに向けたとき、カサリと布団の中の藁が音を立てた。 
「……セバスチャン」
 唐突に零れ落ちた自分の声に驚く。
 けれど、口から滑り出た言葉に、自分の中の何かが、ほどけたような気がした。
「セバスチャン」
 シエルは息を吸って、もう一度呼んだ。
 ただ、静かに。

 男がはっとこちらを向いた。

***
「……ここに来てから、貴方が私の名を呼んだのは初めてですね」
 セバスチャンの声の調子には少しからかうような感じが混ざっていたが、シエルを馬鹿にしような響きはなく、むしろどこか楽しげだった。
「なんです?」
 聞かれて、シエルはすぐに答えることはできなかった。明確に聞きたいことがあったわけではないのだ。ただその名を口にしたかっただけなのだ。
 以前と変わらない美しい顔で、こちらをじっと見据えられて、シエルの腰の奥がわずかに熱をもった。
 なにか伝えたいのに、どう会話を始めたらいいのかわからない。
 欲情をそそる言葉は覚え込まされても、愛をささやく言葉は教えられていなかった。『舐めて』『挿れて』『キスして』……調教中に教え込まれた「おねだりの言葉」はどれも卑しくて、いまのシエルの気持ちにそぐわない。やっと思いついた言葉では、なにも伝わらないかもしれない。
 でも。
 シエルは思い切って口を開いた。
「今夜は……少し冷えるな」
 セバスチャンは瞳を柔らかく細め、頰をゆるめた。
「……それなら、もう少し近くに来たら、どうです?」
 どれぐらい沈黙が続いたのだろう。
 随分長く感じたけれど、実際はそれほどでもなかったのかもしれない。
 ベッドを出ると、冷たい空気が肌を撫でた。7月とは思えない。ぶるっとシエルはからだを震わせた。
 一歩、一歩、星の河を渡るようにセバスチャンのベッドに近づく。
 彼は右腕で頬杖をついて寝そべっている。手前にシエル一人分の空間を空けて。
 ベッドの端に腰掛けると、懐かしい香りが鼻をかすめた。セバスチャンのからだの香り。わずか数ヶ月前まで毎日のように抱かれて、自分の肌に馴染んでしまった香りだ。
「……奴らは、もう追って来ないのか」
 こんなことを訊きたいわけではないのに、もじもじと気まずくて、シエルはつい口にしてしまった。
 セバスチャンは軽く笑って、
「これまで来ていないということは、この村が彼らに見つかっていないか、あるいは新たな獲物を見いだして、そちらのほうに精をだしているか、どちらかでしょう」
 と答えた。金になる仕事があれば、彼らはそちらに向かいますよと、付け足す。
「いずれそのうち、私たちのことは忘れ去られていきます──彼らが心配なのですか?」
「いや」
 と、短く答えた自分の返事は、あまりにそっけなくなかったか。シエルがおそるおそる視線を移すと、思ったよりも近くに琥珀色の瞳があって、少し怯えた。
「寒いですか?」
 セバスチャンがためらいがちに訊く。大きめのシャツをかぶっただけの寝間着では確かに寒い。思い切って、セバスチャンに背を向ける形で横たわった。背中から男のからだの熱が伝わってくる。その温もりは心地よく、シエルの心をあたためた。力をゆるめて、セバスチャンの胸に少しからだをもたせかける。
「すごいな」
 夜空を見上げて、つぶやいた。
「ええ、そうですね」
 うなじにかかるの息の熱さ。厚い胸。一瞬振り返って、抱きつきたい衝動に駆られた。
 そのとき、からだにぐっと力が入ってしまい、後ろにいたセバスチャンのバランスが崩れた。
「ッ」
「あっ」
 セバスチャンはベッドの上に仰向けに倒れ、シエルはその胸に乗り上げるような形ですがりつく。
 ふたりはその態勢のまま、動けなかった。
 荒い呼吸が小さな部屋にさざなみのように広がっていく。
 やがてセバスチャンの右腕がシエルの背に触れ、あやすようにゆっくりと撫で始めた。
 トクトクと心臓の音が聞こえる。それは自分のものなのか、セバスチャンの音なのかはっきりしない。
 少し速いような気がするのは、自分がなにかを期待しているからだろうか。
 セバスチャンがゆっくりとシエルの腰に腕を回す。
 甘やかな琥珀色の瞳に、天の星々が映っている。
 ベッドがぎしり、と深く軋んだ。
 衣擦れの音が部屋に落ちる。
 やがて、かすかな吐息が部屋の中に立ち込め、それを合図にしたように、ひと筋の流れ星が星の河を渡った。

 fin