パリの鳩

カフェを始めたシリーズの長編番外編。本編によく出てきた、セバスチャンの「鳩」のお話です(パリで修行中のセバスチャンと、坊ちゃんも少し出てきます)。鳩は自分のことを「アタシ」と言っていますが、それは落語の噺家さんが喋っているようなイメージです。雄鳩なんですよww

  

     #1

 それじゃ、アタシの話をしよう。

 アタシはちゃきちゃきのパリっ子だ。先祖代々、この花の都で暮らす、根っからのパリの鳩さ。

 ああ、パリ。魅惑の都。

 世界中から山ほど観光客が訪れるヨーロッパ随一の大都市。

 世界に都市はたくさんあるって? 

 なにもパリだけじゃないって?

 いやいや。ロンドンもベルリンもブリュッセルも……どこもこの街には勝てないね。

 なんていったって、ここは『自由』発祥の地、『芸術』の源泉、そして『グルメ』という言葉が誕生した地なんだから。

 生きる喜び、愛する歓び──人生を謳歌できる街。

 それがパリだ!

 ある爽やかな日。

 アタシは根城にしているアパルトマンの向かいの部屋に、綺麗な女が入ってきたのに気づいた。

 漆黒の艶やかな髪、陶器のようになめらかで白い肌、瞳は濃い琥珀色、縁取るまつげは頰に陰を落とすほど長く……いやはや、なんて美しい女だろう! 

 やたらと背が高くて、男物のシャツなんか粋に着こなしててさ、モデルか女優か、その類の人間だろうと踏んだけれど、女にしては荷物が少ない。アタシは首を捻ったね。普通、女ってのは持ち物の多いものだろう? もっとも部屋はかなり狭かったから、たくさん持ってきても入りきらなかっただろうけど。

 だってそこは屋根裏部屋、昔でいうところの女中部屋なんだ。天井は屋根と平行、つまり斜めだ。斜めの天井に形ばかりの小さな窓。そこからはパリ市内が一望できる……といいたいが、残念なら見えるのは屋根、屋根、屋根。屋根が邪魔して景色なんざ全く見えない。せいぜいが遠くにコンコルド広場のモニュメントが霞んでいるぐらいだ。

 女がなにを好んでこんな部屋を選んだのか、アタシにはわからなかった。相当貧乏なんだな、とあたりをつけてみたけど、うーん、それにしては着てるものが上等だったから、アタシにとって女は謎になった。

 謎=ミステリアス。

 ミステリアスな女ってちょっとイイね。へへ。

 アタシが勝手に妄想して、鼻の下を伸ばしていると、女は窓際にコトンと木製の写真立てを置いた。身をかがめて写真に甘い笑みを落とすと、女はおもむろに窓を全開にして、こともあろうに、堂々と着替え始めたんだ。

 おっとっと、とアタシは慌てて翼で顔を隠した。ご婦人の着替えをのぞくなんて、鳩の風上にもおけねえ。そんなはしたない真似をしたら、ご先祖様に言い訳が立たない。

 けれどアタシも男。気にならないって言ったら嘘さ。

 羽の合間からこっそりと女の柔肌を覗こうとした……。

「ポ!」

 アタシはびっくりして、つい声が出ちまった。

 その声に気づいたんだろう。そいつはシャツをはだけたまま、驚いて窓の外を見た。

 その胸。

 その白い胸は真っ平らだった。さながらロシアの大平原のように。しかも腹筋はよく鍛えられて、さながらアルプス山脈のように割れている。

 けっ、男か。

 アタシは途端に興味を失った。

 綺麗な女だと期待していただけに、失望は大きかった。

「ポー…ポー……」

 アタシは力なく鳴いて、その失望を埋めるように、なにか食うものがないか、屋根の上を彷徨い始めたんだ。

 まあ、そうやって気分を変えようとしたわけさ。

 けれど通常、屋根の上に食べ物なんかない。あるのは埃と泥とお仲間のフンだけだ。

 それでも屋根の上をちょんちょんと跳ねていると、

「お腹が空いているのですか?」

 なんと! 男が話しかけてきた。

 それも大変上品なクィーンズイングリッシュで。

 アタシはびっくりして、また声を出しちゃった。

「ポ!」

「おや、声が変ですよ。お腹が空きすぎて、まともに鳴くこともできないのですか」

 男はクスリと笑った。

 うるさい。

 腹はたいして減ってない。

 お前さんにびっくりしたんだ。

 そういっても、人間には通じない。アタシは人語を解するけれど、人間は鳩が言葉を理解するなんて、思いもしないんだろう。

 男はスーツケースを開けて、可愛らしい黒猫の絵のついた小さな缶を取り出した。中からサブレをひとつ摘むと、半分に割って、かけらを窓の桟に置く。

 いい匂いがする……。

 上質なバターの香りだ。

 アタシは匂いにつられて、少しずつ窓に近づいた。

 けれど油断しちゃいけない。

 人間ってやつは見た目で判断できないんだ。アタシが近づいた途端、ばっと両手で捕まえて、あっという間に料理されちゃうかもしれないし(鳩はなかなかうまいと人間が言っていた)、意地悪なやつなら、桟に飛び乗った瞬間、思い切り窓を閉めて、アタシのからだは綺麗にまっぷたつ……なんてことも考えられる。

 心配過ぎだって?

 おいおい、パリの鳩が生き延びているのは、この用心深さのおかげなんだよ。世界中から集まってくる人間の中には、サイコな野郎だって混ざっているんだ。それもいかにも人の良さそうな顔をしてな。

 だからアタシは、イケメンのこの男が涼やかな笑みを浮かべていても、信用することはできなかったんだ。

 男は窓に近づく様子はなかった。

 桟の上にお菓子を置くと、一歩下がってアタシを見守っている。

 まあ、ちょっと行ってもいいか。

 ほんの少しだけ、腹が空いているしな。

 アタシは左右に歩いて、全然近寄る気なんてないよという様子を見せ──あと一歩というところで、短く飛んでさっとサブレを啄ばんだ。

 ぱくぱくと急いで口に入れる。

 甘い!

 香ばしい!

 うまい!

 アタシの全身の細胞が沸き立つ。

 こりゃ、うまいぞ!

 こんなうまい菓子、ここ数年、口にしたことがない!

 アタシは思わず、喜びの声をあげた。

「グルッポー!」

「おいしいですか? 私が作ったんですよ」

 男は誇らしげに胸を張ったが、アタシはそれどころじゃなかった。あんまりうまくて、我を忘れて食べてたからだ。

 すっかり食べてしまうと、男はにこりとして、また桟にクッキーを置いた。

 アタシは素早くそれを啄む。

 飲み込むと、男はすぐにまた置いてくれる。

 アタシが満腹になるまで、男はそれを繰り返した。

 

 それがアタシと男の出会いだったのさ。

  

     #2

 朝だ。

 アタシの朝は早い。

 しかし屋根裏部屋の男はさらに早かった。

 アタシが目を開けたときにはもう、身支度を終えて窓辺の写真に、チュッて朝のキスをしていた。それはもう妬けちゃうくらい、愛おしそうなキスだったよ。写真は部屋向きに置かれていたから、誰が写っているのか、残念ながらアタシには見えなかったけどね。

 男はアタシに目をとめると、

「おはようございます」

とにっこり笑って、挨拶した。

「グルッポー」

 アタシも挨拶を返したね。それが礼儀だ。

 男は登る朝日を浴び、大きく伸びをした。

 それから窓に手をついて、下に広がる街を見下ろし、生き生きとした表情で「さあ、今日からがんばりますよ」と瞳を輝かせた。どうやら男はせっかく来たこの都の観光もせず、すぐに働き始めるらしい。

 せっかちなこった。

 まずはこの花の都を楽しめばいいのに、とアタシは思ったけど、男は「一刻も早く始めたいですからね」と表情を引き締める。

「では行ってきます」

 アタシに手をあげると、タンタンとリズミカルに階段を下り、アパルトマンの真下で、朝から話に花を咲かせる奥さんたちに、

「アラ、イケメンだね!」」

「どこから来たんだい、おにいさん!」

 騒々しくはやし立てられても、爽やかに「Bonjour !」と笑って、通りの向こうに消えていった。

 そして帰ってきたのは……なんと日付が変わる頃だった。

 そんな日々がひと月も続いた頃だっただろうか。

 休暇をこよなく愛するこの国では考えられないハードワークに、アタシは好奇心をかきたてられた。

 こいつはいったいどこで働いているんだろう。

 ある朝、こっそり男のあとをつけてみた。

 と。

「グルッポー!」

 なんとまあ。

 そこは世界に名を轟《とどろか》かす有名なパティスリーだったのさ。

 それで男のハードワークも合点がいった。

 そのパティスリーは、過酷な職場としても有名だった。

 創業なんと百八十年! 十九世紀に貴族のお抱えだったという凄腕パティシエが開いた店で、いまもヨーロッパ各国の王族・貴族・富豪たちとつきあいがあるという。

 それだけにいまだ昔ながらの徒弟制度で、厳しい親方、兄弟子たちへの絶対服従──たとえ、その兄弟子が齢十二歳の若造でも──が課せられている。

 男の苦労が察せられた。

 二十歳をいくつか越えて、パティスリーに修行、しかもあのクィーンズイングリッシュを聞けば、相当な上流階級の出だとわかる。たぶんフランス語だって堪能なんだろう。

 そのことが、どんなに年若い同僚の妬みを買うか、あの無邪気で、ほがらかな男には全く想像できないにちがいない。

 いまも兄弟子らしき、頰にそばかすのある少年に、箒を持たされ、店の前を掃除させられている。たぶん、ここへ来てから毎日、掃除ばかりさせられてるんだ。アタシは丁寧に道を掃く男の姿を見て、小さくため息をついた。

「おや」

 男は気配を感じとったのか、顔を上げて、屋根の上のアタシを見つけた。

「貴方……ですか? ふふ、ここまでついて来るなんて、相当お腹が空いているのですね?」

 違うよ、お前さんに興味があったんだよ、と言ったところで通じない。アタシの一方通行さ。

 男はちょっと待っていてください、と笑って、ごそごそとポケットの中からパイのカケラを取り出した。「お店のですけど、どうぞ」と手を差し出すから、パタパタと羽ばたいて、手のひらからカケラを啄ばむ。

「グルッポー!(こりゃうまい!)」

 アタシはつい喜びの声をあげちまった。

 けど、それがいけなかったんだ。

 アタシの声を聞きつけた兄弟子が、駆け寄って「お前、なにしてる」と男を詰問したんだ。

「なにって、鳩にお菓子屑を……」

 突然、兄弟子は激昂して、男の頰を張った。

 男はわけがわからず、ぽかんと立ち尽くしている。

「鳩になんか、くれてやるんじゃねえ! 癖になって、毎日来たらどうすんだ。店の前がフンだらけになっちまうだろう。大学出だかなんだか知らないけれど、学があるくせに、そんなこともわからないのかっ」

 早口でまくしたてるフランス語も男には苦もなくわかってしまって、そのことがまた兄弟子を苛立たせたに違いない。

「……すみませんでした」

 と謝る男の足元にぺっと唾を吐いて、兄弟子は店の中に消えてしまった。

「すみませんね。あの人はいつもあんな風なんですよ」

 男は律儀にアタシにも頭を下げた。

 いや、悪いのはあんたじゃないよ。あの鼻垂れ小僧、アタシたち鳩をバカにしてるよ。アタシたちはしっかり場をわきまえてるんだから!

 アタシが憤然としていると、男はすまなそうに、お菓子屑を道の端に置いた。

「こんなところじゃ食べにくいかもしれないけど、よかったら食べてください。おいしいでしょう?」

 おいしいよ。おいしいけどさ。あんな奴らが作ったんだと思うと、その味も随分落ちるよ。早くお前さんの作った菓子を食べたいもんだ。

 サブレがあんなにおいしいんだから、他のスイーツだって、相当うまいに決まってる。ミルフィーユや苺のフレジェやマカロン……想像するだけで腹が鳴るよ。

「おい、いつまでオモテ掃いてんだ。そろそろ開店するぞ、さっさと裏へ回れ!」

 そばかす兄弟子の意地悪な声が響く。めげずに男はアタシにパチッとウィンクすると、店の裏へと走り去った。


***

 男は明るかった。

 職場で虐げられているだろうに、持ち前の陽気さでもって、毎日を乗り越えていた。

 朝、写真の誰かさんに語りかけ、それからアタシにお菓子の端切れをくれる。いまでは男は窓に小さな台を誂えて、そこに水鉢とお菓子のカケラを置くようになった。

 男が現れてから、アタシは食べ物の心配をしなくて済んで、大分助かったよ。

 或る日、朝食をとった後で写真立て(の背)を眺めていると、

「見ますか?」

と、男が写真をくるりとアタシのほうに向けてくれた。

「ポ!」

 そこにはまあ、なんていうか……ものすごく可愛い女の子が写っているじゃないか!

 まるまっこい頰を縁取る銀色の髪。ちょっと気の強そうな蒼と紫の瞳。ちっちゃな紅葉のような手に、ガトーショコラをしっかり握ってる。はにかんでいるのか、ほっぺたが赤く染まっているのが、またなんとも愛らしいんだ。

「グルッポー(お前さんの子どもかい?)」

 アタシが聞くと、男はあたかも鳩語がわかったかのように、

「私の従兄弟なんですよ。血はつながっていないんですがね。すごく可愛いでしょう?」

 やれやれ、また間違えちゃったよ!

 女の子だと思ったら、男の子か。

 まあどっちでもいいけどさ。

 アタシがまじまじと写真を眺めていると、

「この子のために私はパリに来たんですよ」

 男は静かに語り出した。

 なんでも、男の父親が新しい奥さんを迎えたときのパーティーで、出会ったそうなんだ。

「ガトーショコラをね、こっそりつまみ食いしていたんです。『おいしいですか?』と尋ねると、コクンと大きくうなずくので、つい『私が作ったんですよ』と自慢してしまったのです。すると、彼は大人のように顎に手を添え、しばらく考えてから『おまえはぼくのおやつがかりだ! まいにち、ぼくにおやつをつくれ! めいれいだ!』と叫んだんですよ」

 思い出してか、男は笑みをこぼしたけど、すぐに考え込むような顔になった。

「──……そのとき、音叉のような音が私の頭の中で、鳴ったのです。びぃんと響く不思議な音……。 オカルトなんて全く信じていないのですが、音が聴こえたことは事実なのですよ。そしてその奇妙な音が聴こえた瞬間、私はその子の虜になってしまったのです」

 いい年をした男がたった五歳の子どもに心奪われるなんて、おかしいですよねと、男は苦笑した。

「ですが、その命令は私を縛り、どうしてもその子のためにお菓子を作らなければ、という強迫観念に近い気持ちを私に植え付けたのです。それも普通のお菓子じゃない、ほっぺたが落ちるぐらいのおいしいものを。それで大学を卒業するとすぐ、家の反対を押し切って、お菓子の修行のためにこちらのパティスリーに入ったのです」

 男はそこで言葉を切って、寂しげにフッと笑った。

「この子と初めて会った時から、もう五年も経つんです。あれから一度も会っていない……。はたして私のことを覚えているんでしょうか。あの命令もいまでは忘れているかもしれませんね……」

 男は遠くを見るような目つきをした。

 アタシに気づくと、我に返ったように、

「おや、鳩を相手に私はなにを話しているんでしょう。なんだか、貴方が話を聞いているような気がして──。まったく、どうかしていますね」

 男は軽く頭を振って、アタシの水鉢に綺麗な水を入れてくれた。

  

     #3

 男に変化が起こったのは、半年を過ぎた頃だったろうか。

 笑顔が急に少なくなったことにアタシは気づいた。

 悪いことに、季節は秋。日の出は遅くなり、日の入りは早くなる。緯度の高いパリの長い夜の始まりさ。

 ただでさえ、うつ気味のパリジャンが増える季節だ。男の元気は次第になくなって、憂鬱な顔を見せるようになった。

「まだ厨房に入らせてもらえないんですよ。片付けや掃除や、下働きばかりです。早く作りたいのに……」

「グルッポー……(そりゃ、気の毒に)」

 でも男はちっともすさまずに、相変わらず親切でね。ぐっと冷え込むようになると、アタシ専用の戸を窓の横に作ってくれたんだよ。それはアタシがちょいと押すだけで、部屋を出入りできる便利な戸だった。

 おまけに男はベッドの横に小さな籠を用意してくれてさ、柔らかいキルトを敷いて、アタシの寝床を作ってくれたんだ。 本当にありがたかったよ。

 それだけじゃない。

「食べますか?」

 男はパリ祭やハロウィンや……なにか行事があるたびに、それにちなんだお菓子を作ってくれた。それがまあおいしくて。部屋の小さな電気オーブンで焼いたお菓子なのに、ものすごくうまくて、アタシはすっかり男の腕に参っちまったよ。

 うまいったって、ただのうまさじゃないんだ。

 ふっくらした優しい味わい。あたたかくて、真心がこもっていて、滋味のある……なんていうんだろう、食べるととても幸せな気持ちになるスイーツなんだよ。

 そうそう、その年のクリスマスには、男はひときわ豪華なディナーを用意してくれたんだ。

 チーズたっぷりアツアツフォンデに、香ばしいナッツのガーリックソテー、ミントとレモンのサラダ。メインは、もちろんビュッュ・ド・ノエル! 知ってるだろう? 切り株の形をした、フランスのクリスマスケーキさ。 

 支度ができると、男はワイングラスを傾けて、

「メリークリスマス」

とアタシに微笑んだんだ。

「ポ!」

 アタシはびっくりして目を丸くしちゃった!

 だってこれまでの鳩生《はとせい》で、初めて人間にメリークリスマス! って言われたんだよ。……なんだろ、ちょっと感動したっていうか、じーんってきちまったんだ。

「グルグルッ、ポー!」

 アタシも力一杯、男にメリークリスマスって、返したさ。

 男も男の想い人も幸せになりますように! ってね。 

 男は写真の子にも小さな声で「メリークリスマス」とささやいてさ、「いま何をしていますか。サンタさんを待っていますか?」って写真の前で頬杖をついて、じっと見入っていたよ。


***

 二年目になって、男はようやく厨房に入ることを許された。お菓子の下ごしらえをまかされるようになったと喜んでいたけれど──。

 指や手首、腕の内側にやけどの跡が頻繁に見られるようになった。どうやら熱く焼けたボウルやら、ヘラやらを肌に押し付けられてるらしい。

 わざとじゃない。厨房が忙しくて殺気立っているから、皆『ついうっかり』焼けた道具を差し出すのだ、と自分に言い聞かせるように話したけれど、アタシの見立てはそうじゃない。そうやって男に嫌がらせをして、辞めさせるつもりなのさ。

 「泣きたくなるほど痛いけれど、でもそんなこと、この子にはいえませんからね」

 声をひそめて、アタシに胸の内を打ち明けた。

 男は写真の子にはいつもいいことばかり、報告していたよ。

 卵を泡立てるのがうまくなったこと。

 チョコレートのテンパリングのコツを掴んだこと。

 おいしい生地の配合を習ったこと。

 けれどアタシは知っている。

 男は泡立てることなんて、絶対前から上手だったに違いないし、テンパリングも、おいしい配合も、習ったわけじゃない。誰も教えてくれないから、兄弟子たちの手元を一生懸命見て学んだのさ。

 なのに写真に向かって、絶対そんなことを言わないんだ。

「修行はなかなか厳しいですが、まあ元気にやってますよ」

と作り笑顔を見せる。

 本当は辛くて逃げ出したくて、しようがないくせに。

 アタシはそのとき思ったよ。

 愚痴はアタシに吐けばいい。それで心を楽にして、なんとかやり過ごせばいいと。

 けれど、状況はますます悪化していった。

 職場で何をやっても叱られて、男はどんどん自信を失くし、

「だめでした……」

 この春受けた、初めてのパティシエ試験に落っこっちまったんだ。

 これまで挫折を知らなかった男が初めて負けた。

 こっちへ来てから、ずっと苦労して修行し続けてきただけに、男のショックは相当なものだったろう。

 おそらく職場でもバカにされたに違いない。

 やれ、学歴の高いおぼっちゃまがこのざまだ、試験は得意じゃなかったのかってね。

 だけどね。それで諦めるような奴じゃなかったんだよ。

 元の調子に戻るまでひと月かかったが、

「来年は必ず試験に通って、パティシエと呼ばれるようになります」

 写真の子にはっきりと約束した。

 その月の休養日、男は思い切ってベッドを処分し、開いたスペースに自分で作業台を作った。それからプロが使うオーブンや、コンロ、冷蔵庫、ボウルやいろんな道具を運び込み、自分の部屋で本格的なお菓子を作れるようにしたんだ。

 深夜に店から帰ってくれば、その日見た作業の手順を忘れないように、細かくノートに書きつけ、それから夜明けまでお菓子を焼く。

 男は明け方近くなって、ようやく休んだよ。ベッドは捨ててしまったから、床に寝袋を敷いて眠っていた。


***

 三年目。

 男の顔つきはもう以前とはまるで違っていた。

 あの陽気でほがらかな男はどこにもいない。いるのは、陰鬱でうつむきがちな痩せこけた男だ。男はいまじゃ、ほとんど眠れなくなった。店で殴られる恐怖、罵倒される恐怖が男を支配した。眠れば、奴らが夢に出て、うなされて飛び起きる。そのうちに……男はお菓子の匂いを嗅ぐだけで、吐くようになっちまったんだよ。

 写真に微笑むことも少なくなって、

「早く帰りたい……」

 男はそう呟くようになった。けれどすぐに、

「私は絶対諦めませんよ」

と強く唇を引き結んだ。

 英国にいる想い人との約束のために、男はなんとしてでも、パティシエになるつもりだった。

 そして、とうとうその日が来たんだ。

 万全の準備をして挑んだ二度目のパティシエ試験。

 男はついに受かり、晴れてパティシエになったのさ。

「グルッポー(おめでとう!)」

 アタシが祝福すると、男はにっこりした。

 「明日からは兄弟子たちと肩を並べて、ケーキでもなんでも作れるんですよ。こんなに嬉しいことはありません」

 さらに喜びに溢れた顔で、

「今日はなんと、仲間が店で祝ってくれるのです」

と満面の笑みをみせた。

 あんなやつら仲間でもなんでもない、とアタシは毒づいたけれど、男の幸せそうな顔を見たら、そんなことはとても口に出せない。男はこの日のために誂えた真新しい白いスーツを着て、アタシに笑いかけた。

「じゃあ、行ってきますね」

「グルッポー(まあ、せいぜい楽しんできな)」

 一抹の不安を抱えながら、アタシは男を送り出した。屋根の上から痩せこけた背中を見送ったよ。

 深夜。

 蒼い月がちょうど中天にかかった頃、男は幽霊のようにふらふらと部屋に戻ってきた。

「……!」

 絶句したね。

 そんときの男の格好ときたら。

 あんまり可哀想で、思い出したくもないけれど、ほんの少しだけ言えば、男の真っ白なスーツはもう、何色だかわからないぐらいに汚れていた。卵の殻やバターやジャムやチョコレートのようなドロドロした液体や……。パレットの絵の具を全部ごちゃまぜにしたような、そんな色だった。

──ああ、人間ってやつは、本当に嫌な生き物だ。

 アタシはつくづく思ったんだ。

 同族を貶めて、傷つけるような生き物は滅んじまえばいい。

 
***

 男は部屋からまったく出なくなった。

 なにも食べない。なにも飲まない。

 ただ部屋の真ん中に突っ立って、床を見つめていた。

 一日、経った。

 二日、経った。

 男は彫像のように動かなかった。

 一度だけ、パティスリーの親方らしき壮年の男が訪ねてきたが、ドアの外で何度名を呼んでも、男が出てこないもんだから、あきらめて帰っていった。

 尋ねてきたのは、そのひとりだけさ。

 男が「仲間」と呼んだ連中はひとりも来ねえ。

 虐めに虐め抜いて、人ひとり壊した奴らが来たところで、ありがたくもなんともない。アタシがフンを浴びせまくるだけだけどね。

 男はもう写真も見なかった。

 写真立てには少しずつ埃が積もっていったよ。

 しばらくして、大家と男の両親らしき人間がやって来た。

 女のほうはリコリスのような真っ赤な髪をしていて、男の姉ぐらいの年だった。男を見るなり、小さく悲鳴を上げたけど、すぐに気を取り直して、医者のようにてきぱきと行動した。男を旦那に背負わせ、荷物を手早くまとめると、すぐさま部屋を出て行ってしまったんだ。

 あの子の写真はポツンと窓際に取り残されていた。 

 なにもない部屋にひとつだけ、心細げにポツンと置かれて。

 アタシは彼らに向かって懸命に「グルッポー、グルッポー」と鳴いたけれど、アタシの声は届かなかったのさ……。

  

     #4

 埃だらけになっちまった写真立て。

 男の三年間の悲惨なパリ暮らしを支えた写真。

 すぅっと風が忍び込み、写真立ての枠がカチンと弛んだ。瞬間、隙間から写真がはらりと抜け出して、窓のほうに飛んでいく。

「ポ!」

 いかん、風に持っていかれる!

 アタシは泡吹いて、すっ飛んで、風の野郎から写真を取り戻した。籠のベッドに大事に運んで、写真を眺める。

 ホントに可愛らしい男の子だ。きらきら光る瞳。桃色の唇。

 ──おまえはぼくのおやつがかりだ! めいれいだ!

 どんな声をしているんだろう。

 きっと鈴を振ったような、無邪気な心地よい声なんだろうなあ。

 その子のために、ここにきたのに。あんなに苦労したのに。

「がんばったのにな……」

 アタシは写真を丁寧にしまうと、夜空を見上げた。

 ああ、パリ。花の都。

 五月には風薫るマロニエの小道。

 恋人たちが愛をささやく、セーヌの河畔。

 夏、人々はバカンスに出かける。ひと気のない街はまるで静かに眠っているよう。うっかり訪れてしまった旅行者が、鎧戸《よろいど》を下ろした店の前で、がっくりと肩を落とすのもまた一興さ。

 そして秋。

 枯葉舞うこの街の秋はまた格別。

 モンマルトルでは芸術家たちの個展があちこちで開かれ、一風変わった人間たちが集まって賑わうんだ。 絵の具の匂い、石膏のかけら……町全体がアトリエみたいになるんだよ。

 冬。

 パリの冬は厳しい。

 けれどポン=ヌフ橋では焼き栗売りたちが出て、あつあつの焼き栗を売ってくれる。それをカイロがわりに外套のポケットにいれて、恋人同士身を寄せ合って、散歩するのもこの街ならではの風景さ。

 愛の都。幸福な街。

 その街をあいつはまったく味わうことなく、去っちまった。

 アパルトマンとパティスリー。毎日その往復だけ。

 アパルトマンを下りてすぐの路地の片隅に、綺麗なスミレが咲いていたことに気づいていただろうか。

 店に通う道の両脇のプラタナスの樹が、爽やかな緑色の影を舗道に落としていたことに、気づいていただろうか。

 考えると、あまりにも不憫で、アタシはおちおち夜も眠れなくなった。

 あいつの愛しいひとの写真。

 朝に夜に語りかけていた大切な写真。

 それをこんな異国のちっぽけな屋根裏部屋に、ほったらかしといていいんだろうか。

──あいつに写真を届けてやれたら……。

 そうしたら、少しは元のあいつに、あの明るくほがらかな男に戻ってくれるかもしれない。

 アタシはこの辺りで一番高い塔に飛んで、海の方を眺めた。 遠くからセーヌ川を走る船の汽笛の音が聴こえてくる。

「ポ……?」

 ふと男の気配を感じた。

 優しかったあいつの気配。

 涙の跡のような哀しい気配が、はるか遠く英国からアタシの心に届いてくる。

──行って、みようか。

 アタシはすっかり情にほだされちゃったんだね。

 それにさ。

 男のパリの思い出が悲惨なものばかりってのも癪《しゃく》に触った。

 バリは嫌なことばかりじゃないんだ。アンタのことを大事に思ってる鳩だっている。

 可愛いあの子の写真を届けて、パリっ子の気概を見せてやろうじゃないか。

 アタシは決意した。


***

 アタシが英国に飛ぶと決めた日。

 仲間たちはみなやめろと言った。

 当然だ。

 アタシはそれほど若くない。もう盛りを過ぎている。

 若い鳩でも難しいのに、お前みたいなロートルがドーバー海峡を越えられるわけがない。人間なんかに義理立てする必要はない。やめておけ。

 そう諭されれば、アタシだって不安になってくる。

 やっぱりやめたほうがいいんだろうか。そうだな、アタシが行ったって、あいつは喜ばないかもしれない。それどころかアタシのことなんか、全く忘れちまっているかもしれない。

 だがね。

 一羽だけ、行けと言った鳩がいたんだ。

「写真を届けろ。パリっ子の意地を見せて来い」って。

 その鳩はものすごく年寄りの鳩で、みんなから「長《おさ》」って呼ばれていた。長はアタシの祖父と友人だったそうだ。そんなこと、初めて聞いたんだけどね。

「第二次世界大戦の頃、ワシとお前のじいさんは大いに活躍したんだ」

「活躍?」

「ああ、いまの鳩は知らないだろうが、あの頃のワシらは『伝書鳩』と呼ばれてな、人間たちの手助けをしたもんだ」 

 長が言うには、戦時中、銀の輪を足首につけ、そこに重要なメッセージの入った筒を括りつけて、目的地に飛んだそうだ。

「旅の途中で仲間たちが随分命を落としたが、ワシとお前のじいさんは優秀でな、ワシらは弾丸に撃たれることなく、海に落ちることなく、任務を果たしたんだ。パリからロンドンまで、秘密文書を何度も運んだもんだよ」

 無線は敵に傍受されちまうし、伝令は捕らえられてしまう。鳩にしかできない任務だったんだ、と長は胸を張った。

「ドーバーを越えていったのかい?」」

「決まっているだろ? ドーバーを越えずして、英国へ行けるわけがない。なに、いいように人間どもに使われたんじゃないかって? おい、物事をそう真っ直ぐに考えちゃいけないよ。ワシらは思ったんだ。人間という狡猾な生き物に正面切って逆らうよりは、奴らを利用したほうがいいってね」

「利用?」

「ああ、なんだと思うね」

 そんなこと聞かれたって、わからない。じいさんはにやりと笑って、

「女、さ」

「ポ!」

「なんて声を出すんだい。しっかりしろ。お前さんだって、好きだろう? あの頃、ワシらは随分モテてな(いや、いまだってイケてるがな)、ロンドンに行って、アバンチュールを楽しむのも悪くないって考えたんだ。向こうでお前のじいさんと、どっちが先に彼女を作るか、競い合ったもんだぞ」

 なんだ、結局女目当てかと思ったけれど、まあ種の保存に大事な本能さ。アタシだって、女性は大好きだしね。

「それに、特別な鳩というだけあって、待遇もよかった。ふかふかの暖かい寝床にゴージャスな餌。病気や怪我はすぐに診てくれる。優秀な鳩は数少ないから、人間たちは大事に扱ったのさ」

 アタシのじいさんが飛んだのなら、孫のアタシだって飛べるはず。体内に、じいさんから引き継いだ遺伝子があるに決まってる。そう意気込むと、長は逸るアタシを押さえた。

「まあ、待て。準備が肝要だ。まず脂肪を蓄えろ、それから翼にもう少し筋肉が要る」

「ポ!」

 アタシはまた変な声を出してしまった。だってさ……運動は大の苦手だったからだ。でもそんなことは言ってられない。

 じいさんの即席スパルタ教育を受け、五日後には羽に筋肉、腹に脂肪たっぷりの、今喰ったらかなりうまい鳩のできあがりってわけさ。

「いいか、まずできるだけまっすぐ上に飛べ。そうしないと、周りの景色にみとれて、進む方向がわからなくなっちまう。方向がわかったら、そこへ向かってまっしぐらに進むんだ。途中で餌を探したり、水を飲んだりしちゃいかん。仲間に出会っても寄り道なんか論外だ。ただ一直線、ひたすら目的地に向かって飛べ」

「わかった」

 そのほか細々としたことをじいさんはくどくど言い、アタシはアタシで少しずつ薄くなっていく男の気配が心配で、気が気じゃなかった。いざ出発したはいいが、肝心の気配が消えちゃ、アタシは迷子になっちまう。相当、焦っていたね。 

 さて、いよいよ、明日の朝には出発という夜。

 仲間達が別れにきた。今生の別れというわけでもないのに、仲間達は泣いてて、アタシもちょっぴりもらい泣きしたよ。  それからみんなであの子の写真を丁寧に油紙に包んで、細い革紐で結び、それをアタシの片足にくくりつけた。少し重心がずれたけど、特訓したから、アタシはすぐに水平を取り戻したよ。

「がんばれよ」

 長が腹に響く低い声で言った。

「行ってくるよ」

 アタシは軽くさりげなくうなずいた。

 内心ものすごくびびっていた。

 もうこれで死ぬかもしれないって、悲愴な覚悟をしてた。

 そんなアタシの心の中が透けて見えたのか、長が、

「ロンドンの女は、なかなかいいもんだぜ」

 とアタシの背中をバーンと叩いたんだ。

 そうだ! 女だ、女♡  

 アタシの気分がびょーんと上がったね。

 あいつに写真を届けたら、カワイコちゃんを見つけて、粋なデートに誘うんだ! よっしゃと気力が湧いて、アタシは馴染んだ屋根を飛び立ったのさ。

 コンコルド広場を右。カレーの港へ向けてひたすら飛ぶ。

 パリの街がぐんぐんと遠くなる。

 生まれてから一度も離れたことのない街。離れるにつれて、不安がどんどん高まってくる。

 いや、たった五時間。

 カレーの港からたった五時間で英国に着くんだ。

 アタシは心の中で何度も自分に繰り返して、飛び続けた。

 郊外の農地を見下ろし、低い山を越え……。

 次第に見えてくる、蒼。

 まっすぐ横に伸びる水平線。

──これが海。

 生まれて初めて見る海だ。

 港に着いたアタシは、いったん波止場に降りて、船のマストに留まった。

 海はどこまでも蒼く深く続いている。

 ぶるるっと震えた。

 ここからがアタシの本当の旅が始まるんだ。

 パリっ子の根性が試される時さ。

──海は鳩にとって一番厄介なんだ。周囲になにも見えないからな。方向がわからなくなる。

 長の声が脳裏に蘇る。

 足がガクガクと震えてきた。

 足首に結わえた油紙が、カサカサと音を立てる。

 しっかりしろ。アタシはできる。

 必ず、ドーバーを越えられる。

 バサッと翼を大きく動かした。

 ふわりと、足がマストから離れる。

 さあ、ここから先は留まるところなんてない。

 どうしたって、渡り切らなければならない。

 アタシは頭上の太陽に向かって、まっすぐ飛んだ。

 それから……あいつの気配を掴まえて、信じるまま一直線に進む。幸い、いまは追い風。風に乗ることができれば、体力を温存できる。順調に行けば、半日で英国に着く。

 飛び続けろ!

      
         



            暗闇の中。

            氷の粒が飛んでくる。

            翼もくちばしも凍えて、もう感覚がない。



  

     #5

 ちくしょうめ。

 誰だよ、行けなんて背中を押したのは。

 あんのくそじじい!

 思い切り、悪態をついた。

 ドーバー海峡は想像していたよりも、はるかに厳しかった。

 風は追い風どころか、途中からずっと向かい風だ。

 波しぶきが凍って、ピシ、ピシとアタシのからだを打つ。

 どんどんからだは冷えて、体力が奪われていく。

 海の上じゃあ、休もうたって休めない。

 なに、ぷかぷか浮かんで休めばいいって?

 鴨じゃないんだ。

 水をはじき返す羽毛なんぞもっていない。

 鳩が水面に降りたら、たちまちぶくぶく沈むだけさ。

 あとはサメの餌になって、はい、おしまいだ。

 アタシは死にたくなかったし、なにより、かよわい足にくくりつけたあの子の写真を届けるまでは、死んでも死にきれないって必死だった。

 ああ、文字通り必死だったのさ。

 けれど次第に目はきかなくなった。鼻だってだめさ。海鳴りで耳までおかしくなってきやがった。こうなると、自分がどっちに進んでいるのか、まるでわからなくなる。

 事態はさらに悪くなった。

 夜が来たんだ。

 本当なら日の暮れとともに英国に着いているはずなんだ。でもアタシはまだ海の上。きっと方向を間違えちまったんだろう。辺りは真っ暗闇。上も下も真っ暗で、水面まで近いのか、遠いのか、それさえもわからない。

「怖いよ……」

 一歩、間違えれば、ぽとって落っこちまう。

──仲間が随分命を落としたもんだ

 長の言葉が脳裏に浮かぶ。

 ああ。

 こういうことなんだ。

 がんばって飛んで、飛んで、飛んで、でもふっと力が抜けて、ぽとっ……と海に落ちちまうんだ。

──あの男も、きっとそうだったんだな。

 あいつの飛んだ海は相当きつかったから、あの日、ぽとっと落っこちまったんだ。

 アタシも、そろそろおしまいだ。

 さっきからちっとも翼が動かないんだ。

 ああ。

 あいつのうまい菓子を二度と食べられないんだな……。

 あのやさしい笑顔を二度と見られないんだな……。

 アタシは覚悟して、目を瞑った。



 夢を見ていた。

 あの屋根裏部屋で、男が微笑んでいる。

 できたばかりのホカホカの林檎のパイをアタシに差し出して、

「おいしそうでしょう?」

 と誇らしげに笑うんだ。

 その味ときたら!

 パリパリに香ばしく焼けたパイの中から出てくるのは、とろり蕩ける魔法のカスタードクリームに、キャラメリゼした林檎のフィリング。

 アタシはパクパクと勢いよく食べるんだ。

 外は凍りつくように寒いけど、屋根裏部屋に備えつけられているラジエーターは、今夜奇跡的に動いて、ぽかぽかとアタシたちを暖めてくれる。

 暖かい部屋。

 暖かい笑み。

 暖かい……

──暖かい……?



「?」

 ウン、暖かい。

 どうしたわけか、アタシの周りがほのかに暖かいんだ。

 身を切るようだった風も感じない。

 目を瞬かせ、キョロキョロと辺りを見回した。

「ポ!」

 驚いた。

 アタシの周囲が鳩で埋め尽くされている。

 灰色、紫、緑……たくさんの鳩が羽ばたいている。

 彼らは一様に足首に銀の輪を嵌めていた。

 あの鳩も。あの鳩も。

 重い銀のリングに小さな筒をくくりつけて。

 バランスを崩さないように、懸命に飛んでいる。

 みな同じ方向へ向かって。

──伝書鳩……?

 薄闇の中では一羽一羽の顔はよく見えない。

 少し離れたところに、アタシのじいさんの顔がチラッと見えたように思うけど、それはきっと気のせいだろう。

 彼らはアタシを守るように、前に後ろに、上に下に隊列を組んでいる。群れの真ん中にいるアタシには、ほとんど風があたらない。彼らが防御壁になっているからだ。アタシが傾き、落下しそうになると、すかさず下にいる鳩たちが背で持ち上げてくれる。

 アタシだけじゃない。

 群れの中の一羽がぽとっと落ちそうになれば、すぐに一羽、二羽と仲間の鳩が駆けつけ、下から支える。何羽落ちかけても、追いかけ、皆で押し上げて……そうやって群れの鳩を一羽も減らすことなく、進んでいる。

 いつのまにか雲が切れ、月の光が波を淡く照らしていた。

 アタシは無数の鳩と共に、夜の海を渡っている──。

  

     #6

「少し歩きたいのですが」

 重厚な扉に取り付けられた小さな小窓越しに声をかけると、看護人はうなずいた。

「十五分間です。それを過ぎたら、迎えに行きます」

「はい」

 迎えに行く、とはよく言ったものだ。

 本当は「連れ戻しに行く」だろう。

 看護人はガチャリと重い音を立てて、頑丈な扉を開けた。

 自分ひとりに随分と大仰な、と私は軽く嘆息するが、小さなため息を聞きつけても、看護人はなにも言わない。

 少し前なら、浜辺に出ることは許されなかった。散歩ができるようになってからも一定距離を置いて、看護人がついてきた。自死を恐れているのはわかるが、こちらはもう死ぬような力さえない。

 からっぽなのだ。

 胸に大きな穴が開いているように、からっぽ。

 すかすかのからだに、力など湧いてくるはずがない。

 泣く力も笑う力もなにもない。

 パリを離れたあと、アンジェリーナはロンドン郊外の家ではなく、ドンチェスターにあるこのサナトリウムに私を連れてきた。入り江のそばにあって、あまり人の訪れない、静かな場所なのよと彼女は話したけれども、おそらく私が以前の友人たちや親戚にわずらわされることのないように、気を配ってくれたのだろう。

 サナトリウムはもとは貴族の館で、第二次大戦中は野戦病院として使われていたと聞く。内部は昔の姿そのままだ。大きなマントルピースや大理石の大階段、重厚なシャンデリア……。その屋敷がいまは心に傷を負ったひとびとを癒すサナトリウムになっている。

──心に傷を負った……?

 いや、そんな言葉では到底言い表せない、辛く悲しい三年間だった。あの記憶は私の心にこびりつき、ここへ来てからもひどく私を苦しめたのだ。

──パティシエとして、俺らと肩を並べて働くって? 何言ってんだ、このバカは?

──いい気になってんじゃねぇ!

──みんなお前となんて一緒に働きたくねえんだよ。同じ空気吸ってるだけで、気持ち悪いんだよ。いい加減、察しろよ!

──国に帰れよ。邪魔なんだよ!

──帰れ! 帰れ! 帰れ!

 繰り返される罵倒と飽くことのない暴力……。

「──っ、ぐっ」

 パティスリーの光景が浮かぶたびに、私は吐いた。胃の中のものを全て吐き出しても、吐き続けた。吐瀉物と共に、パリでの記憶もすべて吐き出されてしまえばいい、と何度も願った。けれども、忘れ去ることはできなかったのだ。

 すべて私が悪いのか?

 必死で働いて、見よう見まねで技を覚え……。決して役立たずではなかったはずだ。それどころか、厨房の弟子の誰よりも優秀だったと思う。親方もいつも喜んで、褒めてくれた。

 なのに、彼らにあれほど憎まれていたとは。

 叱責されても、殴られても、すべて自分を鍛えてくれるためなのだと信じこもうとしていた。

 けれどそれは全部悪意だった。

 私を憎み、私を排除したくてたまらなかったのだ。

 私はそれほどダメな人間なんだろうか。

 私は人の気持ちのわからない人間なんだろうか。

 私は──いなければよかったんだろうか。

 私は

 私は

 私は

 気が狂いそうだった。

 頭を壁に打ちつけても、薬に縋っても、記憶は消えなかった。

 死を求め、機会を窺っては、何度も自殺未遂を繰り返し……。

 やがて私は諦めた。

 罪人《つみびと》のように、私はこの記憶を抱えて、生きなければならないのだ。いつか終わりの日が訪れるまで。

 私は一日中、部屋の壁を眺めて過ごすようになった。

 部屋にはウィリアム・モリスのツタ模様の壁紙が張られていて、屋敷の元の持ち主のコレクションだろうか、壁の端に無名の画家の静物画が掛けられていた。そこに描かれた小さな林檎の絵を眺めていると、なぜか頰が濡れ、どうやら自分は泣いているらしい、と他人事のように思ったりした。

 ときおり、昔の友人が見舞いに来た。

 彼らは一様に、「かわいそうに」「酷い目にあったね」と言葉をかけてくれたけど、その目は好奇心でいっぱいだった。

──異質な存在を見る好奇と嫌悪の目。

 私を見る彼らの目に覚えがあった。

 そう……彼らの目はパティスリーの彼らとまるで同じだったのだ。私は屈辱を耐え、まるで聞こえないかのように、彼らの言葉を無視した。終始無言で、壁を見つめ続ける私に、彼らは興味をなくしたのか、つまらなさそうに帰っていった。

「完全な負け犬さ。もう関わらない方がいいね」

「あのまま就職していれば、出世間違いなしだったのに……。バカな奴だ」

「あんな姿になっちゃって。みじめねぇ」

 扉の向こうから彼らの言葉が聞こえてくる。

 かつて私の属した上流社会の人々。

 その中に私の居場所など、もうなかった。


***

 雑木林を抜けて、浜辺に出た。

 さく、さく、と砂を踏み、歩いていく。

 誰もいない。

 波が静かに打ち寄せている。

 早春の海は冷たく穏やかだ。

 流れ着いた流木が、そこかしこに散乱していた。

 うねうねと蛇のように曲がった木。ちぎれた腕のような木。怪物のようにのたうち、複雑にもつれた木。流され、朽ち果てて何の役にも立たない彼ら。私は立ち止まり、流木を見つめた。

──まるで私だ。

 すっかり枯れて、汚れた醜い姿を晒している。ただそこに在るだけ。誰にも必要とされず、顧みられず、疎まれ、世界の果てに追いやられて……。ふ、と自嘲するように息を吐けば、流木の陰にボロ雑巾のようなものが落ちていることに気づいた。

「なんでしょう……?」

 くたくたによれた塊に腕を伸ばす。

「ッ」

 拾い上げたそれは、鳩の亡骸《なきがら》だった。

 鳩の姿は一瞬にして私をパリに引き戻す。瞬く間に辛い記憶が蘇り、思わず亡骸を放り出そうとした。

 が──。

「……」

 できなかった。

 よく見れば鳩の翼は無惨に折れ、くちばしには黒い血がこびりついている。どこから飛んできたのか、方向を見失い、彷徨っているうちに、海に落ちてしまったのだろうか。全身にべっとりと砂がこびりついた灰色一色のからだはひどく哀れだった。

 せめて葬ってやろう。

 私は鳩をふところに入れ、歩き始めた。

 雑木林を通る風は冷たい。外套の前をぎゅっとかき合わせた。

──とくん……とくん……

「え……?」

 かすかな音のようなものが聴こえて、立ち止まった。

──とくん、とくん

 胸に小さな脈動を感じる。

 おそるおそる外套の中を覗けば、わずかに鳥の胸が上下している。

──まさか。生きている?

 硬く目を閉じ、生きている気配などなかったのに……。

 慌てて、病棟に戻った。

 看護人は私が抱きかかえているものを見ると、顔をしかめ、

「ゴミなら、捨てておきますよ」

 と頑丈そうな手のひらを差し出した。

「いえ、鳥です。生きています。助けたいのです」

 看護人の行動は早かった。

 私を部屋の中に押し込めると、すぐさま洗面器とポット、何枚かの布を持ってきてくれた。洗面器にぬるま湯を張り、布を浸して、鳥のからだをそっと拭いた。湯を変えては、新しい布を浸してぬぐっていく。

 しばらくして鳩のくちばしから、コポッと水が垂れた。

 コポ、コポッ。

 砂混じりの潮水をすっかり吐いてしまうと、鳩はうっすらと目を開けた。

「……ポ……」

 私の顔を見上げると、驚いたようにつぶらな瞳を見開いた。  

 擦り傷だらけの足首に、細い革紐が結ばれている。子どものいたずらだろうか。つかまえられて、伝書鳩もどきに何かくくり付けられたのかもしれない。

 ちぎれかけた紐の先に、油紙で包まれた塊がぶらさがっている。革紐をはずし、慎重に油紙を解いた。かつてはなにが包まれていたのだろう。いまでは濡れ崩れた紙切れしかなかった。

 鳩はボロボロの紙片を見ると、

「……グ、ルッポ……」

 と小さく鳴いて、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

***

 私は鳩の寝床を作って、ベッドの傍に置き、日々世話をした。

 すり餌を差し出すと、鳩は弱々しくくちばしを開けて、懸命に餌を飲み込もうとする。生きていたところで、やがて死ぬだけの短い生なのに、なぜこんなに生きようとするのだろう。なにを支えにしているのだろう……。

 やがて鳩の容態はよくなり、籠のベッドにうずくまって、グルグルと心地好さそうに喉を鳴らすことも多くなった。

 不思議なことに、部屋にいると、鳩とよく目が合った。

 ベッドに座り、壁を眺めているときも、トレーに載せられた食事をぼそぼそと摂っているときも、鳩の視線を感じた。 

 この鳩はパリの鳩とよく似ているけれど、それにしたって英国まで飛んでくるわけがない。パリからドンチェスターまで、八百㎞はあるのだ。しかも間にはドーバー海峡がある。鳩にはとてもドーバーを越えられないだろう。

 或る昼下がり、壁を眺めているのに飽きた私は、珍しく本を読んでいた。少年の頃に一度読んだきりだった、プルーストの『失われた時を求めて』だ。紅茶とマドレーヌの逸話しか覚えておらず、緩慢にページを繰っていると、鳩が興味深そうにちょこちょこと近寄ってきた。

 私は気まぐれに訊ねてみる。

「貴方は、どこから来たのですか?」

「グルッポー!」

 鳩が思いがけず、元気よく鳴いて、驚いた。

 たぶん、どこから来たのか、鳩語で答えてくれたのだろう。

 言葉がわからないのが残念だが、胸を張って誇らしげに鳴くその姿がおかしくて、ついクスリと笑ってしまった。

 鳩もグルッポー、グルッポーと一層力強く、明るく鳴く。

 つられて私も喉をのけぞらせ、ははと大きく笑ってしまった。

「あ……」

 いま私は……。

 私はパリを離れてから──いま、はじめて笑ったのだ。

 本を伏せてベッドに横たわり、屋根裏部屋の鳩のことを思い返した。

 パリの冬は寒かった。

 鳩は凍りつくような明け方、私をパティスリーに送り出し、深夜冷えきった部屋で迎えてくれた。つま先まで凍りそうな夜は、一緒に寝袋にくるまって寒さをしのいだものだった。アパルトマンの古いラジエーターは、始終故障して、まったく用をなさなかったから。

 そういえば、一年目のクリスマスは楽しかったな。

 どんなメニューだったかうまく思い出せないけれど、楽しかったことだけはしっかりと覚えている。よく食べる鳩だった。私の作ったものをいつもおいしそうにぱくぱくと平らげていた。

 あの子の写真を見ながら熱く恋を語る私に、仕事の愚痴をこぼす私に、いつも耳を傾けてくれた。ときおり、相槌を打つように「グルッポー」と鳴いて、私たちはまるで会話をしているように過ごしたものだ。

 私は次第に鳩との日々を鮮明に思い出していた。

 あの鳩と過ごす時間は幸せだった。

 そうだ。

 パリは辛い思い出ばかりではなかったのだ。

 


 鳩の折れた翼は完全には元に戻らなかった。

 それでも多少飛べるようになると、鳩と私は一緒に浜辺を散歩するようになった。私は朽ち果てた流木の中で気に入ったものがあると拾った。鳩は浜辺をちょんちょんと軽く飛びながら、そのあとをついてくる。

 疲れてくると、ふたりで砂浜に座り、ぼんやりと海を眺めた。流木を拾ってきては、病棟の裏庭に積み上げる私に、サナトリウムの職員たちは、なにもいわなかった。

 やがて春が終わり、夏になった。

 初夏の海は、眩しく爽やかだ。

 ところどころにヨットが浮かび、浜辺が賑わい始めている。

 鳩は時折、海を見つめていた。

 水平線の向こうをじっと見ている。

 いったいなにを想っているのだろう。

 鳩はいつまでもいつまでも、海を見つめていた……。

***

「もう大丈夫でしょう。あとは、無理をしないで過ごすようにしてください。なにかあれば、すぐに連絡を」

 主治医の言葉にアンジェリーナは大きくうなずいた。

「すっかりお世話になりました。ありがとうございました」

 そして私に笑いかけると、

「さあ、行きましょう、セバスチャン」

 あたたかい手でやわらかく背中をさすった。

 実家に戻り、しばらく静養した後、私はあの子の住まいの近くで家を探し始めた。何件か不動産屋を回って、ようやく見つけたのは、1960年代に建てられたコンクリート打ちっ放しの二階建ての建物だ。

 建物の壁には蔦が絡まり、庭は荒れ放題で、まるで廃屋のような家。二階のベランダに前の住人が残していったであろう、白い衛星アンテナがあって、それが妙に空々しく、引っ越したら、まず第一にあのアンテナを外そうと決めた。

 二階は住居だ。

 そして一階はカフェ。

 浜辺でこつこつと流木を集めながら、私は考えていた。

 どこにも居る場所がないのなら、自分の手で作ればいいのだと。私にできることはスイーツを作ることだけ──それすらもいまはできないが──、過去のトラウマを乗り越えられるかどうか全く未知だけど、やってみたい。

──カフェを始める。

 私のカフェは……こじんまりとした暖かい雰囲気のカフェがいい。人々が気軽に立ち寄って、しばしの間、のんびりとくつろげる居心地のよいカフェ。おいしい紅茶と手作りのスイーツの店。

 あの流木たちで窓を作り、椅子を、テーブルを作ろう。

 床も天井も自分で張ろう。

 灰色の壁にぬくもりを、荒れた庭には花を植えよう。

 鳩はこの場所が気に入ったらしく、低く飛びながら、あちこち探検している。

──もしかしたら、ときどきあの子が遊びに来てくれるかももしれない。

 リノベーションが始まってから、私はほんの少しだけ、期待していた。ここは、彼の家から十五分たらずの場所なのだ。私がカフェを開くことは親戚中に広まっているだろうから、きっともうすぐ彼のもとにもその噂は届くだろう。

 彼は五歳のときの命令を、覚えているだろうか。

 私を……覚えているだろうか。

     

  

     エピローグ

「ありがとうございました!」

「ミカちゃん、ごちそうさま! 新作スイーツ、おいしかったわよ」

「また明日ねー、坊ちゃん♡」

 今日の最後の客を送り出し、カフェの扉を閉めた途端、少年はどすんと、私の作った椅子に腰を下ろした。

「ああ、つかれた……」

「乱暴に座らないでください」

「う…わかった」

 彼は決まり悪そうに、銀色の髪を掻いて、座り直す。

 私は彼の前に水滴のついたグラスを置いた。

 琥珀色のアイスティー。

 大ぶりに切ったレモン。

 彼はレモンをぎゅっと絞ると、おいしそうにごくごくと一気に飲み干した。

「うまい!」

「当たり前です」

 心をこめて、淹れたのだ。うまくないわけがない。

 空いたグラスに、すぐにお代わりを注ぐ。

「どうぞ」

 少年は二杯目もすぐに飲み干すと、

「あのさ、今度アイスティーの作り方、教えて」

「いやです」

「なんで」

「貴方の顔が見たいから」

「は?」

「私の淹れたアイスティーを、おいしそうに飲む貴方の顔が見たいから、教えません」

「~~~~ッ」

 みるみるうちに彼の頰に血がのぼる。顔をタコのように真っ赤にして、うつむいてしまった。

 まったく。

 そんなことぐらい察してくれてもいいのに。

 私の年下の可愛い恋人は、いつまで経っても子どもだ。

 そんなことを口をしたら、地雷を踏んで、たちまち大爆発するけれど。

 つ、と彼の顎を人差し指で持ち上げた。

「ん……」

 甘い吐息がこぼれでる。

 キスを待つ薄桜色の唇が愛らしい。

「……」

「……」

「…………」

「…………?」

 いつまで経っても、唇が重ねられないことに不審を抱いたのだろう。彼がそぉっと薄眼を開けた。私はニヤニヤして、その顔を見つめている。

「……おいっ」

「なんです」

「キ、キ、キ……」

 キスしないのか! と言いたいのだろうが、恥ずかしくてとても言葉にできず、頭文字だけ繰り返す。

「キス、したいのですか?」

「べ、別に」

 そっぽを向く彼の顎を、こちらに向き直させた。

「な……っ?」

 ぐっと後ろ頭を掴んで、唇を奪う。

 柔らかい唇を開かせて、舌を忍ばせれば、彼の細い指先が肩にくいこむ。抱きしめて、舌を絡め、くちゅくちゅと音を立てて吸い上げた。

「……は……」

 一瞬顔を離して、角度を変え、またすぐにくちづける。

 彼の背中がふるり、と震えた。

 絹糸のように細い銀の髪に指を入れ、テーブルの上に押し倒した。深く、より一層深く、舌を挿れる。

 華奢な太ももをそろり…と撫でた。

「あ……っ」

 ほら、もう感じてる。

 タイを抜き取り、ボタンをはずし……乳首の突端に軽く触れれば、もうそこは勃ち始めて、私の愛撫を待っている。

 不意にからだを起こした。

「なに……?」

「続きはまたあとで」

「え」

「さあ、さっさと片付けてください」

 彼はあっけにとられたような顔をし、「まったく、なんなんだよ」とぶつぶつ文句を言いながら、それでも箒を手に取って、床を掃きだす。

──本当に可愛らしい。

 喜ぶ顔も、困った顔も、怒った顔も、すべて愛おしい、私の年下の恋人……。

「あっ」

 彼は不意に顔を上げ、壁のカレンダーをバッと見た。

「おい!」

「なんです」

「来週、どうするんだ?」

「どうする、とは?」

「三周年だよ!」

「三周年」

 焦れったそうに地団駄を踏む。

「もう! ほら、来週の金曜日! このカフェができて、ちょうど三年になるだろ!」

「嗚呼……」

「嗚呼、じゃない。なにかしないのか? 三周年記念のお菓子を配るとか……」

 私は少し考えた。

「一周年のとき、なにもしませんでした」

「……うん」

「二周年のときも、なにもしませんでした」

「……うん」

「だから、三周年もなにもしません。いつもどおりです」

 ふぅと少年は大きなため息をついた。

 まあ、それならそれでいいけどね、とあきらめたように天井を見上げた。

 

──そうか。カフェを開いてから、もう三年経ったのか。

 道理で彼の家から移し替えた黒スグリが大きくなったわけだ。

 グラスを洗いながら、この三年間を思い出す。

 いっときトラウマが蘇り、スイーツが作れなくなった時期があった。だが彼が闇の中に陥った私を救ってくれ、彼の機転でランチを始めるようになって、店の危機を乗り越えられた。

いまではスイーツとランチのカフェとして、思いがけず人気の店となっている。

 そういえば私が店の客──素晴らしいインド美人──にしつこく言い寄られて、彼女と浮気したと勘違いした彼が家出してしまったことがあった。あのときは実家に籠城して、出てくるまで説得するのが大変だった。

 嗚呼、店によくない筋の客がやってきて、乱闘騒ぎになったこともあったな。

 それから──……。

 今年のはじめに彼の母親が亡くなった。

 ろうそくの火が消えるように、ひっそりと、湖のほとりの小さな療養所で息を引き取ったのだ。

 臨終のときは、彼とともに私もその場にいた。

 彼女の最後の言葉は「シエル? そこにいるの?」だった。

 それは彼のことなのか、それとも彼女の記憶の中の彼のことなのか、どちらだったのだろう。

 彼は「ここにいるよ」とだけ応えて、最期まで彼女の手を握っていた。


***

「セバスチャン」

 呼びかけられて、我に返った。

 少年は窓にもたれ、黒スグリの実をつつく鳩を眺めていた。いつのまにか、私の焼いたサブレを缶から取り出して、ポリポリとかじっている。

「あの鳩さ」

「……」

「やっぱり飼ってるの?」

「さあ」

「なんだよ、さあって」

 彼は不服そうに、ぷぅと頰をふくらます。

 私はふっと笑って、言葉を探した。

「そうですね……」

 窓辺の私たちに気づいたのか、鳩がこちらのほうへパタパタと寄ってきた。不自由になってしまった翼を、上手に操って飛んでいる。

「……仲間、でしょうか」

 ようやく言葉を見つけた私は、ゆっくりと口を開いた。

 少年が驚いて目を見張る。

「え、鳩が? 仲間?」

「ええ、仲間です。とても──とても、大切な」

 私がそう呟くと、鳩はつぶらな瞳を輝かせ、「グルッポー」と明るく鳴いて、私の恋人の手からお菓子のカケラを啄ばんだ。

                         

[完]