『絶望』という名の……

 エリザベスが部屋に引き上げ、使用人たちがようやく彼女から解放されたのを見て、シエルも休むことにした。
 賑やかなことが苦手なシエルにとって、バースディパーティは苦痛の時間だったが、素直に誕生日を祝ってくれる周囲の気持ちは嬉しく、知らず知らず笑みがこぼれていた。執事のディナーはいつもに増して手の込んだ美味い料理だったし、続いて出されたスイーツは、どこでどう手に入れたものか、季節外れの新鮮な苺がたっぷり盛られたショートケーキで、エリザベスは大喜びだった。

「お疲れさまでございました」
 ナイティのボタンを留め終えた執事が主に声をかけた。
「……あの苺は、どうしたんだ」
 ベッドに身体を滑り込ませながら、シエルは気になっていたことを尋ねた。
「どう、とおっしゃいますと?」
「この時期にあんなものは市場に出ていないだろう」
「嗚呼。言いつけに背いたりはしておりませんよ、坊ちゃん。あくまで人間らしく……こちらの温室で私が育てたものです」
「お前が……?」
「ええ、種からじっくり」
 半信半疑だったが、この執事ーー悪魔で執事ーーが嘘をつくはずがない。育てたというのだから、言葉の通りなのだろう。
「苺を種からとは、随分ご苦労なことだったな。エリザベスが喜んでいた」
 それはよろしゅうございましたとクスッと笑って、執事は横たわった主の身体に上掛けをかけた。そういえば、と思い出したように目を細める。
「今日、十二月十四日は討ち入りの日だそうですよ」
「討ち入り?」 
「ええ、タナカさんがお話してくださいました。十八世紀の日本で起こった出来事だとか……。理不尽な罪に問われ、主君を自害に追い込まれた四十七人の騎士たちが、復讐に立ち上がったお話です」
「どうなるんだ」
「彼らは苦労の末、主を罠に嵌めた憎い仇の首を討ち取り、その首を主の墓へ捧げました。そして全員腹を切って、自害し果てたのです」
「……たったひとつの首に、四十七人の命か」
「ええ」
「なんて愚かな」
 悪魔は黙って主の顔を見つめていた。ふたりの間に不自然な沈黙が流れる。
「お前……僕も似たようなものだと思っているな」
 にたりと悪魔は笑った。
「貴方の場合、四十七人どころでは済まないのではないでしょうか」
「どういう意味だ」
 悪魔はふわりと燕尾服のテールを優雅に翻し、主の枕元に跪く。
「坊ちゃん。貴方の復讐相手は何をしているのでしょうね。坊ちゃんが生還して以来、ずっとなりを潜めたままです。なぜでしょう? なぜいつまでも襲って来ないのでしょう? ……もしかすると、彼らは坊ちゃんの様子を監視しているのかもしれません。坊ちゃんがどれほどの力を持っているのか、自分たちの脅威となり得るのか、見極めようとしているのではありませんか」
 この悪魔は何を言いたいのだろう。シエルは続きを待った。
「貴方が彼らを見つけ、復讐の手を伸ばしたとき、彼らは一体どうするでしょう。むざむざと手をこまねいて、やられるのを待っているとは思えません。どうすれば貴方を制することができるのか……。そう、貴方の弱点を探って、狙ってくるでしょう」
「僕の弱点……? そんなものはない。だって、僕にはもう、失うものは何もないのだから」
「本当に? 坊ちゃん、本当に貴方には失うものがないのですか?」
「ない」
「では、エリザベス様は? 復讐すべき相手がエリザベス様を攫って、貴方の攻撃を避けるための盾にしたら? 復讐を諦めなければ、彼女を殺すと言われたら、どうします?」
「……ッ!」
「ほら。そんなお顔をされるほど、大切な方なのですよね、エリザベス様は。では、エドワード様やミッドフォード侯爵夫人は? ソーマ様は? 貴方のために彼らが斃れるかもしれませんよ。そうなったらどうします? 復讐を続けますか? それとも諦めますか?
 坊ちゃん。貴方はすべてを捨てたとおっしゃいますが、この三年間で貴方は周りの人間たちと随分馴れ合ってしまった。三年前だったら、彼らを『駒』として容易に切り捨てられたかもしれませんが、いまではもう情が絡んで、捨てられないのではないですか?」
「お前がいるだろう。お前が彼らを守ればいい」
「おやおや、我が主は何もわかっておられないのですね。その可愛らしい頭の中身は空っぽですか? もちろんご命令とあらば、力の及ぶ限り、彼らも貴方同様、守ってみせましょう。
 ですが、もし貴方か、彼らか、どちらかしか守れない状況になったら、私はためらいなく貴方を選びます。貴方さえいれば、他の人間などどうなっても構わない。……ウェストン校での事件をお忘れですか?」
 忘れるわけがないとシエルは思った。あのとき、セバスチャンは主人の命令よりも契約者の命を守るほうを優先した。アンダーテイカーを追えという命令に背いて、シエルを守りに走ったのだ。

 セバスチャンは、ふと憐れむように言った。
「坊ちゃん、手紙など捨てろと強がっていましたが、本当はマクミラン様やご学友の方たちと、もっと友情を深めたかったのではないですか?」
「……もうその口を閉じろ」
 と、苦々しく命じた。だが、悪魔は聞こえなかった振りをする。
「貴方は本当はご存知なのですよね。彼らがご自分の復讐の足手まといになることを。貴方が誰かを愛すれば愛するほど、その人間を危険に曝すことになり、復讐の足枷となる。だから、愛を囁けない。真の友情を育めない。人間らしい繋がりを作れない。可哀想に。なんて不幸なんでしょう、貴方は」
「黙れと言った」
「いいえ、黙りません。坊ちゃん、さきほど貴方はおっしゃいました。ひとつの首に対して四十七人が無駄死にした。愚かだと。貴方も愚か者のひとりなんですよ。
 さあ、復讐なんて馬鹿げたことはやめて、楽に生きたらどうです? 貴方の寿命が自然に尽きるまで、私は待っても構いませんよ? そうしたら、お好きなだけエリザベス様に愛を謳うことができ……」
 シエルはベッドから飛び出ると、悪魔の顔を目がけて、思い切り蹴りつけた。悪魔はぎりぎりのところでそれを躱し、ゆっくりと立ち上がって、主人を見下ろす。
「……愚かで結構だ。僕の気持ちは決まっている。それが変わることはない」 
「貴方の大切なエリザベス様を失うことになっても?」
「貴様ッ!」
「どうなのです、坊ちゃん」
 どうしてもそのひと言を言えというのか、この悪魔は! 腹の中が煮えくり返った。
「たとえ……たとえ、誰を犠牲にしようとも、僕は復讐の手を緩めたりしない! これで満足か、悪魔めっ!」
 ぎらぎらと憎しみに燃える瞳で悪魔を睨みつけた。
「……今日のところは、それで結構ですよ」
 不承不承といった様子で悪魔は引き下がる。遠ざかる不満げな背中を見遣り、いったいなんだってこの悪魔は、今日に限ってこんなに絡んできたのかとシエルは訝しんだ。途端に、あ、と思い当たった。
「待て、セバスチャン!」扉に手をかけた執事を呼び止める。「お前……今日、僕の機嫌がよかったのが、おもしろくないんだな」
 悪魔はやれやれと手のひらを上に向けた。
「今頃お気づきになったのですか? まったく貴方らしくない……。ええ、その通りです。あんなぬるま湯のようなお誕生会で、あんなぬるま湯のような笑顔を見せられては、平穏な日常にすっかり馴れきって、『復讐』という目的を忘れてしまったのかと心配になりましたよ」
「忘れるわけがないだろうッ」
「ええ、そのようですね。ですが、ときどき私の大切な御主人様に、人生の目的を思い出させて差し上げないと。あたたかい温室にずっと置いていたら、苺だって腐ってしまいますからね」
「僕をお前の苺と一緒にするな!」
「これは失礼いたしました」と執事は深々と頭を下げてみせる。「確かに坊ちゃんの魂は、私が丹精込めて育てた苺などよりも、ずっとずっと美味しそうな匂いを放っていますよ」
 罵声と共に投げつけられた枕を軽く避け、クスクス笑いながら扉を閉めた。
 今夜、主は怒りのあまり、眠れずに朝まで過ごすのだろうか。それとも、シーツに顔を埋めて、ひとり泣くのだろうか。
 いずれにせよ、一層また、あの蒼い魂を昏く輝かせるのだろう。こうやって機会あるごとに、『絶望』という名の栄養を与え、肥え太らせなくては。

FIN