with love

──嗚呼。喚んでいる。
 悲しみと怒りと混乱と絶望の中で呪いの言葉を吐いている。
 私を……喚んでいる。

***
 広大な屋敷の地下のつきあたり。
 執事部屋からセバスチャンは足早に主人の居室へと向かった。
 今夜も主人は悪夢に魘されている。
 主人を苦しめているのは、彼を監禁し、生け贄の羊にしようとしたあの豚共の記憶ではない。女王の番犬として、彼女に害なす人間たちを排除した、殺戮の記憶が彼を苛んでいるのだ。
 たとえばドイツ人たちを動く鋼鉄のオーブンに閉じ込めて、生きたまま料理した記憶。
 たとえば誘拐された子どもたちを傲慢に焼き殺した記憶。
 たとえば秘密裏に行われていた人間兵器研究所の職員たちを惨殺した記憶……
 たとえば、たとえば──
 そのリストは延々と続く。地獄のようなあの場所から這い上がった彼を待っていたのは、「女王の番犬」という新たな地獄だった。
 女王の指令で彼が殺した人間は何百人にも及ぶだろう。その命は、たとえ悪人だったとしても、ただひとつのかけがえのないもの。失えば二度と取り返すことはできないのだ。女王にとって害獣でも、その帰還を待っている誰かがいるかもしれない。慕う使用人もいるかもしれない。誰かの恋人かもしれない。もしかしたら子の父親かもしれない。そう、女王にとって不要でも、他の誰かにとっては大切な人物なのかもしれないのだ。
 主人はそう考え……、だからこそ自分が犯し続けている罪におののき、悔やむ。それが彼にとって、逃げようのない運命だとしても。
 悪魔は嘆息する。人間とは複雑な生き物だ。割り切ってしまえばいいものを。殺したあとで命を摘み取ったことを悔やみ続けるとは……。悪魔には到底わかりかねる。
 呻き声が聞こえて、主人の部屋の前で足を止めた。
「うぅ……ああ……あ」
 地を這うような苦悶の声。
 夢は正直だ。
 罪の重さを悪夢で知らせる。女王の番犬である限り、終わらない苦しみが主人を襲い、良心の呵責と血に濡れた己の手を嫌悪しながら、生きていくのだろう。
──哀れだ。
 この世の地獄を彷徨う主人の心がいくらかでも安まるといいとセバスチャンは願う。実際は悪魔の自分にできることといえば、彼を荒れ狂う快楽の中に引きずり込んで喘がせるだけ。安寧とはほど遠い享楽を与えて、いっときの忘却を施すだけなのだ。
 それでもこの手が少年のほんの少しの慰めになるのなら。この指が少年によい夢をもたらすものなら。今夜はいつもよりもやさしく抱いて、甘い快楽を分け与えたい。悪魔でもなく、執事でもなく、ひとりの男として。

 シエル・ファントムハイヴが、悪魔を飼っているのは(文字どおり彼はそう思っていた)あくまで復讐のためだった。決して自分の快楽などのためではなかった。けれども悪夢がもたらす苦痛は到底耐えられるものではなく、さらに悪いことには人を殺めた日にかぎって、自分のからだに強制的に覚えこまされた快楽の残滓が疼き出す。人を殺した恐怖が、本能が、自分を悦楽に向かわせるのだとわかっていても、欲望に抗えなかった。
 悪魔の助けが欲しい。悪魔がくれる快楽に浸りたい。人を殺したことを忘れられるなら、どんな代償を払ってもいい……。
「ひぃっ!」
 ほら、少しでも気を許せば、幻が現れる。血にまみれた死体。焼け爛れた死体。引きちぎられた死体……。自分が命じ、忠実な悪魔が手を下した人間たちの亡霊が、助けてくれえと懇願し、傷だらけの手を伸ばして、シエルのベッドににじり寄ってくる。
「寄るなッ」
 ベッドの端まで後ずさった。奴らはもうすぐベッドにのぼって、僕の足首を掴むだろう。良心が見せる幻影だとわかっていても、恐怖はぬぐえない。早く、早くとシエルは念じた。
 この幻を祓えるのはあいつだけだ。悪魔で執事のあいつだけが、僕を救ってくれる。
「来い……! セバスチャン」

***
 主人の望みに応えて、しゅるる……とセバスチャンはタイを抜き、燕尾服を脱ぎ捨てた。純白のシャツ越しにくっきりとわかる、彫像のようなからだに主人がさっと目を走らせる。頬が赤く染まっている。たとえかりそめの姿だとしても、自分のからだに主人が喜んだのを見れば、セバスチャンの心は弾む。すべてを脱ぎ去り、するりとベッドに入った。
「坊ちゃん……」
 ナイティのボタンに触れれば、主人がひくりと身を震わす。何度からだを重ねても、決して馴れることがない。そのつど、セバスチャンの指におののき、かつての地獄を思い出すのだ。
 怯える少年の首筋にそろりと指を走らせた。
「んっ……」
 思わず洩れた主人の吐息に悪魔は満足する。胸の奥に仄暗い情欲の火がともり、濡れた舌で小さな耳をそっと舐めた。耳から首筋にかけてゆっくりと舌を辿らせれば、主人のからだはカタカタと細かく震え出す。
「あ……っ」
 主人のあまやかな声。やわらかく、しなる腰。腕の中に閉じ込めた小さな主人のからだはどこも甘美で、セバスチャンを夢中にさせた。

 今夜のセバスチャンの態度がいつもと違うことにシエルは気づいた。いつもなら荒々しく自分のからだを開いて、くちづけも愛撫もそこそこに性急に腰を持ち上げ、熱を埋め込むくせに、どうして今夜はこんなにもやさしいのだろう。
 背筋を軽く撫でられて、ざわりとどこかが疼く。
 爪先に、ふくらはぎに、腿の内側に、そうして全身に唇を這わされるたびに、あたたかく蕩けるような快感が押し寄せた。快感はゆるやかに背筋を伝い、かつて感じたことのない官能が心を溶かす。
 だが──。
 気をつけろ。こんなに甘く、とろけるような愛撫。これこそが悪魔の奸計なのかもしれない。そうだ。このやさしさはまやかしだ。悪魔に籠絡されてはならない。悪魔にからだを許しても、心は許してはならない。
「おい、今夜はなんだ、子ども騙しか? はっ、やさしくすれば、お前に懐くとでも思ったか」
 返って来たのは沈黙だった。キッと睨み上げれば、シエルを見おろすその顔がいつになく悲しげで、つ、と胸を衝かれた。
「ッ、なにが言いたい?」
「──私は、ただ……」
「ただ、なんだ!」
 悪魔は再び沈黙し……次に口を開いたときには、紅い瞳を輝かせたいつもの悪魔に戻っていた。
「獣(けだもの)ような私がお好みならば、そのようにいたしましょう」

 そこから先をよく覚えていない。
 セバスチャンが狂ったようにシエルに襲いかかり、逆巻く愛撫にからだを抉られるようなきつい痛みを覚えて、先程までの甘くやさしい唇を恋しく思っても、そのときにはもう遅かった。
 あのやさしさは悪魔の手管ではなく、本物だったのかもしれない。今夜、本当にセバスチャンは僕をやさしく慰めたかったのかもしれない。けれど悪魔を豹変させたのはこの僕で、僕がなじったせいで悪魔はなにかを捨てて、僕を酷く扱っているのだ。
「……ん、っぅ」
 激しくくちづけられて、背中が仰け反る。その胸にあたたかい舌を押し付けられ、執拗にころがされ、先を噛まれて、からだがガクガクと揺れ始める。わけのわからない熱い塊が爪先から背筋をぞくぞくと駆け上がった。
「あっ、あ────ッ」
 ぱたぱたと腹に落ちた白濁をセバスチャンは舌先で掬い、腹から下に舐め広げた。
「や、め……、ッア!」
 シエルの抗議に耳を貸さず、セバスチャンは再び勃ちあがったシエル自身を口に含んだ。白濁で濡れた指は後ろに入り込み、前と後ろの二カ所を同時に責めたてられて、シエルの叫びはかすれて叫びにならず、酸素を求める魚のように、唇を開いては喘いだ。
 からだは何度も絶頂に追い上げられる。セバスチャンのそれは熱く硬くシエルの奥の奥まで侵し、前後に動かされるたびに痺れるような快感がからだを貫いた。深く穿たれた熱は、シエルをかき乱し、なかをぐちゃぐちゃにされて、全身の力は尽き、息も吐けない。なにもかもどろどろに蕩けて、この身が粉々になるほど抱かれて、快楽の海に沈められて────悪夢はようやくシエルのもとから消え去っていった。

***
 情事の終わりはいつもあっけない。
 悪夢が去れば、もう自分に用はないのだ。セバスチャンはふぅと心の中でため息を吐いた。
 主人に気持ちの伝わらないことがもどかしかった。悪魔の自分を信じてもらえなかったことが辛かった。なかば自棄になって、主人のからだを貪るようにして抱いたが、心の中にぽっかりと穴があいたような寂しさは埋まらなかった。
 一体、どうしたら彼は自分を信じてくれるのだろう。
 どうしたらこの想いを伝える事ができるのだろう。
 本当は、今夜はやさしく、この上なくやさしく、彼を抱きたかったのに──。

 苦い想いを抱え、のろのろとベッドから抜け出て、床の燕尾服を拾い上げた。と、そのとき。
「……いろ」
「?」
「ここにいろ、朝が来るまで」
 シーツに顔を埋めた主人の表情はわからない。けれど、銀の髪の間から覗く小さな耳がほんの少し赤く染まっていた。
 セバスチャンはもう一度ベッドに戻ると、後ろからそっと主人を抱きしめた。少年は拒まなかった。
──少しはこの想いが通じたのだろうか……。
 無言の問いに「yes」と答えるかのように、前に回したセバスチャンの手を主人は儚い指でぎゅっと握りしめた。
 セバスチャンはほっと小さく息を吐く。少年の首筋に顔を寄せて、ゆっくりとくちづけた。
 気がつけば、あたりはしんと静かだ。
 薄闇の中、今年最初の雪がはらはらと窓の外に舞い始めていた。

 今日は十二月十四日。
 シエル・ファントムハイヴの十三歳の誕生日。

FIN
*坊ちゃん、お誕生日おめでとうございます *