靴底

朝からセバスチャンは機嫌がいい。晩餐のために注文した食材が届くのだ。今晩は腕によりをかけて絶品のアレを作り、坊ちゃんをびっくりさせて差し上げたい。
メイリンが苦戦している洗濯物を取り上げ、さっさと猛スピードで干したかと思うと、庭のハーブの手入れとフィニが手こずっている庭木の剪定を同時にこなし、バルドの新兵器を隠し場所にしまいこみ、スネークの蛇たちに常よりも上等の餌(生きたネズミ)をやり、もちろん庭の片隅を訪れる彼女のためにスペシャルな皿を置き……。
「おいおい、セバスチャン、やけにご機嫌じゃないか?」
「そうですだ。なにがあったんでしょうだ」
「わからないけど。悪いことじゃない気がします!」
「不幸の前触れってワーズワスが言ってる」
ほっほっほっと老いた家令の笑い声を背中に、セバスチャンのご機嫌は続く。

******
アフタヌーティも終わり、もうそろそろ晩餐の準備に入らなければならないのに、食材がまだ届いていない。一体どこで油を売っているのか、今晩のメインディッシュが出せないではないか。焦り気味のセバスチャンの耳に、馬車の止まる音が届いた。
「申し訳ありません、途中で、腹が痛くなりまして」
「それはいいですから、早く荷を降ろしてください」
業者が降ろすのももどかしく、自分でかかえて厨房に向かう。
「嗚呼、これでようやく仕込みに取りかかれます」
木箱の蓋を開け、湿った木屑にまみれて、パクパクと口を動かしているそれを見つめる。
「うわああ、セバスチャンさん!!まだ生きているじゃないですだか!?」
脇から覗き込んだメイリンが素っ頓狂な声を上げた。
「そうです。生かして届けるように特別に言いつけたのです。これは新鮮でないとおいしくありません」
ひゃああ、動いている!!と叫ぶメイリンを追い出し、セバスチャンは研いでおいた包丁を裏庭へ取りにいく。
その一瞬の隙間。
階下での騒動を聞きつけて、シエル・ファントムハイヴが厨房に入って来た。木箱の中から音がする。おそるおそる覗き込んだ。

******
「坊ちゃん!?」
包丁を片手に戻って来たセバスチャンは、水桶に顔を突っ込んでいるシエルを見た。
「なにをしているのです?」
駆け寄って、頭を持ち上げると、いやいやと首を横に振って、すぐにまた水の中に顔を入れようとする。
「いけませんっ」
再び頭をつかみ、水桶から離して、ずるずるとひきずっていく。途中で、シエルは口をパクパクさせて、胸を抑えた。まるで溺れてでもいるように、苦しげに、息を吸い込もうとしている。顔色が白から青黒く変わり、このままでは窒息してしまいそうだ。セバスチャンがシエルの濡れた前髪をかきあげると、その瞳は、灰色がかった薄汚れた黒。二色の瞳はどこにもない。
「まさか」
シエルを再び水桶にばしゃっと浸け、急いで木箱のなかを見る。そこには、さきほどと同じようにパクパクと口を開け、苦しそうにえらをばたつかせている魚がいた。その瞳は蒼と紫。魚は怒りたぎっているようだった。
「坊ちゃん……ですか?」
執事は、ぶふっと吹き出しそうな口元をおさえ、魚に訊く。魚はパクパクと一層強く口を動かすが、声にならない。
「〜〜〜ッ!」
ジタバタと尾ひれを動かし、暴れる魚。
「いやしんぼさんですね。大方、おなかが空いて、こんなところにいらしたのでしょう?」
暴れ疲れた魚は、ジト目でセバスチャンをにらみつけた。
困りましたね。主が魚ではお仕えするのは更に難しい。元の坊ちゃんに戻ってくださいまし、と頭を下げるが、魚は自分ではどうにもできないらしい。
「しかたありませんね、この手だけは使いたくなかったんですが……」
コォォオオオオとどこからか冷たい風が吹く。キュっと白手袋をはめ直し、セバスチャンはツカツカと水桶に近づく。水に浸かっているシエルを抱きかかえ、ぐらぐら煮立っている大鍋の 前に立った。
「坊ちゃん、いえ、お魚さん、失礼いたします」
そうことわると、
「いち、にの、さんっ!!!」
シエル・ファントムハイヴ(魚)の身体をたぎるお湯の中へ放り込んだ。
「!!!!!!!!」
見ていた魚(シエル)は驚愕のあまり、失神する。

*******
「坊ちゃん」
執事の声が響く。薄目を開けると、厭味な笑顔が待っていた。
「貴様、ぼ、僕を、僕のからだを熱湯の中に叩き込んだなッ!」
おや、声が出る。見下ろすと、手がある、足がある。きょろきょろと自分の身体を確認する。
「いいえ? 熱湯の中などに入れていませんよ」
すました声で執事が答える。
「嘘をつくな!確かに、この眼で……!」
「はい、入れようと投げはしました。ですが」
湯気を上げる大鍋の中に落下する直前で抱き上げました、と続ける。
「……!」
「ご無事だったでしょう?」
確かにそうだが、シエルの腹の中はおさまらない。文句を付けてやろうと口を開いたそのとき、
「坊ちゃんこそ、なぜ厨房などにいらしたのです?」
「それは……。メイリンが騒いでいて、ちょっと気になって……」
「おなかが空いていたからではないのですか?」
「違うっ!それで木箱の中をのぞいたら、魚と目が合って、気がついたら……」
「魚になっていた、というわけですか。本当にあきれてしまいますね、貴方には。なんとかして生きようともがいていた魚の恐ろしい執念(誰かさんにそっくりですね)が、坊ちゃんを捉え、魂を交換してしまったのでしょう。私が起した危機的状況に、慌てて元の魚のからだに戻ったようですが」
「そんな執念深い魚は喰えん!捨ててしまえ!」
「なにをおっしゃいます!坊ちゃん。この魚は、ドーヴァーソールと申しまして、フランスと英国の境のドーヴァー海峡にしか生息しない、とってもおいしい舌ビラメでございます。この時期は大変に油がのりまして、全身『エンガワ』のように、美味なのです」
「『エンガワ』ってなんだ??」
「タナカさんの故郷で食されているヒラメの身の一部分のことです。ぷりっとした食感、こってりと、しかし淡白な味わいがたまらないのだそうです」
悪魔がペロッと舌なめずりしたのをシエルは見逃さなかった。こいつ、魚のことを言っているのか、それとも僕の……?ぶんぶんとシエルは首を振り、縁起でもない考えを振り払う。
「わかった。では命令だ。最高のドーヴァーソールを喰わせろ!」
「yes,my soul(sole)」
「〜〜〜〜ッ!」
なんだと、イエス、マイソールだ???
また僕へのあてつけか。ソウル(魂)とソール(ヒラメ)って……!!
じたんだを踏むシエルに、悪魔の一言が追い打ちをかける。
「坊ちゃん、ソールには『靴底』という意味もありますよ?」
「……」
だから、何なんだあああ!!と頭を抱えて厨房から走り去るシエル。
悪魔は愉快そうにそれを眺めて、さて、やりますかっ!と、パンと両手を叩く。
その夜の晩餐は、それはそれは盛り上がったとか……。

クスッ。

FIN