おやすみ、セバスチャン #2

2

 セバスチャンは、屋敷の前でからだのバランスを崩し、よろけたシエルを抱きかかえると、居間のソファに横たわらせた。
 てきぱきと衣服を脱がせ、着心地のいい部屋着に着替えさせる。
 ホットミルクを用意してテーブルに置くと、
「では、坊ちゃん。ディナーの準備をしますので、ゆっくりなさっていてください」
 タブレットを操作し、シエルの好きなミステリの新刊を探し出して渡し、一礼して厨房へ向かった。
「──あいつも変わったもんだ」
 シエルは、背筋を伸ばし、きびきびと厨房へ歩いていくAIの後ろ姿を見て、ひとりごちた。


***
 セバスチャンがどれほど優秀なAIといっても、はじめから現在のように完璧だったわけではなかった。
 シエル・ファントムハイヴが造り出したAIは、人類を凌駕する電子頭脳を備えてはいたが、社会生活するための経験値は低い。
 ファントム社研究棟のスタディルームで早速訓練が始まったが、周囲の人々はすぐに気づいた。
 このAIはとにかく怠けたがる。
 命令しても動かない。
 命令が理解できないのではなく、動くのが面倒なのだ。
 それは、頭でっかちな子どもそのもの。
「お前の名は『セバスチャン』だ。今日からお前は僕の犬だ」
「……」
「いいな? 僕の命令に従え」
「……」
「おい!」
 主人であるシエルに名付けられても、ちらりと横目で見るばかり。まったく返事をしない。
 このヒト型AIにシエルは不安な気持ちに襲われた。
 そしてその不安は的中したのである。


「おい、さっさと動け! 器械のくせに!」
 歩け、走れ、登れ、降りろ、しゃがめ……からだを動かす訓練をさせようとしても、椅子にでん! と座ったきり、動かない。
 シエルがしびれを切らして悪態をつけば、器械も負けじと言い返す。
「ガキに言われたくありません」
「ガキとはなんだ! 僕はお前の主人だぞ。お前を造ったのはこの僕だ!」
 顔を真っ赤にして怒鳴っても、器械は冷めた目で見下ろすだけ。
「だって動けば疲れて、腹が減ります」
「だから! お前は腹が減ったりしないんだ! 器械なんだから!」
 ふぅん、とセバスチャンはつまらなさそうな顔をした。
「ですが、書物にはそう書いてありましたよ? 腹が減って動けないとか、放っておけば飢え死にとか……。私は死ぬのはごめんですから」
「だから! お前は死なないんだ!!」
 ふぅん、とセバスチャンは艶やかな黒い髪をけだるげにかきあげ、これみよがしに長い足を組みかえた(彼は自分がどれ程美しいのか自覚していたのである)。ふっとなまめかしく息をはき、妙に格好をつけた耽美な姿で呟いてみせる。
「永遠の命なんて……退屈じゃありませんか」
「だから! お前には命すらないんだってば!」
 ほとんど禅問答である。セバスチャンは現実的なことよりも、自分の存在意義や生きる意味など哲学的なことを知りたがった。
「坊ちゃん。私はなぜ存在しているのです?」
「なぜって……僕の面倒を見るためだ」
「そんなことは他のAIにだってできるでしょう?」
「ッ、お前じゃなきゃだめなんだ」
「なぜです?」
 セバスチャンがどんなにしつこく尋ねても、シエルは決してその理由を明かさなかった。
 執拗に聞くと、何日も口をきいてくれなくなり、それはそれでセバスチャンは困った。
「坊ちゃん」
「──」
「坊ちゃん、お話してください」
「──」
 いくら話しかけても、答えず、こちらに背を向けたままの主人の態度にセバスチャンはしおれた。
「坊ちゃん……」
 食事も睡眠も必要のないセバスチャンには時間があり余っていた。
 自分を造ったというこの人間の少年が相手をしてくれなければ、退屈で仕方なかったのである。
 それになぜかセバスチャンはシエルには特別な感情を持っていた──AIに感情はない、それはプログラムだとシエルは言ったが。
 シエルは少なくとも他の人間よりはずっと賢かったし、他の人間よりもずっと面白かった。
 だから少年の機嫌が悪くなるようなことは次第に言わなくなり──たまに反応を見たくてわざと絡むことはあったが──、シエルとの交流を楽しむようになっていた。



 およそひと月に及ぶ訓練が終わり、セバスチャンはスタディルームを出て、シエルの屋敷へ移された。
 いよいよシエルの執事として仕えるのである。
 ロンドンのファントム社を離れて、郊外の屋敷へ向かう車の窓からセバスチャンは半分身を乗り出して、外を眺めた。
 風になぶられる黒髪をおさえながら、天を仰ぎ見て、
「これが空、ですか」
 と目をみはる。
 どこまでも広がる青い空、眩しい太陽、爽やかな風、野鳥のさえずり……。
 外の世界のすべてがセバスチャンには新鮮だった。
「坊ちゃん、映像で見ていたときよりも……なんというか、奥行きがあります」
「当たり前だ。三次元だからな。いままでお前の見てきた世界は二次元に過ぎない」
 屋敷に到着すると、セバスチャンは地面に足を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
 初めて踏む大地。
 毛足の短いカーペットのような感覚。柔らかすぎず、固すぎず。ふかふかしていて、規則性がなく、形を予測できない。本物の土の感触はそれまで過ごしたファントム社の研究室の床とはまったく異なっていた。
 すん、と鼻を動かす。
 空気がなにやら湿っていて、その中にカビくさいような、それでいて不快ではない匂いが混じっている。
 それは森の匂いだとシエルに教えられた。
「森の匂い、ですか? そんなものは習っていませんが……」
「人工的に似たような香りは作れるが、完璧には再現できない。そんなものはお前に教えても無駄だろう。だから実際に来て、嗅いで、学ぶしかないんだ」
 さあ、歩いてみろと促され、一歩、二歩と木立の中を進んだ。
 と。
「うあぁあっ、坊ちゃんっ!」
 突然の悲鳴に何事かとシエルが駆け寄れば、セバスチャンはもぞもぞと地面を歩くアリに驚愕し、棒を呑んだように立ち竦んでいた。
「おい、アリぐらい知っているだろう?」
「ですが、坊ちゃん……怖いです……」
 黒く小さく、不気味な触覚を小刻みに振って、動いている。ふいにこちらに来るかと思えば、いきなり方向を変える。その動きは予測不可能なだけに怖い。
 大の男が自分の肩にすがり、カタカタと震えている様子にぷっとシエルは吹き出した。
「これもお前の仲間なんだぞ」
「え?」
 シエルはかがみこんで、アリをつまんだ。指の間でジタバタするアリの頭をひょいと捻る。
「坊っ……!」
 少年の残酷な仕打ちにセバスチャンが思わず叫ぶと、シエルはにやりとして、アリの胴体にみっしりと詰め込まれた精密な器械を見せた。奥で赤いライトが点滅している。
「……本物、ではないのですか?」
「そうだ、屋敷を守るための警備アリさ。これも僕が造ったんだぞ」
 少年はアリの頭をまた胴体に差し込み、地面に置いた。アリは何事もなかったかのように、触覚を揺らして歩いている。
「まさか器械のお前が、器械のアリに怯えるとは思わなかった。おもしろいやつだな」
 ははは、と少年に鼻先で笑われ、セバスチャンはバツの悪い顔をした。

 それから──。
 紅茶の入れ方を学んだ。
 料理を学んだ。
 味覚というものを持たないAIに、調理は最も難しいものだったが、セバスチャンは自分にできないことがあるのは許せなかった。
 目指すは、完璧な執事。
 そうでなければ、天才と呼ばれる主人にふさわしい従者ではない……。
 それが彼の美学になり、信念となった──といっても、できないことはできない。
「塩辛い」だの「紅茶色のお湯」だの「皿が汚い」など散々ダメ出しをされ、ムカムカしながら夜を徹して訓練したのである。
 ようやく執事らしい仕事ができるようになるまで、スタディルームを出てからさらに一ヶ月かかったが、その間、ずっとシエルに無能呼ばわりされ、我慢できずにセバスチャンはたびたびシエルを罵倒した。もちろんシエルも負けていない。
「クソガキ!」
「クソ器械!」
「人でなし!」
「根性なし!」
 そうやって互いに罵倒し罵倒され、セバスチャンとシエルは少しずつお互いの距離を縮めていったのである。


***
「はは」
 突然の笑い声に、スープをサーブしていたセバスチャンの動きがピタリと止まった。
「坊ちゃん?」
「ん?」
「なにがおかしいのです?」
「ふ、お前がここにきた頃を思い出していたのさ」
「思い出し笑いなんて品の悪い……。坊ちゃん、あの頃の私はもうお忘れください」
「忘れるものか。お前のあんなにみっともない姿、いまじゃ楽しめないのが残念だ」
 セバスチャンは苦虫を潰したような顔をした。
「私もそのうち、坊ちゃんの失態を頭に浮かべて『思い出し笑い』するようになりますよ」
「そんなもの、僕はプログラムしてない」
「プログラムされなくても日々私の人工細胞は増殖しております。次々と新しいことを覚えているのですよ。いまに人間とまったく変わらない感情を表現できるようになります」
 ふふんと若干自慢げにセバスチャンが言えば、シエルは嘲笑った。
「ばかめ。そうやってなんでも知ったような気でいろ。お前にわからないことだって、まだまだたくさんあるんだからな」
「もうそれほど多くはありません」
「はっ、うぬぼれるのもたいがいにしろよ」
 シエルがたしなめても、セバスチャンは動じない。愉しげな笑みを浮かべて、綺麗に磨き上げられたマホガニーのテーブルにメインディッシュを並べた。
 今夜のディナーは特別に手をかけた。
 主人の好きなペシャメルソース仕立ての白身の魚に、グレービーソースたっぷりのローストビーフ。庭で採れたラディッシュのミモザサラダ、レモンポタージュのスープ。デザートは、主人の大好きなチョコレートをたっぷりコーティングしたオペラと、さくらんぼ酒を使ったシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。
 豪華なディナーを堪能したあと、シエルは祁門紅茶を口に運び、満足そうに椅子の背にからだをもたせかけた。
「ああ、うまかった」
 セバスチャンは心の中で快哉を叫んだ。
──よかった。喜んでもらえたのだ。
 うまかった、なんてこれまでにない褒め言葉だ。
 普段は「悪くない」が最大の賛辞なのに。
「それはようございました。坊ちゃんのために腕によりをかけて作りました。今日、念願の契約が無事まとまったお祝いですよ」
 笑いかけると、シエルの表情がふと陰り、今度はセバスチャンもシエルの変化に気づいた。
「坊ちゃん?」
「……」
「…なにか、お気に障りましたか?」
 シエルは小さく口を動かす。
「お前、あの女が……」
「え?」
「気に入っ……」
 途中で言葉が止まった。
「坊ちゃん?」
「いや、いい。もう休む」
 シエルは唇を噛みしめ、不機嫌を隠そうともせずに立ち上がった。
 むっつりとして足早に食堂を出る主人を追い、入浴の準備をしようと急いで浴室に回ろうとした。
 しかし「今夜はいい。このまま寝る」と不愛想な顔をされ、とりつくしまもない。
 ──なぜ、急に?
 セバスチャンは困惑した。
 理由を問いたくても、こわばった小さな背中がセバスチャンの質問を拒否している。
 諦めて、シエルの後に従った。


***
 厨房の窓から夜の空気が忍び込んでくる。
 カトラリーを磨いていた手をとめ、顔を上げた。
 細い三日月が漆黒の空に浮いている。
「綺麗ですねぇ」
 セバスチャンは夜が好きだった。
 昼の白く明るい平坦な世界よりも、生き物たちが息をひそめて活動する闇の世界のほうが肌に合う。
 夜の森の静寂に耳を澄ませながら、再びナイフを磨き始めた。薄青い月光が銀のナイフに鈍く反射する。
「それにしても……我が主人はいったい、どうしたというのでしょう」
 先ほどのシエルの様子を思い返して、セバスチャンはひとりごちた。
「人間というものは本当にわからない。言いたいことがあるのなら、口にすればいいのに。黙っていては伝わらない……」
 人間とは社会的な生き物だ、コミュニケーションが不可欠だとスタディルームで教えられたが、今はそれを素直に受け取れなかった。
 やれやれと小さくため息をつく。
「おや」
 シエルの造った人工フクロウが、巣穴から飛び立ったようだ。なにかを察知したらしい。
「どうやらお客様がお越しになったようですね」
 磨き上げた銀のカトラリーを数本、内ポケットにしまうと、フッと冷たく微笑んだ。白手袋をきゅっとはめ直し、庭に向かって大きく窓を開ける。
 と、そのとき。
「セバスチャン……」
 シエルの声が脳内に響いた。
 セバスチャンの部屋とシエルの寝室とは距離があり、普通の人間であれば声など聴こえるわけがない。しかしセバスチャンは、シエルの命令にいついかなるときも応じられるよう、電子的にリンクされているのだ。
 シエルに呼ばれて、セバスチャンは首をかしげた。
──眠ったとばかり思っていたのに、まだ起きていたのか。
 燕尾服のテールをひるがえして、飛ぶように屋敷の廊下を走り、「なんでしょう」と寝室の扉を開ければ、
「……」
 返ってきたのは沈黙だった。
「坊ちゃん、お呼びでは……?」
 ベッドに近づき、上掛けから出ている華奢な肩にそっと触れる。
 途端、「触るなっ」とバシッと振り払われた。
「ッ」
 セバスチャンはむっとした。自分から呼んでおいて、その仕打ちはあんまりだ。
「なんです、その態度は。怒っているのなら、はっきりと理由をおっしゃってください」
 強い口調でなじると、シエルは驚いたように見上げた。
「いいですか。私は貴方のためにいるんですよ。貴方に喜びを感じていただくために、存在しているのです。黙っていられるのは辛いのです。マイロード、どうかお話しください」
「……お前が」 
「私が?」
「あの女と」
「あの女?」
 セバスチャンの鈍い反応に焦れたのか、シエルは勢いよく布団をはいで、叫んだ。
「昼間の、あの女だ!」
「嗚呼!」
 ポン!とセバスチャンは手を打った。今日の契約を結んだ政府高官のことを言っているのだ。
「彼女がなにか……?」
 契約はすでに済んでいる。
 なにか他に気になることがあるのだろうか。
「お前…、あの女と、したんだろう?」
「は?」
「だから! 寝たんだろう?」
「え」
「くそっ、考えるとむかむかする」
 シエルは吐き捨てるように呟いた。
「ですが、坊ちゃん。坊ちゃんがお命じになったから……彼女を誘惑し、メロメロにさせて契約に持ち込めと、私にそうご命令なさったではないですか」
「っ、うるさい。あとからだんだん腹が立ってきたんだ」
「そんなことをいわれましても」
「お前は、僕のものだろう! 僕が命令したからって、寝るなんて最低だ」
 矛盾に満ちた言葉にセバスチャンは絶句した。
 命令されたから、従ったのだ。
 三ヶ月かけて入念な仕込みをして、やっと契約に漕ぎ着けたというのに。
「ねえ、坊ちゃん。ご自分がなにをおっしゃっているかおわかりですか?」
「わかっているに決まっているだろう!」
「ですが、私にはわかりません、坊ちゃんの気持ちが」
「……っ」
 シエルは口を結び、セバスチャンを睨みつけた。
「……」
「……」
 沈黙がひたひたと、ふたりの間に居心地悪く広がっていく。
 チクタク、チクタク、とベッドサイドに置かれた銀の置き時計が時を刻んでいる。
「もう一度聞く。あの女と寝たのか」
 静寂を破り、シエルが口を開いた。
 セバスチャンは首を振る。
「いいえ」
「えっ? だって、お前は命令通りにしたと……」
「ええ、ご命令通り、彼女と『性的』に接しました。ですが、挿入は一切しておりません」
「そうにゅぅ…って。身も蓋もない言い方だな」
「器械ですから」
「だが、彼女はお前に抱かれたと思っていたぞ」
 セバスチャンは嗚呼、と心の中で呟いた。
 シエルの不機嫌な理由が、やっとわかったからだ。
「実際に挿入しなくても、そう思わせることは可能です。指とか腕とか、まあいろいろ、使える場所はありますから」
「具体的にいわなくていいっ!」
「坊ちゃんがお聞きになるから」
「お前はデリカシーがない!」
 頰を真っ赤にして、バッと上掛けをかぶった。
 こんもりと丸くなった布団の中から小さな声がする。
「僕は……その…てっきりお前が、したと思ったから」
「気になるのですか?」
「──別に。ただ、お前が、少し楽しそうだったから。あの女を、気に入ったのかと」
「マイロード」
「それだけだ」
「もしかして……」
 妬いていたのですか、という言葉は喉の奥にのみこんだ。
 女のもとへ行けと命令したのは当の主人だというのに、そのことに妬いている。
 まったく、人間とはつくづく不可解だ。
「坊ちゃん……」
 セバスチャンは顎に手を添えて、ふむと考えた。
 やきもち焼きの我が主の機嫌を直すのには、いったいどうすればよいだろう。
 人間ならこんなときは……?
 幾つものパターンが脳内をよぎったが、そのどれもセバスチャンは選択せず──自分の『直感』に従い、静かにベッドの端に腰掛けた。
 ぎしりとスプリングが鈍く軋む。
 しばらく待っていると、布団の山からもそもそとシエルが顔を出した。
 腕を伸ばして額にかかった銀の髪を払い、子猫を撫でるように、優しくさらさらとした銀の髪を梳く。
「──お前の指は、気持ちいい」
 セバスチャンは目を細め、ささやくように語りかけた。
「坊ちゃんがお造りになった指ですよ」
「……うん」
「私のなにもかも貴方がお造りになった」
「……うん」
「私は貴方だけのもの。嫉妬など無用です」
「……わかってる」
 セバスチャンはからだを傾けて、シエルと目を合わせた。
 夜のように深く蒼い瞳と、夜明けの空のような紫色の瞳。
 この世界でもっとも私を惹きつける瞳。
「マイロード。私が貴方以外の人間を愛することなど、絶対にありません。信じてくださいますか」
「……うん」
 小さな手が伸びて、きゅっとタイを引っ張られた。
 引かれるままに、主人に覆いかぶさり、髪に、額に、頰に……唇に、そっとキスを落とした。

to be continued…