輝く月の夜に

シリーズ目次

第一話

出会い

セバスチャン・ミカエリスのマンションにその少年がやってきたのは一ヶ月前のことだった。両親が旅行中の飛行機事故で突然亡くなり、残された子どもは親戚をたらい回しにされたあげく、「うちでは引き取れないから」と親友のセバスチャンのもとに送られてきたのだ。親友、と言っても大人になってからはほとんど会ったことがない。時折の電話やメールで連絡を取り合っていた程度だった。もちろん、ひとり息子がいることは知っていたが、結婚もせず、子どももいないセバスチャンにとっては興味のないことだった。

 そんな彼がその子ども、シエル・ファントムハイヴを引き取ろうと決めたきっかけは初対面の時だった。
「はじめまして。貴方のお父さんの友人のセバスチャン・ミカエリスです」
「……はじめまして」
 失礼にならない程度に目をそらし、聞き取れないほどの小さな声で返事をする少年のその瞳。蒼と紫のオッドアイ。それに気づいたとき、ざわざわと何かがセバスチャンの胸の内をこすっていった。少年の無愛想な態度は気にならなかった。セバスチャンは犬よりも猫といった具合に、こちらがかまってほしくないときにまとわりついてくる動物は苦手だったからだ。この少年はそうではない、と直感したセバスチャンは、自分のマンションに彼を引き取ることを決めたのだった。
 セバスチャンのマンションは、首都にあるものの、緑の多い静かな高級住宅街に位置し、その6階から眺める景色は、しっとりと心を癒すものだった。暮れかかった頃、広いバルコニーに出て、街の光と次第に黒くなっていく樹木のシルエットを眺めるのは彼の楽しみだった。ことに遠くの空に三日月がかかっている日は。

 少年を引き取って一ヶ月経った。相変わらず、口数の少ない子どもだったが、それだけ手間はかからない。こちらが用意したものを食べ、飲み、新しい学校へ行く。帰ってきて、夕食のときに少し会話をすると、少年は自室として与えた部屋にひきあげて、もう朝まで出て来ない。いるのかいないのか、気配がわかりにくく、もう少し何かを期待していたセバスチャンにとっては物足りないぐらいだった。
 セバスチャンは、朝、少年を送り出すと、仕事部屋と称している一室でデザインの仕事をした。文芸書から建築誌、ファッション誌、ポスター、果てはwebメディアのデザインまでその対象は多岐に渡っている。彼の生み出すデザインは独特で……、そう、特色のある赤と黒を多様したデザインは若い男女を中心に人々の心を惹きつけ、仕事の依頼はひきもきらない。断るだけでひと仕事になるほどオファーがあった。
 その日も朝から、新規に創刊されるファッション誌のアートディレクションに頭を悩ませていた。テーマとなるカラーが決まらない。コトっと小さな音がした。時計を見ると、午後1時過ぎ。あの子が帰ってくるには早過ぎる。ゆっくりと席を立ち、玄関に向かった。

「シエル、ですか?」
 声をかけると、小さな声で「……はい」と返ってきた。
 玄関から洗面所に入った気配がする。
「こんなに早く、どうしたのです?具合でも悪いのですか」
 朝はいつもの感じだったのに……と洗面所に向かった。ごぼごぼと何かを吐き出す音がする。
「?!」
 見れば、シエルは洗面所の水を流しっぱなしにし、口の中をゆすいでいる。そこから出て来るのは、水に薄まった赤い……血?
「どうしたのです? だいじょうぶですか」
「だいじょうぶ!かまわないでっ!!」
 強い口調で拒絶され、セバスチャンは思わず動きを止めた。見ているしかない。
 シエルは口をゆすぐと、顔を乱暴に洗い、タオルでぬぐった。口の端が切れている。頬にも殴られたような跡がある。
「シエル……」
 差し伸べた手を振り払うように避けると、少年は足早に自室に入っていった。

──一体なにが……。いえ、察しはつきます、あの容姿だから。

 学校、という同年齢、同種の人間が集まる世界では、少しでも周囲と異質だと目につく。それが魅力的に映る場合と、疎ましく映る場合がある。たぶん、彼は後者だ。彼の容姿と、どこか人を拒否する空気が回りの子どもを刺激していたのだろう。何かが引き金となって、暴力行動に出ることは簡単に予想できる。
(私としたことが……。あまりに静かな子なので、つい油断してしまった)
 だが、あえてシエルの部屋を訪れることはせず、夕食の時刻まで仕事に集中することにした。

***
 セバスチャン・ミカエリスの特技は多いが、なかでも料理の腕前は天下一品である。強制的に参加させられた仕事仲間の持ち寄りパーティで出した英国風チキンのパイはことのほか評判がよかったし、もののついでと作っていったスイーツは女性に大人気で、その後のリクエストを断るのが大変だった。
 今日は、さっぱりしたフレンチにしよう。
 ヌーベルキュイジーヌは彼の得意とするところである。新鮮な食材、新鮮なオリーブオイル、厳選したバター、海塩を使って仕上げた料理は、短い時間で作ったとは思えないほど、本格的なものだった。少年は口の中が痛いのか、常よりもましてフォークを口に運ぶ速度が遅い。それでもデザートのショコラのムースまで食事は進み、ハチミツを入れたミルクティを飲む頃、セバスチャンはシエルに言った。
「学校に行きたいですか?」
「……!」
「ねえ、シエル。正直に教えてください。私と貴方は会ってからまだ日が浅い。貴方の気持ちは話してもらわないと私にはわからないのです」
「……すみません」
「あやまって欲しいわけではないのですよ。……たぶん、私に言いたくないことが今日起こってしまったのでしょう?話したくないなら話さなくていいんです。でも、明日はどうします?行きますか?」
「……僕はまだ13歳だし、学ぶことは必要だ。学校に行かなかったら、どうする? 僕はなにも知らないまま大人になってしまう」
 行きたくない、と言われると思っていたセバスチャンは軽い衝撃を受けた。この子どもは、虐められても、なお学ぶ意欲を失っていない。

「今日だけじゃないんだ」
「……え?」
「……殴られたのは今日だけのことじゃないんだ。転校してから、ずっと」
「一ヶ月? 毎日? それを黙って堪えていたのですか」
「こんなにひどくやられたのは初めてだけど。さすがにこの顔で午後の授業は受けたくなくて。それで帰ってきてしまったんだ」
「シエル……」
「でも、大丈夫。明日はこれほどはやられないよ。もっとうまく逃げてみせる」
 気づいてやれなかった。セバスチャンは自分を責めた。注意深く見ていたらきっとわかったはずなのに。見ず知らずの人間のところに預けられ、ひとりも友人のいない学校に転入させられてどんなにか心細かっただろう。それをひとりで黙って我慢して。強い子、いや強くあろうとしている子だ。一抹の不安を抱えながらも、シエルの意志を尊重し、黙ってうなずいた。

 翌日は金曜日で、週末の締め切りが迫っていた。担当編集者たちは大概が会社員で、土日が完全に休みになる。彼らは自分たちの休日を心おきなく満喫するために、外注業者に金曜日中に入稿するよう急がせるのだ。
「まったく、自分たちの都合でものを考えて。やりきれませんね」
 これも仕事のうちと、セバスチャンは取りかかっていた作業の仕上げに没頭していた。ふと気がつくと、辺りが薄暗くなっている。いつの間にかこんな時間まで仕事をし続けていたらしい。
(あの子の帰りが遅い……)
 持たせていた携帯にかけても、電源が切られたままなのか、自動音声の留守番サービスセンターにつながるだけ。思い切って学校に連絡を入れるものの、「すべての生徒は下校している」との返答で、用を為さない。すでに時刻は8時近くになっている。
 一体どこにいるのだろう。これ以上遅くなるようだと警察に連絡した方がよいかもしれない。不安な気持ちを抑えてキッチンに立ち、帰ってきたときに何か温まるものをと、有り合わせの材料で調理をし始めたとき、玄関に大きなものがぶつかるような音がした。ドアを開けると、崩れ落ちるようにシエルが倒れ込んだ。慌てて抱きかかえて部屋の中に運び入れる。

 リビングの明るい照明の下で見たシエルの様子は酷い有様だった。
(これは……! リンチ……ですね)
 顔を集中的に狙って殴られたらしく、打撲の跡がひどい。腫れ上がったまぶたで右目が完全にふさがっている。口元も深く傷ついて血がまだ流れている。その血をぬぐおうとして、首筋に赤い跡がいくつかあることに気がついた。
(なんでしょう……?)
 よく見るとシャツが破れて、肌が露出しているのをジャケットで隠すようにしている。ズボンのベルトが抜かれており、生地がところどころ大きく裂けていた。セバスチャンは気を失っているシエルに気づかれないよう、素早く全身を確認した。両手首に縛られたような痣がついている。足首にも同じように……。
「……ゥ……」
「気がつきましたか?」
「……は……い」
「これからすぐ病院に行きましょう。車を出します」
「待って! 嫌です……!」
「でも、治療が必要ですし、警察にも連絡しなければ」
「嫌だ。……お願いです。行きたくない」
セバスチャンと目を合わせて訴えるシエルに、なんと答えてよいのか迷った。
「僕は、大丈夫、だから……」
「……わかりました。ではちょっと待っていて下さい」
 病院も警察も嫌だというのなら仕方がない。だが、この怪我の様子は異常だ。記録を取っておかなければ。いざというときにこの子を守れない。
(ふ、私は一体どうしたんでしょう。こんなおせっかいを焼くようなことはなかったのに……)
 仕事部屋に置いてある一眼レフのカメラを掴み、リビングに戻って、とりあえず怪我の様子を写真に収めた。ファインダー越しに見るシエルの肢体は、生身よりも幾分か艶かしい。セバスチャンはシャッターを押す度に興奮していく自分に気づき、己を叱った。

 腫れ上がっている顔を脱脂綿できれいにし、消毒薬をつけていく。
「……ッ!」
「痛いですか?」
「……いえ、少し、沁みただけです」
「我慢強いのですね、貴方は」
「……」
 さあ、ではシャツを脱いでと言った途端、シエルの顔が強ばり、大きく首を横に振った。
「……いいですっ!」
「よくありませんよ。ちゃんと治療しないと、治るものも治りません」
「いえ、本当に……いいんです!自分でやりますからっ」
 勢いよく立ち上がったものの派手によろめき、セバスチャンがつかんでいたシャツが引っ張られて、かろうじて形を保っていたシエルのシャツは身から離れてしまった。
「……!」
 セバスチャンは目にしたものが信じられなかった。あちらこちらに赤い跡が付いている。キスの跡……?
「……くっ……見ないで!見ないでください」
 シエルは腕でからだを覆って、その場から立ち去ろうとしたが、力の入らない足がもつれ、床に転んでしまう。うつぶせのその背中には、文様のような形の古いやけど跡が浮かんでいる。セバスチャンは動揺を悟られないように、そっとシエルに近づき、穏やかな声で言った。
「シエル。怪我の治療はしなくてはなりません。貴方の嫌がるようなことはしませんから、安心して、私にまかせてもらえませんか?」
「……」
「ねえ、シエル。自分で手当は無理です。わかってもらえませんか?」
 少年は、黙ってうなずくと、おとなしくセバスチャンに従った。

***
「……帰ろうとしたところを待ち伏せされていて」
 傷の手当を受けながら、ぽつり、ぽつりとシエルは話し始めた。
「僕に目をつけて嫌がらせをしてくるのは、3人いて、昨日は殴られるだけで済んだけれど、今日、奴らはロープを用意していて。はなから僕を痛めつけようと準備を整えてたんだと思う」
 人気のない路地の奥に連れ込まれて、顔を殴られて一度気を失って、気づいたら、手足の自由がきかなくなっていて……。
「……それで、や、奴らは、僕に……っ」
「話さなくてよいのですよ」
 ぶるぶると肩を震わせて嗚咽をこらえている少年にセバスチャンは優しく声をかけ、とりあえず何か肌を覆うものをと、手近にあった自分のシャツを着せた。
「大体終わりましたから」
「でかい……」
 着せられたシャツを見て、フッとシエルは笑った。
 初めて笑った……? セバスチャンはその笑顔に吸い込まれるようにして、シエルを見つめた。
「あ……、すみません、ミカエリスさん。笑ったりして」
 咎められたと思ったのだろう。表情を消して謝る。
「セバスチャン、と呼んでいただけないですか?」
「でも……」
「その名のほうが、落ち着くのです」
「……セバスチャン」
 口の中で小さくつぶやき、くすくすと笑った。
「どうしたのですか」
「以前、セバスチャンという犬を飼っていたことがあって。つい思い出してしまって」
「…………」
「ああっ、いえっ、違います!貴方のことを犬だと思ったわけじゃなくて。ただ、あの、僕……」
 真っ赤になって否定するその様子が、子どもらしくて、愛らしいなとセバスチャンは思った。この容姿、この性格。異性だけではなく、同性をも惹き付けるわけだ。暴力をふるった子どもたちはこの気位の高い少年を押さえ付け、思いのままに従わせたいと思ったのだろう。……性的な意味でも。

 気が緩んだのか、シエルはいつの間にか眠ってしまっていた。与えた鎮痛剤が効いてきたのかもしれない。
(今夜はひとりで寝かせるのは不安ですね……)
 薬が切れればひどく痛み出すかもしれない。そばにいてやりたい。シエルを起さないようにそっと抱き上げ、自分のベッドへ運んだ。

to be continued…