子犬の首輪

*発行から7年経ちましたため、全文公開することにしました

初出:2014年5月pixiv連載
初版:2015年3月春コミ
13歳の少年セバスチャンが、10歳のシエルに出会ったら…というif物語。全年齢ですけれど、そこはかとなくエロスな空気が漂っています。切ないお話ですが、バッドエンドではありません。これもひとつのセバシエの愛の形では…と自分では思っています。




I



「今度家に来る子なの。仲良くしてあげてね」
とママンがいうので、僕はその子が来るのを楽しみにしていた。ママンが渡してくれた写真を見ると、綺麗な銀灰色の髪にサファイアブルーの瞳、女の子のように華奢な子みたい。
「貴方よりも三つ下よ。英国人だからフランス語はしゃべれないのよ。貴方はリセで英語を習っているでしょう? ママンよりも上手なのだから、練習がてらしっかりお話をしてね」

 ママンの昔の友人の子供で、家の事情で一時的に僕の家に滞在するのだそうだ。ママンに英国にいたことがあるの? と訊ねると、いいえ、一度もないわ、友達がパリに来たときに知り合ったのよと微笑んだ。
「その子の名前はなんというの?」
「あら、今日は珍しく質問だらけね」
「だって、初めてだよ? 家に子供が来るなんて。知りたいよ」、と僕は答えた。
 ママンはちょっと言い淀んでいただけれど、
「その子の名前はシエルと言うの。シエル・ファントムハイヴ」「え? シエル? シエルって、フランス語でしょう? 英国人なのに、ヘンなの」
 僕がいう。
 ママンはちょっと困ったように微笑んで、
「そうね、でも、そういう名前なのよ」
「『空』って言う名前の子か。随分ロマンチックな名前だね」
 ママンは、僕の鼻をはじいて、おませさんねとくすくす笑って、キッチンに立った。
 それを見て、僕はママンが会話を続けたくないんだなとわかったんだ。だって、ママンはいつでも答えたくない話題のときはキッチンに行ってしまうから。

 陽の当たらない僕の家でも、一日にわずかの間、日光が射す時がある。ちょうどいま、窓から一筋の綺麗な光が入って来て、僕は急いで鉢植えを日の当たるところに移した。窓枠に手をついて、外を眺める。遠くにシテ島のノートルダム寺院の塔が霞んでいる。窓の外には下町のごちゃごちゃした屋根が連なり、真下に遠く、小さな狭い石段が見える。古いアパルトマンの入り口。僕とママンの住処。ところどころ角の石が崩れている危なっかしい狭い階段を六階まで上がって、たどり着く。傷だらけの玄関の扉を開ければ、小さな居間とキッチンとママンの寝室と僕の寝室しかない狭い家。その子はどこに寝るんだろう。居間かな。

キッチンから、甘い匂いがして、ママンがお菓子を焼いているのがわかった。今日はなにを作っているの? 僕が聞くと、ガトーショコラよと返事が返ってきた。シエルくんが好きなのですって。貴方も好きでしょう? おやつにどうかと思って。夕食はキッシュよ。ママンがいない間、ふたりで仲良く食べてね。

ママンは夕方になると仕事に出掛ける。仕事はオペラ座の雑用係。ソワレが始まる前に劇場に入って、楽屋の用意や手すり磨きやお使いや、その他諸々の仕事をして、舞台がはねると掃除をして帰って来る。いつも家に戻るのは真夜中過ぎで、僕はその頃は大抵眠っている。ときどき出演者が差し入れの残りをママンにくれることがあって、普段なら絶対口にできない高級なパティスリーのマカロンやボンボン・オ・ショコラをおみやげに持ってきてくれるんだ。

 午後遅く、馬車が着く気配があって、にわかに階下が騒がしくなった。窓に走って下を覗くと、それらしい子どもの頭が見える。ママンはエプロンをはずして、鏡で顔を確認したり、爪を見たり、そわそわと玄関を気にしている。トントンとノックの音。ママンははじかれたように席を立って、玄関の鍵をはずす。扉の向こうに立っていたのは、小さな男の子だった。その後ろには誰もいない。ママンは少しがっかりしたように見えた。

「ボンジュール、マダム」
 その子は少し変な発音のフランス語でママンに挨拶した。
「貴方、ひとりで来たの? パパか、ママか、誰か付き添いはいないの?」
 早口のママンの言葉はわからなかったらしい。その子はきゅっと唇を結んで、ママンをじっと見つめている。
「あの、君は一人で来たの?」
 僕だって、リセ以外で英語を話すことなんてない。本物の英国人に僕の英語が通じるのか不安だったけれど、思い切って話しかけてみた。僕の言葉を聞くと、その子の顔はパッと明るくなった。
「ひとりだ」
 それからちょっと言いにくそうに付け加えた。
「荷物が下にある。馭者に言ったんだが、通じなかったようで…」
 馭者の奴、きっとわからない振りをして逃げたんだろう。嫌な奴!
 僕はママンに説明して、ふたりで階下まで降りた。
 降りながらその子を観察する。随分身なりのいい格好だ。仕立てのいいジャケット、半ズボン、うわ、靴下留めなんかしているんだ。手間がかかる服装だな。髪の毛も綺麗に梳かしてあって、絹糸みたいにつやつやだ。髪の間から形のいい、小さな耳がのぞいている。
 荷物は皮のトランクがふたつだけ。拍子抜けするぐらい少量だった。これなら自分で持ってあがれそうなのに……。と持ち上げたら、見た目と逆にすごく重くて一体なにが入っているのかと訝しんだ。ちらりと横目でその子を見ると、すまなそうな顔をして「本」と一言だけ言った。……よっぽど本が好きなんだ。

 ふたりでどうにかトランクを運び上げて、ひと息ついた。ママンが、できたてのケーキとホットチョコレートをいれて持ってきてくれる。ホットチョコレートにガトーショコラなんて、トゥーマッチだよねとその子に言うと、「甘いものは好きだからだいじょうぶ」とにっこりした。その笑顔がとても可愛くて、ちょっとどぎまぎした。
 ママンは僕達の様子に「お話はできるみたいね。よかったこと。じゃあ、セバスチャン、ママンは仕事に行かなくちゃならないから、あとはよろしくね。夕食はキッシュを温め直してね。火には気をつけるのよ」と慌ただしく、パフで鼻の頭のおしろいをはたき直し、身支度を確認して玄関を出た。外からガチャッと鍵をかけられた。
 シエルは驚いたように僕を見た。
「鍵をかけて行くのか?」
「そうだよ」
「なぜ?」
「小さい頃、夜、ママンがいないのが寂しくて、部屋を出て隣の人の部屋へ遊びに行っていたんだ。でもそれは本当は迷惑だったみたいで、ママンが苦情を言われてしまったの。それで僕が出られないように、外から鍵をかけておくんだ」
「何かあったらどうするんだ?」
「何かって?」
「急に具合が悪くなったり、火が出たり……」
「そのときは管理人さんが開けてくれるよ。ママンがそうお願いしているから」
 その子は釈然としない顔をしていたけれど、仕方がないことなんだ。ママンは夜しか働き口はないし、僕は夜寂しくて、誰かを求めてしまう。いまは昔よりも大きくなったから我慢できるけれど、やっぱりママンは鍵をかけてしまうんだ。

 シエルは部屋を物珍しそうに眺めている。こんな良い服を来ているくらいだから、相当なお金持ちの子なんだろうな。うちなんて、ひどく貧しくみえるだろう。僕は少し恥ずかしくなった。あらためて見回すと、カーテンには継がたっているし、テーブルクロスも何年も使い続けて、洗い過ぎて、元の色がわからなくなっている。調理台の上には使い古して黒ずんだ鍋。どれもこれも、ママンと僕ができるだけ綺麗にしているけれど、よそから来た子の目には汚らしく映るかもしれない……。
「居心地のいい部屋だ」
「え?」
「あたたかくて気持ちいい」
 シエルは本当に気持ち良さそうに言って、小さなあくびをした。ソファにするっと寝そべって、あっという間に眠りに落ちてしまった。猫みたいだ。部屋から毛布を取って来て、上に掛けてあげたら、ぎゅうと毛布の端を握って、くるっと寝返りを打った。耳のピアスがきらっと光る。いつまでいるのか知らないけれど、仲良くできたらいい。

***
「ノン、ダメったら!」
 夜中に、ママンの声で目が覚めた。玄関の外。また男と一緒だ。ノン、今夜はダメよ、いえしばらくダメよ、知人の子供を預かっているのよ、息子だけじゃないのよ。男はぐずぐずと立ち去らなくて、僕はたまらない気持ちになった。ママンは相当な美女だから言い寄る男がいても不思議じゃない。たまには部屋で連れ込んだ男と愛し合うことだってある。それぐらいのことは僕だってもうわかる。本当はとても嫌だったけれど、ママンが良い女だから仕方ないさといつも自分に言い聞かせていた。でもさすがに今夜は男を家に入れないんだ。よかった。少し酔って帰って来たママンは、からだをあちこちにぶつけながら、自分の寝室に入って、ばたっとベッドに倒れ込んだ。いつも通り、服は着たまま、化粧も落とさずに寝入ってしまったんだろう。シエルがどこで眠っているかなんて、ママンは全然気にかけていない。仕方がない。仕事のあとで疲れているんだから。

 シエルが昼寝から覚めたあと、僕達はキッシュで簡単な夕食を済ませて、それから眠る場所を相談した。シエルは居間で寝ると言ったけれど、お客さんにそんなところを使わせることなんてできない。僕は言い張って、自分のベッドを彼に譲った。僕のベッドは自慢じゃないけれど、もらった古いクッションを薄い布団の下に敷き詰めて、一応ふかふかに作ってあって、いつもシーツとカバーは自分で洗うし、気分のよいベッドなんだ。そのベッドの良さをシエルがわかってくれるかどうかわからなかったけれどね。

 ママンが静かになった。
「やれやれ」
 居間のソファはやっぱり寝にくい。もう寝るのをあきらめようかなと起き上がったとき、黒い小さな人影が見えた。
「シエル?」
 とことことことシエルが寄って来る。どうしたんだろう。ママンの物音で起きちゃったのか。
 僕の近くまで来ると、シエルはぶっきらぼうに言った。
「お前、ソファじゃ寝にくいと思う」
「……そんなことはないよ」
「僕が居間で寝るのは嫌なんだな?」
「それは嫌だ」
「なら、僕と一緒に寝ろ」
「えっ!」
 お前のベッドはとても寝心地がいい、多少狭いだろうが、ソファよりも眠れるはずだとシエルは言う。幾晩かこの家に泊まる予定だし、その間お前のベッドを独り占めするのは気分がよくない。だから…。言われてみれば確かにふたりでベッドに眠ったほうがまだマシかもと思った。ごそごそと僕のベッドにふたりで潜ると、キャンプしているみたいな気持ちになる。シエルは僕よりも一回り以上小さかったから、ふたりで寝るのは想像したよりも狭くなかった。シエルの小さなからだに軽く腕を回して、自分の寝場所を確保する。柔らかいシエルの髪が鼻をくすぐる。
──大きな猫と一緒に寝ていると思えばいいか。
 クスリと僕は声を出さずに笑って、からだを伸ばした。

***

「もう、泣くな」

 後ろからシエルが僕を抱きしめる。
 英国の空は嫌いだ。「空」という名前の少年が僕を慰めるけれど、僕の心はちっとも晴れない。曇天と霧と雨ばかりのこの国には慣れない。
 僕はシエルに出会わなければよかったと心から思う。そうすれば僕は今頃、あの部屋で、ママンと一緒にずっと暮らしていられたのに。ママン。哀しい思い出がしみついてしまった呼び名。僕だけのママン。
「なにを考えている」
「君と初めて会ったときのことを思い出してた」
「あの頃のお前は親切で……明るかったな。よく笑っていた」
 僕は、いや僕達は、もうすっかり笑顔なんて忘れてしまった。お互いの顔を見て、思い出すのは哀しいことばかり。血塗られてしまった過去。
「もう行かなくては。お前は今日は一日休め」
「……イエス、マイロード」
 シエルの顔をぼんやり眺め、使用人の台詞で返事をする。フッとシエルは寂しそうに口をゆがめて、僕の言葉を受けとめた。軽く手を振って僕の部屋を出る。階下の一番奥。使用人の部屋。がらんとしたよそよそしい部屋。こんなところ、僕の部屋じゃない。ママンの部屋とは全然違う。

 僕は再び、あの頃の自分に思いを馳せる。

II




 牛乳屋の瓶ががちゃがちゃとぶつかる音がして、僕は目を覚ました。まだ薄暗いけれど、街は起き始めている。隣に眠っている小さな子を起こさないように、ベッドを抜け出して着替えた。行こうとして、くいっとシャツを引っ張られて振り向いた。シエルが目を開けて、どこへ行く? と訊ねた。
「下へ降りて、水を運び上げるんだ。今日一日分のね」
「毎朝そうしているのか?」
「そうだよ」
 シエルは少し考えているようだったけれど、のそっと起き上がった。
「一緒に行く」
 小さな子にはとても無理だよと言ったけれど、シエルは利かなかった。世話になっているんだし、これぐらいは当然のことだと偉そうに言う。生意気な口の利き方なのに、全然憎めない。むしろ可愛い。
 シエルはもたもたと着替え始めた。そんなにゆっくりじゃ、遅くなっちゃうよ、手伝うよとひざまづいて、靴下をはかせる。
「靴下留めってどうやって留めるの?」
「……知らない」
「知らないの?」
「いつも、じいやがやるから。僕は自分で留めたことがない」
 恥ずかしそうに頬を薄くピンクにして口を尖らせた。どうにか靴下を留めたけど、それでよいのかどうかわからない。僕は真冬以外は素足で、靴下なんかめったに履かないから。

 シエルを急がせて階下に降り、ふたりでバケツふたつずつ持って、井戸の列に並んだ。井戸の前には随分列が伸びていて、番が来るまで結構待ちそうだ。僕が遅かったからだな? シエルが目で訊ねる。うなずくと、明日はもっと早く着替える、すまなかった、と耳打ちされた。シエルの温かい息がくすぐったい。クスクスと笑う僕に、後ろに並んだマダムにあんたの友達なの? と声をかけられた。そうだよ、昨日着いたばかりなの、英国人だよ、と言うと、珍しいものでも見るようにマダムはじろじろとシエルを見下ろし、英国人の頭ってお茶でできてるって本当? とシエルに聞いた。言葉が通じなくてほんとによかったと、僕はほっと胸をなでおろす。悪い人たちじゃないけれど、この辺りの人間は結構品の悪いことを平気でしゃべったりする。僕の住んでいる街は狭くてこちゃこちゃしていて、マダムたちはみな噂話が大好きだ。きっと英国人の男の子が僕の家にいることもあっという間に広まるんだろう。やれやれ。シエルに簡単に説明すると、彼はちょっと顔を曇らせた。
「僕がここにいること、できるだけ知られないようにと、言われているんだ」
「大丈夫だよ、アパルトマンの周りだけだよ。このあたりは小さな地区だから、知られてもたいした人数じゃないよ」
 安心させるように言えば、シエルは気を取り直したみたいだった。
 僕はそのとき、本当はもっと気をつけるべきだったんだ。いまならそう思えるけれど、あのとき僕はシエルのような綺麗な子が家にいることが馬鹿みたいに嬉しくて、できるなら全世界にシエルの存在を教えてあげたいくらいだった。それぐらいシエルは可愛くて、ルーブルにある絵なんかどれも比べ物にならないくらい素敵で、傍にいるだけで幸せだったんだ。

 いつもなら二往復するところをシエルのおかげで一回運ぶだけで済んだ。メルシィと礼を言う。シエルは、「ん」とかすかに首をこくんとさせて、恥ずかしそうにそそくさと中に入ってしまった。
「こっちのバケツは飲み物とか食事用、こっちは洗濯やお風呂に使うんだ」
 シエルが間違えないように指を差して教える。
「あ、お風呂入りたい?」
「……」
「お湯を沸かして、あの大きなタライにでお風呂代わりにしているんだ。君が使いたいなら用意するけど」
「いい」
「遠慮してない?」
「お前たちが使うときでいい」
 うちに負担をかけないように気を遣っている。偉そうなのは言葉遣いや態度だけで、中身は結構いい奴だ。
「じゃ、あとで一緒にからだを拭こう。お風呂に入らないときはそうしているんだ。ところで次の僕の仕事は買い物なんだけど、一緒に行く?」

***
 角のブーランジュリーで、焼きたてのクロワッサンとバゲットを買った。あたたかいパンは小麦の匂いが香ばしくて、おいしい。道々、バゲットの皮をむしって、ここがおいしいんだよとシエルに渡し、熱いカフェオレとクロワッサンって最高の組み合わせだよねと言うと、カフェオレって何と聞かれた。シエルは朝、紅茶にスコーンなんだって。
「僕はそっちを食べた事ないよ。スコーンってなに? おいしいの?」
「おいしいよ、ジャムやクロテッドクリームを付けて食べるんだ」
「それ、毎朝店で買って来るの?」
「違う、使用人が作る。じいやが焼きたてを持って来て、ベッドのそばで紅茶をいれるんだ」
「毎日?」
「そうだ」
「王侯貴族のようだね」
 笑うと、シエルは少し俯いて家が代々…と口ごもった。
 別に恥ずかしがる必要ないんじゃない、僕は僕でこの暮らしは好きだし、結構おいしいものを食べているよ、君の暮らしは君が気に入っていたらそれでいいんじゃない。僕がそう言うとシエルはそうだなと、また偉そうに答えた。

 部屋に戻ると珍しくママンが起き出していて、僕のお気に入りのシルクの蒼いガウンを着て、煙草を吸っていた。ママンの蒼い瞳とおそろいのガウン。深紅のマニキュアが剥がれかけている。あとで塗り直してあげなきゃ。
「ふたりで一緒に行って来たの?」
「ウィ、ママン!」
「もうすっかり仲良しね?」
「まぁね」
 僕は答えて、朝食の用意をする。食卓には背の付いた椅子は二脚しかない。一緒に食事をするお客なんてめったにないからね。鉢の台代わりにしていた丸いスツールを引っ張り出して、僕はそれに座った。
 途端に椅子の脚が折れて、ばきばきばきッとものすごい音がして、思い切り床に尻をぶつけた。
「~~~~ッ」
 目に涙がにじむ。大丈夫? とママンが駆け寄って起してくれる。シエルはあっけに取られたような顔をして、それからククっと喉の奥で小さく笑った。
 ひどい奴だな、君は。痛い思いをしているのに笑うなんて。僕が咎めると、シエルははっと申し訳なさそうな顔して、すまない、あんまりお前の姿がおもしろかったから、と余計にひどいことを言った。シエルって人でなしだなと言うと、すまない、すまないと謝りながらまた笑って、その様子がまた可愛かったから、僕もママンもつい引き込まれて、三人で一緒に笑ってしまった。
 僕は立ったまま、アツアツのカフェオレをカップに注いだ。シエルはカフェオレボウルから飲むのは初めてだったらしく、おずおずと椀を両手で支えて、熱いカフェオレを飲んだ。
「うまい!」
「朝、飲むオレは最高においしいでしょう」
 僕は自慢して、なみなみとお代わりを注いであげた。
 ママンはゆっくりと煙草をふかして、シエルの顔を眺めている。懐かしいような、少し哀しいような、これまで僕が見た事がない顔のママンだ。
「貴方はあまりヴィンセントに似ていないのね?お母様似なの?」
 シエルは首を傾げて僕を見た。君はママ似かって。通訳すると、うなずいてママンに答えた。
「そうです。どちらかというと母似だと言われます」
「兄弟はいないの?」
「……いません」
 空、という名前の英国人。彼の両親はママンとどんな関係があるんだろう。
 僕はさっきからママンの爪が気になっていた。
「ママン、マニキュアが剥がれかかってる」
「嗚呼、セバスチャン、取って来て」
 ママンは爪に視線を落として、あきらめたように小さくため息をついた。寝室のドレッサーに散らばっている化粧品の瓶の中から、マニキュアを探し出し、日の光にかざした。中身が終わりかかっていて、底が見えている。新しいの、買うお金あるのかな……。
 キッチンに戻ると、ママンは僕を膝の上に乗せ、指を机の上に置いた。僕はママンの胸の中で残り少なくなったマニキュアを、時間をかけて丁寧に塗る。爪のひとつひとつに。ママンの爪が綺麗に見えるように集中して、ゆっくりと。僕はこの時間がすごく好きだ。ママンの太腿のあたたかさ、胸のやわらかさ、胸の間から立ちのぼる香水のまじったママンのからだの匂い……。ママンが気持ち良さそうに僕にからだを傾けてくる。視線を感じてふと顔を上げると、シエルが眩しそうに目を細めて僕たちを見ていた。

***
「お前たちは仲がいいんだな」
 シエルの荷解きを手伝っていると、そう言われた。
「うん? そう? 普通じゃない?」
「……普通、かな」
 シエルはちょっと言い淀んだ。
「英国人はスキンシップしないの?」
「母親の胸に抱かれてマニキュア塗ったりはしない」
「ふぅん、文化の違いって奴かもね」
と僕はさりげなく言った。僕とママンの間のことは、シエルには言う必要のないことだ。
 僕はにこっと笑って、シエルの柔かそうなほっぺたにちゅっとキスをした。
「っ、な?!」
「ただの挨拶だよ?」
 目を丸くして驚いているシエルが可愛くて、またちゅっと、今度は反対の頬にキスした。ぽうっとシエルの頬が紅くなってくる。いたずら心を起して、僕はシエルの柔らかい唇にも、ちゅっとキスを贈った。シエルはキューッとたちまち真っ赤になって、魚みたいに口をぱくぱくさせている。
「あれ、唇にキス、したことないの?」
「な、ない!」
「じゃ、僕が君のファーストキスの相手だね?」
「!!!!!」
 英国人ってこんなにウブなのかな。それともシエルが純情なのか。どっちだって構わないけれど、僕は止まらなくなってしまって、何度も何度もシエルの唇にキスしてしまった。



 シエルのトランクには本当に本がびっしり詰まっていた。奥の方にあった黒い革表紙の本を取り出して、ぱらぱらと中を見る。星の形? 魔法陣が描いてある、知らない文字、角が生えた半裸体の獣人……悪魔?
「これ、なんの本?」
シエルは、shhh,,,と僕の唇に人差し指を押し当てた。
「誰にも言うな」
「うん」
「悪魔を喚び出す本だ」
「え!」
「黒魔術」「魔女」「魔法」「呪い」
「だめだよ、そんなの」
「なぜ」
「危ないよ。悪魔を喚ぶなんて」
「危ないかどうか、やってみずになぜ言える」
「それはそうだけれど……。シエルはなぜ悪魔を喚びたいの」
「悪魔って、理想的な召使いだと思わないか?」
「?」
「うまく喚び出して、仕えさせることができれば最高だ。『アラジンと魔法のランプ』の魔神みたいな万能な召使いが手に入るんだぞ。第一、経費がかからない、タダだ。飯は喰わない、服もいらない、病気もしない。おそらく死にもしないだろう? 精霊みたいなものなんだからな」
「……」
「お前は召使いが必要だと思ったことはないのか」
「ないよ。僕の暮らしには必要ないもの」
「そうか。でも僕には必要だ。僕はいずれ家督を継ぐ。そのときに優秀な召使いがいれば力になる。それが悪魔だったら尚のことだ」
「引き換えに、なにを渡すの?」
「なに?」
「悪魔と契約するのなら、タダじゃ済まないよ。引き換えに渡すものが必要なはずだよ」
「魂だな……」
「魂を渡しちゃっていいの?」
「そこが問題なんだ」
 シエルは眉間にしわを寄せて真剣に考えている。その顔を見て僕は吹き出した。シエルって本当に子どもだ。悪魔なんているわけがないのに。はははと笑う僕を尻目に、シエルは真面目くさってその本を読んでいた。
「セバスチャン?」
 ママンが呼んでいる。僕は寝室を出て、ママンの部屋に行った。
「今夜の演目はラ・バヤデールなの、来る?」
 僕に背中を向けて、ボタンを留めるように目で促している。まったくママンときたら。
「ボタンぐらい自分で留められるでしょう?」
「できないわ、だってせっかくセバスチャンが塗ってくれたマニキュアが剥がれちゃうじゃないの」
 ママンの甘えん坊!!
「はい、留めたよ! ……え、バヤデールだって! 早く言ってよ、ママン。行く、行きたい」
 オペラ座で売れ残りの席があると、ママンはこっそり僕を呼んでくれる。本当はいけないことだから、僕とママンと座席係のマダムだけの秘密なんだけれどね。

 ママンは今はオペラ座の雑用係だけれど、昔は舞台で踊っていたんだ。トップのエトワールにはなれなくて、万年一番下のカドリーユだったのと教えてくれた。今も気分のよいときは部屋で踊ってくれる。ふたりでパ・ド・ドウを踊ることもあるんだ。「ラ・バヤデール」は舞姫ニキヤと剣士ソロルのパ・ド・ドゥがいいよね、ママンであの踊りを見たいよと言うと、無理無理、あれはすごーく難しいのよと、僕とママンがフランス語で話しているのを、いつの間にかそばに来ていたシエルが、つまらなさそうに見ている。いけない、おいてけぼりにしちゃった。
「バレエ、見たことある?」
「観たことはないが、興味はある」
「行く?」
「行ってやってもいい」
 相変わらず偉そうな物言い。クスっと僕は笑って、今夜の演目の「ラ・バヤデール」は振付師プティパの人気作で話はこうこう、見どころはこうこうと説明すると、シエルはふんふんとうなずいて聞いていた。身支度のできたママンが、
「ギリギリの時間になったら、いつものところから入ってね? お客さまに見られちゃダメよ」
「大丈夫、これまでバレたことなかったじゃない」
 ママンは心配性だよ、そんなに心配ばかりしていたら若死にしてしまうよ、僕が大きくなったらママンと結婚するんだから、それまで死なないでと、ママンの両頬にキスをして、見送った。

「お前は母親と結婚するのか」
 シエルがけげんそうに聞いた。
「ママンは母親じゃないもの」
「え」
「母親だけれど、違う。血のつながりはないの」
「そう、なのか……?」
「そう。だからママンは将来、僕と結婚して、僕のお嫁さんになるのさ。そしたらずっと一緒だ。大体あんなに世話のかかる女の人、僕以外に面倒見られないよ? マニキュアだって自分じゃ上手に塗れないんだから」
 僕が一番ママンのことを知っているし、ママンのことを愛している。僕がまだ子どもだからママンは相手をしてくれないけれど、愛し合えるような年齢になったらすぐに結婚するんだ。シエルはそれで納得したようだった。……僕とママンの血のつながりなんて、あったってなくったって関係ないさ。愛しているんだから、僕が。
 教会の鐘がなった。時間だ。
「さあ、行こう、始まるよ」
「着ていく服がない」
「ええっ!?」
 もう。今になってそんなことを言い出すなんて。聞けば、シエルはこの服は目立つから嫌だと言う。
「お前のを貸せ」
「いいけど、大きいと思うよ。あと……シンプル?」
 祖末な……と言おうとしたけれど、ママンが買ってくれた服をそうは言えなかった。だぶだぶの僕のシャツとベスト、スボンは折り返して履いて、なんとか身支度を整えた。靴がやたら高級そうで、かえって目立つよと言ったら、足元なんか見る奴はいないと返された。
僕の家からオペラ座までは十分ぐらい。下町の迷路みたいな路地を抜け、劇場の外階段をこっそり上って、三階の非常用扉を開ける。絨毯が敷き詰められている廊下は静まりかえっていて、誰もいない。もうすぐ開演だ。シエルを振り返ると、ぜいぜい息をきらして、僕の背中に手をついている。手を握って、ママンから教えてもらった席に向かう。上手側の扉をそっと開けて、席を探す。あった! 暗闇にまぎれて、ふたつ分余った席に静かに座った。

 オーケストラピットにいる楽団が、チューニングを始めている。
 燕尾服の指揮者が登場して、客席に向かってお辞儀をする。地鳴りのような拍手。くるっと楽団のほうを向き、ひとわたり見回して、すっとタクトを上げた。
 この瞬間が一番好きだ。
 オーケストラの最初の音が出る直前。ぴーんと張りつめた空気。期待で満ちあふれた観客。緞帳の向こうで待機しているダンサーたちの気配。
 音楽が始まった。ゆっくりと緞帳が上がる。ほら、金色に輝く世界が見えてくる……!

***
一幕が終わってシエルを見ると、そう退屈した様子でもなかった。
「おもしろい?」
「まあな」
 それならよかった。バレエは男が見るものじゃないっていう人もいるもの。最近、パリではバレエは流行っていなくて、どちらかというと時代遅れな趣味なんだ。
「ここの客席数はどれぐらいだ?」
「うん?えーと八百席ぐらいかな」
「チケットの料金は」
「三階が四十フランで、二階が二百フランで、ボックス席が五百フランで、1階桟敷が……」
「平均すると?」
「だいたい二百フランぐらい?」
「なるほど。すると一晩で、十六万フランの収入と言うわけだな。ここから人件費を引くと……」
「シエル」僕は遮った。
「なんだ」
「観ながら、そんなことを考えていたの」
 シエルはいたずらが見つかったような顔をした。
「いけないか」
「いけなくはないけれど……。君の家、貴族でしょう? お金には困っていないんじゃないの?」
「貴族だからってなにもしないで金が入ってくるわけじゃない。領地の管理、財産の投資や情報収集、今だってやるべきことはたくさんある。僕の代になったら商売も始めたいと思っているんだ」
「君が」
「引き継いだものをただそのまま守るなんて、性に合わないからな」
 シエルの瞳は強く輝いた。シエルは強欲だ。なにもかも吸い寄せるようなその瞳を見て、僕はそう思った。

 最後まで舞台を堪能してご機嫌だった僕らは調子に乗って、裏で働いているママンに会いに行こうと楽屋口まで降りたのが失敗だった。外階段を使って降りたのはよかったけれど、楽屋扉を開けたら出演者と面会しているお客が大勢いて、そのひとりに見つかってしまったんだ。
「あら、子ども……? 貴方たち、なに?」
 大きな声に、ざわざわと視線が僕達に集まる。じりじりと後ずさって、僕らは走った。出口は人垣で塞がれてしまったので、衣装をかき分けながら楽屋の狭い廊下をどうにか走り抜ける。途中で守衛があとを追って来たけれど、僕は必死でシエルを連れて逃げた。もしつかまったらママンが困る、ここで働けなくなる。自分の間抜けさを呪いながら、どうにか劇場の外に走り出て、路地の奥に駆け込んだ。シエルが膝をついて、息をはあはあ荒げている。
「だいじょうぶ?」
額の汗をシャツの袖で拭きながら、僕は思い出していた。さっき楽屋を走り抜けるとき、身なりのいいひとりの男がシエルのほうを見て「君は……」と英語で呼びかけたような気がしたんだ。シエルに聞くと、全然気づかなかったという。あれは誰なんだろう。シエルのことを知っていたんだろうか。
 僕は考えをまとめようとしたけれど、もう疲れていて、早く家に戻らなくちゃとそれだけで頭がいっぱいだった。
 けれど、真剣に考えるべきだったんだ。なぜシエルはパリに来たのか。なぜ、僕の家にいるのか。

 Ⅳ



──きつく糊のきいたシャツに腕を通し、タイを絞める。堅い肌触り。からだを締め付けるような厚いウールの燕尾服。後ろのテールが重たくまとわりつく。いつも身に付けているようにと東洋人の執事長に渡されて、大人用の懐中時計を持たされた。じゃらっと長い銀のチェーンをベストに通す。僕の手を拒否するような金属の冷ややかさ。白い絹の手袋に指を入れた。よそよそしい、他人のようなお仕着せの衣装。以前の僕の『シンプル』な服とは随分違う。あっちのほうが動きやすかったな……。ふぅと長いため息をついた。
 早く慣れなくては。
「ママン……」
 懐かしい甘い響きが口をついて出た。
 りんりんと呼び鈴が鳴った。主人の部屋だ。アーリーモーニングティーの催促にしては早すぎる。重苦しい気持ちを振り切るように、部屋を飛び出て足早に主人の部屋へ向かった。階下の僕の部屋から主のところまで、僕の足には遠い。ころびそうになりながらも、教えられた通り、走るのは我慢して出来る限り急いだ。
「遅い」
 部屋を開けるなり、言われた。主人の顔をしたシエルがこちらを見据えている。
「……申し訳ありません」
 謝る以外に言葉をもたない。ただの使用人。影のようにひそやかに、目立たぬように主に付き従う。それが執事の心得ときつく躾けられた。
 シエルはそっけなく命令する。
「風呂に入りたい」
「かしこまりました」
 手早く湯浴みの支度をする。
 早朝の淡い光の中、シエルを湯に入れ、背中を流す。否応もなく目に入る焼け爛れた印。
 あの頃は傷ひとつない綺麗な背中だったのに。

***
 ふたりの子どもが楽屋に忍び込んだことは劇場の人たちの格好の話題で、ママンは耳にするたびにひやひやしたらしい。盗られたものがなにもなかったから、どこかの子どもが興味本位で忍び込んだんだろうということにおさまったけれど、守衛が見張りを厳しくするから、もう当分入れないわよ、ほとぼりが冷めるまで我慢しなさいと言われ、僕はがっかりした。
 うつむいている僕に、風呂に入りたいとシエルが言い出した。そういえばシエルが家に来てから、一度もお風呂に入っていない。昨夜走って、汗をかいて、そのまま眠ってしまって気持ちが悪いと言う。キッチンの壁にかけてあった大きな錫のタライを取り、お湯をかんかんに沸かして、タライに入れて、バケツの水で薄めた。
「一緒に入ろ」
 シエルを誘って服を脱いだ。
 シエルの背中は白くて、傷ひとつない。ちゅってキスしたいけれど、さすがにそれは「スキンシップ」を越えちゃうなと遠慮した。タライに入ったシエルは自分で洗ったことないんだと途方に暮れたようにつぶやいた。いつも誰かに洗ってもらっているのと聞けば、うん、じいやにと答える。じゃあ今日は僕がじいやだ。洗ってあげる、とシエルの細い腕にシャボンをつけていく。ごしごしこすって、頭にも泡をなすりつけてあげた。肌も髪も柔らかい。昼間の光の中でお湯を使うって贅沢な気分。シャボンがキラキラしている。気分だけなら王侯貴族だ。
 ママンがオレを飲みながら、楽しそうに僕たちを見ている。
「ねえ、ママンとシエルの家ってどういう関係なの?」
 僕はお湯につかりながら、思い切って聞いてみた。ママンはいきなり聞かれてびっくりしたように僕を見て、それから泡だらけのシエルを見て、フフフと微かに笑った。
「……昔、ママンが舞台に立っていたとき、英国人の団体さんが観に来ていて、舞台がはねたあと、出演者を呼んでごちそうしてくれたの。その中のひとりにヴィンセントがいてね、翌日、ふたりだけでデートしたのよ」
「ロマンスがあったの!?」
「ノン、そんな時間はなかったし、言葉もほとんど通じなかったのよ。ママンはヴィンセントのこと、ちょっといいなと思ったけれど、彼はどうだったのかしら。焼き栗を食べながら、ふたりでセーヌの畔をぶらぶら歩いて……。空が高くて蒼くて、『空が綺麗ね』と言ったら、空(シエル)という音の響きが気に入ったみたいで、口の中で何回か繰り返していたのを覚えているわ」
「だから自分の子どもにシエルと名付けたの?」
「さあ、それはどうでしょうね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。一度、会っただけの人よ。しばらくして手紙が来て結婚したことを知ったわ。子どもが生まれて、『シエル』と名前を付けた、と」
 ママンは手を伸ばして煙草を一本取った。しゅっとマッチを擦って火をつける。細い長い指で煙草を挟み、ゆっくりくゆらしている。
「セバスチャン、寒い……」
 シエルが訴えた。嗚呼、お湯がすっかり冷えちゃった。あわてて熱湯を注ぎ足して熱くする。少し温まったところで、タライを出て、目の荒いタオルでからだをぬぐった。ぶるるるっとシエルは身震いしている。風邪を引かないといいけれど。
 シエルに厚着をさせた僕に、なにかおいしいものを買って来てとママンがお金を渡した。
「ママン、こんなに、使ってよいの……?」
「いいのよ、シエルくんのためのお金を預かっているのよ」
 そうなんだ! ヴィンセントさんっていい奴だ! 僕は元気になって、すぐさま出掛けた。バゲットとハムとチーズとワインと……それからショコラのタルト、林檎のパイも買っちゃおう、エクレールもいいな、あと、そうだ! ママンのマニキュアも!!
 勢いよくアパルトマンを飛び出した。

***
 化粧品屋を出たところで、ぽん! と男にぶつかってしまった。
「嗚呼、ごめんなさい、ムッシュウ、僕、うっかりしていて」
「なんでもないよ。おや、君みたいな子がこんなところで何を買うんだい?」
「マニキュアだよ」
「?」
「ママンのマニキュア。僕がするんじゃないよ」
「ははは、それはそうだね」
 身なりのいい、背の高い男。威圧するような感じで僕の前をふさいでいる。なんか嫌だな。英国人……?かすかに英国訛りがある……。
「甥っ子を預かってもらっている家を探しているんだけど、迷ってしまってね。君、知らない? 甥っ子は英国人でフランス語は話せないんだ。銀灰色の髪で、目は蒼。十歳なんだけど、年より小さく見えるかな。女の子みたいに綺麗な子なんだ。この辺だっていうのを聞いたんだけれど…」
 それ、シエルのことかな? でも、変だ。甥っ子、って。シエルは伯父さんのことなんて、一言も言っていなかった。
 この人、誰……?
 男は黒い手袋をした手で、黙り込んでいる僕の肩を掴んだ。
「ねえ、君、知ってるの…?」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。こいつに喋ってはいけない。心の奥底で何かが警鐘を鳴らした。
「……いえ、見たこと、ないです」
「そう。じゃあ、ただの噂かな……」
「ぼ、僕、急いでいるから!」
 男の手を振り切って、荷物を抱えて僕は走り出した。後ろで男がなにか言ったような気がしたけれど、一刻も早く、その場を離れたかった。
──身なりのいい、背の高い男!
 夕べ、オペラ座の楽屋で、シエルに声をかけようとしていた男なんじゃないだろうか。ちょっと見ただけだから、確かとはいえないけれど。息を切らせて家に戻って、買ってきた品物を整理すると、最後に買ったはずのマニキュアがなかった。あれ、どこかで落としてきちゃったのかな。

***
「ねえ、シエル」
「ん?」
「シエルはなぜここに来たの」
「知らない。行けと言われたんだ、父に」
「そうなんだ……」
 僕はシエルを探している男に会ったことを言おうとしたけれど、急になぜかそれはそんなにたいしたことじゃないように思えて、言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、気を付けるのよ」
 ママンがいつものように出掛けて行く。うんと僕達は答えて、ふたりでママンの頬にキスをする。シエルは「スキンシップ」に少し慣れたみたいで、ちょっと赤くなっていたけれど、ママンにキスしていた。こんな弟がいたら毎日楽しいだろうな。外からガチャッと鍵がかかる音がして、カツカツ……とママンがヒールを鳴らしながら階段を降りて行った。
 ママンが作っておいてくれたオニオンスープを温め直し、デリカデッセンのチキンのパイとほうれん草のパイを頬張る。明日もう一度、化粧品屋に行って、ママンのマニキュアを買い直そう。ふたりで夕食を食べていたら、階段を上がってくる足音に気づいた。足音は僕の家の前で止まった。
「?」
 シエルと僕は顔を見合せた。トントン。ノックの音。
 僕はゆっくりと玄関に立った。
「はい?」
「電報です」
「すみません、中から開けられないんです。下の管理人さんに渡してもらえませんか」
「外から鍵をかけられているのですか?」
「そうなんです、ママンが働きに行っているので」
 返事はなく、ただ階段を降りて行く音がした。おかしいな、いつもの郵便屋さんならそんなこと、知っているはずなのに。僕は首をひねった。管理人さんが来るのを待っていたけれど、いつまでたってもやって来ない。いつもなら電報を渡しにすぐに来てくれるはずだ。
──いまの本当に郵便屋さん?
「ねえ、シエル」
「なんだ」
「あのね、実は買い物に行ったとき……」
 僕はシエルに英国訛りのある男のことを話した。シエルは真剣に耳を傾けている。
「シエルは誰かに追われているの?」
「いや。そんなことはない、と思う。ただここにいることを、あまり人に知られないようにしろと父に言われただけだ」
 シエルにも事情はわからないようだった。だけど誰かがシエルを探している。井戸でお喋りマダムたちに話してしまったから、この辺の人間に聞けば、英国人の男の子がここにいることはすぐにわかってしまうだろう。化粧品屋であの男と出会ったのは偶然じゃないのかもしれない。いまの郵便屋も……。
 そう考えて、僕は少し怖くなってきた。
──ママン、どうか早く帰って来て。
 けれどママンは、いつも帰る時刻になっても戻らなかったんだ。



 真夜中を随分過ぎて、階段の下から足音が聞こえて来た。
ママンだ!
 がばっと僕はソファから跳ね起きた。気配に気づいてシエルも目を覚ます。
 足音がだんだん近くなる。
 カツーン、ずるっ、カツーン、ずる……、
「?」
──あれは……ママンの足音じゃない。
 その足音は随分ゆっくりで、なにか重たいものを引きずっているみたいだった。
──なんの、音?
 僕はシエルを寝室に押し込んで、音を立てないようにそっと戸を閉めた。
カツーン、ずるっ
 音は僕の家の玄関の前で止まった。カチッと無造作に鍵を差し込まれる。鍵が回り、ゆっくりと扉が開く。ママンじゃない、誰か知らない人間が部屋に入って来る。男物の靴。綺麗に磨かれた黒の上質な革靴。それが目に入ったとき、胃がぐっと迫り上がった。

「やあ、また会ったね」

 からだを半分だけ部屋の中に入れた男は、僕を見てにこやかに言った。
「君の家だったんだね。あの子はどこにいるの」
 僕は大声を出そうとした。その瞬間、男はぐいっと部屋の外にあったものを中に引っ張り込み、素早く扉を閉めた。
「ッ……!」
 男が引きずり込んだのは、ぐったりと動かないママンだった。
「ママンッ!!」
 男は、ママンに駆け寄ろうとする僕をぐいっと抑えつけると、黒手袋を嵌めた手で僕の口を塞いだ。懐からナイフを取り出して、ぱちんと刃を立てる。
「大声を出さないでね? 約束できる?」
 こくん、こくんと僕はうなずく。
 男は僕の前にしゃがみこみ、顔を寄せて囁いた。
「ねえ、ここにあの子がいるだろう?」
「知らない……」
「隠さなくてもいいんだよ。このあたりの人たちに聞いてみたんだ。下町の人間は皆親切だね。英国人の甥っ子を預かってもらっているんだと言ったら、すぐにここを教えてくれたよ」
「……」
「あ、これ、君、昼間落としたでしょう」
 男は片手でポケットを探り、僕の手に何かを握らせた。手を開いてみると、それは僕がママンに買った深紅のマニキュアだった。
「君のママンは綺麗な爪をしているね」
「え…?」
「鍵を拝借しようと思ったら、抵抗されてね。ひっかかれてしまったんだ」
 そう言って、男は頬を見せた。一筋、赤い跡がついている。
「僕は傷つけられるのが嫌いでね、ちょっと腹が立って、少しだけ彼女を手荒に扱ってしまったよ。綺麗だから、剥がすのは本当に忍びなかったんだけれど、僕、腹が立つと、止まらないんだよ」
──何を言っているの。剥がす、って、なに……?
 僕の背中を気持ちの悪い汗が流れた。
「でも爪はまた生えてくるから。そのとき、綺麗に塗ってあげてね?」
 男はにこにこと微笑みながら、ママンの手首をつかみ、僕の前に差し出した。
 目に入るママンの手。いつもと変わらないママンの綺麗な指。指先、紅いマニキュア……
──……え? 
「ひ……っ」
 喉から冷たい息が漏れた。
 マニキュア、じゃない。
 赤い肉が剥き出しになって、血が滴っている。
「なんてッ、なんてことをッ、僕のママンにっ。お前……ッ、うぐッ」
 僕はあっという間に口を抑えられ、乱暴に持ち上げられた。
「大声を出さないって約束だよ? あまり事を荒立てたくないんだ。わかって?」
 僕はひっく、ひっくとしゃくり上げる。涙がぼろぼろこぼれて止まらない。
「遊びはこのへんで終わりにしようよ。ねえ、ここに、シエル・ファントムハイヴくんがいるよね」
「……」
「あまり時間がないんだよ。十数えるまでに、彼を連れてきてくれる? さもないと……」
ナイフの刃を僕に近づける。
「今度はこれで君のママンの指を切ろう。死にはしないよ。でも、痛いだろうねえ。今だって爪を剥がされた痛みで失神しているんだ。あっ、起きるか。指を切り落としたら、痛みで目が覚めるかも。ねえ?」
「……ッ」
「指がないと、もうマニキュアができないね。それに君にお菓子を作ってあげられないし……どうしようか?」
 嫌だ。やめて。ママンにそんなことしないで。お願いだからやめて。僕は泣きながら懇願する。男はにこやかに微笑んだまま。
「じゃあ、数えるよ?」
 シエル、シエルを……渡せない、こんな奴に渡しちゃだめだ。だめなんだ。そう思っていたのに、神様に誓って僕はそう思っていたのに。
「十……九……八……」
 男のカウントダウンが始まるか始まらないかのうちに、僕は駆け出して、寝室に飛び込んでいた。
 シエルは寝室の端にからだを寄せて、震えて、立ちすくんでいる。
 シエル、ごめん! ママンが……、ママンの爪が、指が……っ!
 シエルは恐怖でゆがんだ表情で僕を見つめている。その目。その目。その目!
 一生忘れられない。僕を見ているサファイアブルーの瞳。
──僕を連れていかないで。渡さないで。助けて……!
 シエルは声を押し殺して僕に訴えている。宝石のように綺麗な瞳から涙があふれている。
 シエル、ごめんね、ごめんなさい……!
 僕は心の中で何度もシエルに謝りながら、シエルの華奢な腕を掴んで、無理矢理引っ張った。後ずさりするシエルを力一杯ずるずると引っ張った。
「やめろッ、放せ! セバスチャン!」
 僕は黙ったままだった。一言も言えなかった。なにも言えなかった。ただ心の中でシエル、ごめん、シエル、ごめんとずっと叫び続けていた。
「三……二……、おや、早かったね。メルシィ」
 男は屈託のない妙に明るい声で話しかけた。
「『ファントムハイヴ伯爵』、お迎えにまいりました」
 シエルはその一言を聞くと、真っ青になった。
「なん、だ……って?」
 男はにこにことシエルの腕を取ると、それまで掴んでいたママンの腕を僕に渡した。
「さあ、君のママンと交換だ。僕はいい人間だろう? ちゃんと約束は守るんだ。たとえ相手が子どもでもね」
 シエルが震えながら口を開いた。
「僕が『ファントムハイヴ伯爵』だと? 父はどうした?」
「さすがは伯爵。察しがいいね。そう、君の想像しているとおり、ヴィンセント・ファントムハイヴはもういない。レイチェルもね。すべては終わったんだ」
 グラリとシエルのからだが傾いて、あ、倒れる……と思った瞬間、男がシエルをしっかりと抱きとめた。
 シエルの口にきつく猿ぐつわを噛ませる。
「仲間が随分君を探していたよ? まさか、オペラ座で君を見つけるとはね。よかった。手柄をひとりじめできる。さあ、僕と一緒に行こう」
 男にがっちりと抱えられたシエルは身動きひとつできない。
「シエルッ……」
 ママンを腕に抱えたまま、僕は叫んだ。
「お願いっ、シエルを連れていかないで!」
 男はおもしろそうに僕を見下ろす。
「ふふ、君が連れてきたんじゃないか。僕は受け取っただけだよ?」
「あ……」
「じゃあ、君のママンと永遠に幸せにね」
 男はそう言うと、マッチを取り出し、しゅっと火をつけた。そしてその火をゆっくり、僕の家の色褪せたカーテンにつけた。そしてドアを静かに閉め……外からカチリ、と鍵をかけた。

 ゴオオオオオオオッ

 乾いたカーテンにあっという間に火が回り、大きく燃え広がる。煙が上がる。
 ドアをどんどんと叩いて助けを呼んだ。管理人さん! 誰か! 早く来て、ドアを開けて、ドアを開けて! ママンを、僕たちを助けて……!
 赤い火が容赦なく僕達に向かってくる。
 僕は重たいママンのからだを引っ張って、どうにかキッチンまで移動した。バケツに汲みおいた水がある。それで火を消すんだ。ママンをそっと床に置いて、バケツを探した。バケツ、バケツはどこ……あった! さあ、水、水を、あれ……? みずがない?
 バケツはどれも空だった。
 そうだ。昼間、シエルとお風呂に入って、ほとんど使ってしまったんだっけ。僕はへなへなと床に崩れ落ちた。
 ママン、どうしよう。どうしたらよいの? ねえ、ママン答えて。管理人さんが扉を開けてくれるよねえ。ねえ、ママン、窓から飛び降りたらいいの? ねえ、ママン、ねえ!
 僕がゆさぶっても、ママンは答えない。顔にびっしり油汗が浮かんでいる。僕はママンの手を取ってそっと撫でる。
 ねえ、ママン、痛かったでしょう? 凄く痛かったでしょう? ママン、可哀想に! いいお医者に連れて行くよ。そしたらすぐに治って、また新しい爪が生えてくるから、僕、前よりも全然綺麗にマニキュアを塗って上げるよ。前よりも凄く綺麗になるよ、ママン、ママン……!
 部屋中に黒い煙が満ちてくる。
 空気が熱くて息ができない。
 床の古い絨毯も、ソファのクッションも、洗い過ぎて元の色がよくわからないテーブルクロスも、たった二脚しかない背の付いた椅子も、シエルと一緒に飲んだカフェオレボウルも、すべて火にのみ込まれていく。ママンが唇を動かしたように見えたけれど、火が、煙が、僕に襲いかかって、もう何も聞こえなかった……

 意識を取り戻したとき、もうもうと煙の立つ瓦礫の中に倒れていた。いつのまにか日が昇っていて、あたりが明るい。周囲のざわめきが薄く聞こえてくる。僕達のアパルトマン、焼け崩れたの?
 僕は握りしめていたママンの手を引き寄せた。その手はふわり、と軽かった。
「ママン……?」
 引き寄せたママンの手首から先には、なにもなかった。
 僕は声にならない叫びを上げて、それから──静かに発狂した。



 朦朧とした意識の中、僕は彼岸へ辿り着いて、ママンとパ・ド・ドゥを踊っている。完璧に美しいママンは、僕が紅いマニキュアを塗ってあげた手を差し出す。その顔がぼやけて霞んで、シエルになって、僕はいつの間にかシエルとパ・ド・ドゥを踊っている。金色の幻。夢の世界。

 ママンが死んで一年経って、シエルはようやく僕を見つけ出した。治療らしい治療もされず、鎮静剤を打たれ続けた酷い状態で、這いつくばるように生きていたと後でシエルが言ったけれど、覚えていない。誰がそばにいて、なにを食べて、生きていたのか。
 パリの病院からイギリスへ連れてこられて、使用人として屋敷に置いてやると言われ、東洋人の執事長のもとで修業をしている。けれど、うまくできない。馴染めない。泣いてばかりで、役に立たない。今日もシエルに「一日休め」と言われた。休んでばかりだ。僕はここでは生きていけない。シエル、僕を見つけてくれなくてよかったのに。僕は君を裏切ったんだ。そのまま放っておいてくれればよかったのに。僕は死んでしまいたかったのに。ママンのいない世界で生きてなんの意味があるの。
 気がつくと、すっかり暗くなっていた。
 からだを起して窓の外を見る。半地下の使用人の部屋の窓から空はよく見えない。僕はまたため息をついて、机の引き出しを開けた。中にはあのとき僕が買った深紅のマニキュアがあった。取り出して、瓶のふたを取る。つんと鼻をつく人工的な匂い。僕は座って、マニキュアを自分の爪に塗った。ゆっくりと。ママンの爪に塗っていたように。
「塗ってやる」
 いつの間にか僕の後ろにシエルが立っていた。僕の膝の上に座って、机に手を置けと顎で指す。僕の胸の中にすっぽりおさまったシエルのからだが熱い。衿の隙間から、からだの匂いが立ち昇ってくる。ママンもいつもこんな風に僕を感じていたんだろうか……。僕の爪を呪いで塗り込めるようにして、シエルは全部の指にマニキュアを丁寧に塗った。
「シエル。もう終わりにして……」
「……」
「とても生きていけない。君の役に立つことなんてできない。僕を殺して。おしまいにして」
「なぜ?」
「なぜ……? なぜ! 僕のほうが聞きたいよ! 僕は君を酷い目に合わせたんだよ? そばに置いておく必要はないじゃないか!」
「だからだ」
「えっ?」
「お前は一度僕を裏切った。だから二度めはない。お前はもう絶対に僕を裏切れない。そういうものだ」
「ッ、でも、でも、僕は正気をなくした人間だよ! いつまたおかしくなるかわからないんだ。こんな人間をそばに置いちゃいけない」
「何度でも狂えばいい! 何度でも正気に戻してやる!」
 シエルは僕の手を乱暴につかんで叫んだ。
「シエル……?」
 シエルはマニキュアを塗った僕の指をじぃっと見ていた。随分長いこと見ていた。それから話し始めた。
「僕のせいだからだ」
「?」
「お前の母親が死んだのは僕のせいだ。正確には先代のせいだ。屋敷が襲撃される噂を耳にした先代は、僕をお前の家に避難させたんだ。噂はただの噂に過ぎないかもしれない、そのあたりのことが不明だったし、周囲の誰を信用していいかわからなかったんだろう。万一なにかあったときの用心のために、あの時僕を屋敷から遠ざけたんだ。パリの下町のよくある小さなアパルトマン。まさか英国貴族がそこに潜んでいるとは誰も思わないだろう? 先代はチェスの駒のように、一度会っただけのお前の母親を利用したんだ」
「君のお父さんは、危険を承知でママンのところに君を寄越したの……?」
「そうだ」
「僕とママンが巻き添えを喰うかもしれないとわかっていて?」
「そうだ。だが先代はそこまで危険だとは予想していなかったと思う。お前たちが襲われるようなことがあれば、僕の身も危ないわけだから」
「僕のママンはそれを知っていたの?」
「知らなかっただろう。知っていたら、僕を預からなかったはずだ」
「……酷い」
「そうだ」
「酷いよ、シエルッ! 君が来たから、君のせいで、ママンは……ッ」
「そう言っただろう」
 シエルの首元を思い切りつかんだ。
「そう言っただろうだって……? なんで冷静にそんなことを言えるんだっ。この、この……人殺しっ!」
シエルはどこまでも澄み切ったサファイアブルーの瞳で僕を見つめた。
「そうだ。そして、お前も人殺しだ」
「……っ!」
「お前は、母親のために僕を奴に差し出した。僕が切り刻まれるかもしれないのをわかってな。それは人殺しと同じじゃないのか」
 お前も同じなんだ。シエルはそう言って、細い指先で僕の頬に触れ、唇までゆっくりと辿った。
「……悪魔だ。僕にはお前が悪魔に見えたぞ、あのとき。僕を引きずって、奴の手の中に渡したとき」
 うっ、うっ、と僕の口から嗚咽がもれる。違う、僕は悪魔なんかじゃない、ただママンを、助けたかっただけなんだ。シエルは慰めるように僕の黒髪を撫でる。髪を指に絡めては撫で、絡めては撫でる。
「ヒトはどんなことでもするな」
「え……」
「先代は僕を守るためにお前たちを利用し、お前は愛する母親のために僕を裏切った」
「……」
 シエルは苦しそうに息を吐いた。額に汗が浮かんでいる。
「あのとき──僕も殺してくれればよかったんだ。なのに奴らは僕を閉じ込めて、ひと月もの間、陵辱し続けた。僕はお前と違って正気を失わなかったからな。現実から逃れようもなかった。いっそ殺してもらったほうがどれだけよかったか……っ」
 シエルの拳がカタカタと震えている。
「シエル……」
「──そのうちに、両親を殺した奴らが、僕を陵辱した奴らが、お前の母親を殺した奴らが、再び必ず現れるだろう。そのとき僕は復讐する。両親のためじゃない。自分のためだ。それが済んだら、ようやく終わりだ。
いいか、よく聞け。その日までお前は僕に仕えるんだ、セバスチャン・ミカエリス! 悪魔のようにあのとき僕を売ったお前が、悪魔のようにお前の母親を利用した男の子どもに。……かつて悪魔なんていないと言ったな、セバスチャン。だが、いる。ここに」
 シエルは僕を指差した。

──そうだ、ここにいる。

「いいな? お前は僕のものだ。逃がさない。狂うことも、死ぬことも許さない。生きて、僕に仕えるんだ。最期まで」
「……」
「誓え」
 僕は魅入られたようにのろのろとシエルの前に膝をつき、紅いマニキュアをした指で小さな手を取った。
「イエス、マイロード」
 服従の言葉を口にする。そう、僕はシエルのものだ。シエルのためならどんなことでもしよう。
 シエルの悪魔として。
「それでいい。僕に従え」
 シエルは僕の顎をつかみ、上を向かせると、ゆっくりと顔を寄せて唇を合わせた。

 そうして、シエルは僕の首に犬の首輪を付けたんだ。

epilogue



「セバスチャン」
 書類から目を上げずに主が私に声をかけた。
「はい」
「ひさしぶりに、ホットチョコレートが飲みたい」
「珍しいこともあるものですね」
「なんだ?」
「ちょうど私も、今日のアフタヌーンティーはホットチョコレートとガトーショコラにしようかと思っておりました」
 主は顔を上げて、私を見た。サファイヤブルーの瞳の色はあの頃と少しも色褪せていない。
「なら、明日の朝は、カフェオレとクロワッサンだな」
「かしこまりました」
 主は書類を机の上に置き、くるりと椅子を回して窓の外を眺めた。神の気まぐれか、今日の空は蒼く、どこまでも突き抜けるように晴れている。
「昔、お前はよく泣いたな」
「……そうですね」
「英国の空は嫌いだと。曇天と霧と雨ばかりだと」
「ええ」
「いまもか」
「……」
「いまも、嫌いなのか」
「……いいえ」
 それ以上の質問を聞きたくなかった私は、主の顔を両手で優しく包み、静かにくちづけた。顔を離したとき、黒髪がはらりと目にかかった。白手袋をした指で軽く払う。主がその手をつかんだ。 
 目と目が合った。
「お前は僕のものだ」
「ええ」
「これからも。ずっと」
「ええ」
「最期まで」
「ええ。最期までお仕えします。私は貴方の……悪魔で、執事ですから」
 にっこりと微笑み、もう一度主の唇を塞いだ。

                                             終