カフェを始めた-総集編-[新刊サンプル]

BOOTH にて取り扱っています

◆カフェを始めた 本編

 セバスチャンがカフェを始めた。
 直接聞いたわけじゃない。外出から戻った母が、浮き浮きとした様子で報告したのだ。
「え、カフェ?」
「そうよ。びっくりでしょう。ずっと引きこもっていたのに」
 母は買い物かごを置き、遠くを見るような目をして呟いた。

 セバスチャンは一応、僕の従兄弟だ。
 一応、というのは、再婚を繰り返した叔母の現在の夫(一体、何人目の夫なんだろう)の連れ子……なので、直接には血のつながりはない。僕が五歳ぐらいのとき、会ったことがあるらしいけれど、僕の小さな脳はそれを記憶していなかった。十三歳離れているから、彼はその頃十八歳だったのだろう──いま思えば、随分と若い。
 そういう僕は、いま十三歳。
 少しばかり、集団が苦手で、少しばかり、孤独な感じ。
 なまじ頭が良いために、クラスメイトから疎んじられている。疎んじられていることがわかるだけに、こちらも距離を置く。また疎んじられる。また距離を置く。
 いわゆる、負のスパイラルだ。
 一度、このスパイラルに陥ると、抜け出すのは難しい。なにか強力なきっかけ──例えば、九回裏でまさかの逆転ホームランを打つとか──がなければ、カードはひっくり返らない。
 そして、僕は自分があまりパワーのない子どもだってことをわかっている。逆転ホームランを起こす努力をするぐらいなら、日陰で読書をするほうがいいのだ。
 ふん、消極的だと笑われたって構わない。それが、きっと僕なんだ。
 対して、従兄弟のセバスチャンは社交的で万事そつがなく、会えば常に明るい笑顔で人に接し、良い子よねえ、と昔から母はよく言っていた。
 そんな奴、いるわけない。きっとどこかが病んでいる、と僕は内心思っていたけれど、もちろん母には言わない。
 母に言ったところで、ぽかんとした顔をして、そうなの? と答えを聞く気もなく訊ねて、僕が答えようとすると、もう頭は違うことでいっぱいになっていて、乱雑に散らばった請求書を片付け始めたり、フォークを磨いたりし始めるのだ。
 閑話休題。
 とりあえず、母のことは横に置いておこう。
 さて、万事にそつのないセバスチャンという男が、もろくも崩れたのはカレッジを卒業した後のことだった。オックスフォード大学を出て、銀行にでも入るのかと期待されていたのに、彼はなにを思ったのか、突然フランスに渡り、某パティスリーにて、菓子づくりの修業を始めたのだ。
 母からその噂を聞き、無謀にもほどがある、と当時の僕は思った。彼二十二歳、僕九歳のときだ。英国の上流階級出身の人間が、パリのパティスリーの厨房でどんな目に合うかは、小学生にだって想像できる。
 年下の『先輩』たちからの陰湿ないじめ、長くきつい労働、苛烈な性格の親方の容赦ない叱責。優雅なソサエティで育った人間が受けとめるには辛過ぎる現場が待っている。
 いくらそつのないセバスチャンといえども、現実は避けられなかった……らしい。嵐のように襲いかかってくるパワハラの連続攻撃に、とうとう音を上げ、心折れ、自我を失い、文字通り心身共にボロボロになって、英国に帰ってきた──それが去年の話だ。
 だから、少なくとも三年はパリでがんばったことになる。
 立派だ。
 三年の歳月を、厳しい肉体労働と罵声の中で堪えてきたなんて。僕にはとてもできない。
 そう、僕はとても繊細で──これはもちろん、悪い意味でだ──とても心折れやすい。
 だから、極力折れそうな場所には行かない。敵前逃亡どころか、敵そのものを作らないように綿密に計画し、行動するタイプだ。おかげで、大したいじめにも合っていないし、自我は無事。まあ、ちょっと変わったもの静かな子、ということで世間に受け入れられ、僕は自分の居場所を確保している。
 セバスチャンは自分が選んだ無謀な挑戦に負けて、情けなく帰国したダメな奴というレッテルを貼られて、自分の居場所を失った。
 帰国してしばらくの間、療養施設で静養し、それから実家に戻り、引きこもり同然の生活をしていた……らしい。だって、これもまた、母の噂話だから。大人たちは大事なところを無意識に省くから、子どもには本当のところはわからない。
 まあそんなわけで、傷ついた男は突然、英国の田舎町でカフェを開くことになったのだ。

***
 カフェは、まだ始まっていなかった。
 僕の前にあるのは、改装途中の建物だ。まだ店になるかどうかもわからない。廃墟みたいな建物。
 うちの小さな庭で穫れた、たっぷりの黒スグリの実とコケモモを母から持たされて、僕はその建物の前で、さっきからウロウロしていた。大体いまの時代、黒スグリなんてもらったって嬉しくない。コケモモだって同様だ。童話の時代じゃないんだから。
 なのに母は「パティシエなんだから、そうねえ、ジャムにしたり、コンフィチュールにしたり? いいじゃない。ねえ?」と夢見るような瞳で言う。
 ジャムとコンフィチュールは、ほぼおんなじモノです、と母に教えてやりたかったが、あきらめた。母の脳は魔法のザルなのだ。彼女が聞きたくないことは、すべてザルの穴から漏れ出てしまう。言うだけ無駄、と僕は小さくため息を吐く。
 そのときだ。
 カチャリと、ペンキの塗っていないドアが開き、中から男が不機嫌そうに顔を出した。黒麻のシャツのボタンを上から三番目まではずし、はだけた衿の隙間から素肌がのぞいている。さらりと額に落ちる、黒い前髪。整った鼻梁。色素の薄い唇──記憶が心の奥底から浮かび上がった。
──セバスチャンだ。
「……どなたですか?」
 うーん、これは少々厄介な展開になりそうだと、僕の優秀な脳は素早く判断する。
 まず、自己紹介。僕が誰の子どもで、セバスチャンとどういう間柄で、それから今日、なぜここに来たか……それらを迅速かつわかりやすく説明し、滞りなく、中に入れてもらう。
 想像するだけで挫けそうになったが、やむを得ない。僕はその通りに行動した。
 セバスチャンはうろんな顔で、一方的に喋りまくる僕を見つめていたが、やがて諦めたように目を伏せ、どうぞ、と呟いて、ドアを大きく開いた。
 薄暗い──。
 まだ昼だよね、と僕は一瞬、外を振り返って確認する。初夏の日差しは明るくて、緑の葉に反射して、きらきらと眩いぐらいの光を放っている。
 けれど、室内は暗く淀み──まるでセバスチャンの心をそのまま映しているかのように──冷えきっていた。
「すみません、まだ電気もガスも通っていないので……」
 言葉の上では謝っているけれど、こんなときに来るほうが悪いのだといわんばかりの声音。
 引いた。
「いえ。母に頼まれただけなので。もう、帰ります」
 果物籠を床に置いて、急いで踵を返した。
「待ってください」
 まさか呼び止められるとは思っていなかったので、僕は動揺し、そのへんに散らばっていた電気のコードに足を取られて、ひっくり返った。
 セバスチャンが駆け寄って来たのまでは覚えている。そのあと、視界がすーっと暗くなって、僕は気持ちよく意識を手放していた。

 <中略>

はじめからなにもかもわかっているような愛撫だった。
 泥だらけのシャツをやさしく脱がされたときも、彼のひんやりとした肌に触れたときも、もう何度も抱かれて、互いのからだのどこもすでに知っているような気がした。
 セバスチャンはゆっくりと僕にくちづける。
 彼の唇がほんの少し触れただけでからだは期待に潤み、解けてしまう。首筋から鎖骨、鎖骨から胸へとセバスチャンの舌は僕の感じるところを辿っていく。
「……ぅんっ」
 乳首を軽く吸われて、甘い喘ぎが零れた。羞恥に襲われ、手の甲を噛めば、セバスチャンはそっと僕の手首を掴んで、シーツの海に縫い止める。
「声を聞かせて……」
 胸の先を摘まみ上げられ、捏ねられ、何度も感じやすいところを弄られて、繊細な指の愛撫にそれだけで達してしまいそう。
 僕の先端はきっともう濡れている。
 セバスチャンはベッドの中でも意地悪だ。
 僕の熱はとっくに勃ち上がっているのに、そこにはまったく触れようとせず、腰のあたりや腿の付け根ばかりキスの雨を降らせて、僕が震えていても知らんぷりで、焦れったくて、触れて欲しくて、彼の瞳に訴えるけれど、下から見上げる紅い瞳は薄く笑うばかりで、ちっとも触ってくれない。
「触って欲しい?」
 触って欲しいに決まってる! 僕の腰は待ち切れず、乞い願うように動いてしまう。
「触って欲しい……って言って」
「~~~~ッ」
「言わないと、やめますよ」
 そんな! こんなところでやめられたら、おかしくなる!
「さあ、言って……」
 耳が熱い。たまらなく恥ずかしいのに、からだは揺れて、止められない。
「ッ、ァ……さ、……」
 やっとの思いで口に出せば、セバスチャンはクスリと笑って、顔をずらし、僕を一息に呑み込んだ。
「んッぅ!」
 ずるりと中で舌が動く。いやらしく僕に巻きついては離れ、締めては緩めて、舌は蛇のように僕に絡みつく。ずるり、ずるりと舐められるたびに息が詰まって、苦しくて、ぞくぞくと背筋に悪寒が這い上がってくる。
 突然、ふるり、とからだが揺れた。
「……あッ……やっ、あ、あ────ッッ」
 強い光がからだを突き抜け、張り詰めていた僕の熱が一気にセバスチャンの口の中に迸る。刹那、セバスチャンは僕の後ろ頭を掴んで唇を奪い、口に含んだ白濁を流し込んだ。
「んぅ……ふ」
 白濁をふたりで分け合って、いやらしく舌を絡め合う。頭の芯がどろどろになって、綺麗も汚いもなくて、お互いの汗も唾液も白濁もすべて愛おしかった。
 そうしてセバスチャンが僕の中にやさしく入ってきたときも、僕の髪を梳きながら、腰をゆっくりと動かしたときも、僕の中で達して、そのまままたすぐに僕を貫いたときも、全部がかつてあったことのように感じ、あたたかくて、懐かしいこの交わりに胸がつまった。
 僕たちはいつかの昔、こうして交わったことがある──。


◆鳩と黒スグリとコケモモ

 セバスチャンがカフェを始めた。
 今度は本当だ。
 カフェの名前は「鳩と黒スグリとコケモモ亭」。
 聞いて、僕は驚いた。
 だってさ、セバスチャンの「鳩」と、僕の家の庭の「黒スグリ」と「コケモモ」。
 なにもかもいっしょくたじゃない?
「あのさ、店の名前なんだけど……」
 言いかけた途端、セバスチャンがじろりと睨んだ。

 セバスチャンがカフェを始めようとしたのは、去年の夏のことだ。
 母がセバスチャンがカフェを開いたという噂を聞きつけ、僕に庭の黒スグリとコケモモをもたせて、セバスチャンのもとに送り込んだ。それが僕とセバスチャンの二度目の出会い。
 実際はセバスチャンはまだカフェを開いていなかった。
 廃墟みたいな建物をカフェに改装している途中で、僕が訪れたときは電気もガスも通っていない状態。コードが不気味にコンクリートの床を這っていたし、天井はむきだしのまま。
 パリでのパティシエ修業で、精神を少し病んでしまった彼は、床から天井、窓……すべてをひとりでリノベーションするつもりのようだった。
 夏の間に僕の周囲にさまざまなことが起こり、母はいま湖水地方の療養所で静かに暮らしている。僕はセバスチャンと……まあそういう関係になってカフェの二階に住んでいる。
 セバスチャンはついこの間まで、だらだらといつまでもカフェの内装にこだわり、ちょっと直してはまたやり直し、またやり直しの繰り返しで、ちっともオープンする様子がなかった。業を煮やした僕が、
「本当は開くのが怖いんだろ」
と嘲笑ったら、
「なんですって──?」
 端正な顔を般若のようにゆがめて僕を睨みつけ、これまでとは別人のような勢いで猛然と作業を進めて、一週間後、本当にカフェを開いてしまった──。
 以上が僕たちのこれまで。
 さあ、話を現在に戻そう。

「あのさ、店の名前なんだけど……」
 じろりとセバスチャンが僕を睨む。
「私のやりたいように、やります」
 はい、わかりました。
 ものわかりのいい僕は無駄に争ったりしない。
 ここは一応、敵……いや恋人に花をもたせよう。
 さて、この「鳩と黒ス……」ああ、もう長過ぎる。ただのカフェでいいや。
 セバスチャンのカフェは、モーニングもランチもやらない、珈琲も出さない、アルコールもなし、あるのは紅茶とスイーツのみという頑固なカフェだ。
 紅茶はセバスチャンが厳選したものを四種類だけ。自家製スイーツは季節に合わせて常に六種類。
 と簡単に言うけれど、たったひとりで、スイーツ六種類の仕込みは結構大変だ。
 セバスチャンは早朝、枕元の鳩の「グルッポー」という声で目覚め、手早くシャワーを浴びると、キュッとギャルソンエプロンの紐を締めて、一日分のスイーツを仕込む。
 黙々と手を動かすセバスチャン。
 粉と砂糖を計量し、卵を割りほぐし、ミルクとバターを用意し、オーブンをあたため……。

 あまりに忙しそうなので、なにか手伝おうかと申し出たけれど、自分のペースでやりたいから結構です、ときっぱり断られた。
「貴方は適当な時間に起きて、掃除でもしてください」
 ふんと鼻を鳴らされて、僕は心の中でこの病み気味の恋人にチッと舌打ちをする。
 セバスチャンから遅れること一時間、僕はよろよろとベッドを離れる。セバスチャンが用意してくれたクロックムッシュとか、バターたっぷりのクロワッサンにカフェオレというパリ風朝ご飯を食べると、登校前にカフェの掃除をする。
 やってみると結構これが大変で。
 流木で作った手作りの椅子やら、うねうねとした形のアメーバみたいに不定形な窓。掃除しづらいことこのうえない。
 でも食べ物を扱う場所なのだから、清潔に、塵ひとつないように……と心を込めて掃除する。
 しゃっしゃっしゃっ。
 しゃっしゃっしゃっ。
 アメーバ窓を開け放った室内に、シュロの箒の音が小気味よく響く。
「お」
 一筋の朝日が窓から射し込んで、不思議な形の椅子とテーブルを照らした。シュールな影が床に伸びてく。
 うん。なかなかにアートな雰囲気。
 床は松の木でできていて、色は黒みがかった茶色。
 セバスチャンは何日もかけて、この床を張ったと話していた。一日中腰を曲げて、材木を並べて釘を打ち、ワックスを塗り……。
 その話を聞けば、おのずと掃除をする手にも力が入る。
 が。
「あまり力を入れて掃かないでください。傷がつきます」
 冷ややかなセバスチャンの声が飛んでくる。
「……おいっ」
 せっかく掃除してやってるのに。それはないだろう。
 口を尖らせた僕の鼻先をいい香りがかすめた。
「あ」
 ノスタルジックな香り。
 バターとバニラが奏でる甘い甘いハーモニー。キャラメルやショコラの濃厚な香りに、フルーツをコトコトと煮る甘酸っぱい匂い。
 セバスチャンが厨房の奥から、ちょいちょいと僕を手招きする。
 紅茶色の瞳が楽しそうに笑っている。
 誘われるまま厨房に入ると、彼はぐいっと僕を引き寄せて、掬いとったチョコレートクリームを、口の中に押し込んだ。
「……んっ」
 チョコレートでコーティングされた甘い指が僕の唇の輪郭をなぞっていく──。
 ぶるり、とからだが震えて、セバスチャンの胸にしがみつけば、チョコの絡みついた指で口の中を執拗に愛撫する。歯列を撫で、上顎を何度も擦って……。
「キスして欲しい?」
 コクコクと頷くと、焦らすようにゆっくりと唇を近づけてくる。待ち切れずに首に腕を回せば、彼はくすくすと笑って──それからいきなり獣のように、激しく吐息を奪った。
「ンッ!」 僕の後ろ頭を押え、深く深く舌を潜り込ませる。
 くちゅくちゅと洩れるいやらしい音に、僕の頭は溶けたキャラメルみたいに熱くとろけそう。
 彼の指が背骨をゆるやかに辿りながら降りて、それからまた首筋までゆるゆるとのぼってくる。
 舌を絡め合いながら、何度もそれを繰り返されて、ぞくぞくと寒気に似た感覚が爪先から背筋を駆け上っていく。
「あ……っ」
 首を軽くのけぞらせた僕の耳元で、セバスチャンは低くささやいた。
「──続きは、また夜にでも」
「~~~~ッ」
 ニヤリと笑うと、僕のからだを乱暴に押しやって、彼はさっさと作業台に戻り、再び仕込みに集中した。
 もう僕のことなんて、完全に忘れたみたいに。
 まったく。
 僕の恋人は本当に意地が悪い。
 人のからだに火をつけておいて、これだ。
 長い足を蹴ろうとすれば、澄ました顔でひょいと避ける。
 ほんとに憎ったらしい奴!
 火照った頬に手の甲をあてて冷ましながら、するすると魔法のように出来上がっていくお菓子を見つめた。
 セバスチャンの形のよい指から生み出されるスイーツは本当に繊細で、色鮮やかで、美しい宝石みたい。つやつやと輝くザッハトルテ、苺の赤が眩しいフレジェ、キャラメル色に焦げ目をつけた林檎のパイ、旬のフルーツが山盛り乗ったタルト・オ・フレーズ、エトセトラ、エトセトラ。
 セバスチャンがふっと顔を上げた。
「学校はいいんですか? 遅刻しますよ」
 気がつけば、遅刻ぎりぎり。やばい。
「行ってくる!」
 鞄を掴み、カフェを飛び出した。

<中略>

***
「ん……」
 カフェの二階。
 床にはシャツや靴下や下着が、足跡のように点々と脱ぎ捨てられている。
 汗に濡れたシーツの上。
 裸のまま、僕たちは抱き合っていた。
 終わったあとの心地よい気怠さに身をまかせ、足を絡ませ、互いの背に腕を回して。
 ときどき、啄むようにキスをして。
 今日のセバスチャンはやさしい。
 髪を撫でられ、ゆるゆると子猫のように耳を弄ばれて、
くすぐったくて変な気分。
「セバスチャン……」
 名を呼べば、彼は黙ってキスで応えてくれる。
 額に落ちた僕の髪を撫で上げて、瞼にひとつ、頬にひとつ、唇にひとつ。
 僕はいきなり強く彼に抱きついた。
 セバスチャンが面食らったように目を見開く。
「なんです、急に」
「うん……」
「うん、じゃわかりませんよ」
「……怖かったんだ」
 呟くと、セバスチャンはけげんそうな顔をする。
「すごく、怖かった。お前がどこかに行ってしまいそうで」
 黙って厨房に立ち尽くすセバスチャンの姿。
 それは笑いながら部屋中のガラスを割っていた、壊れた僕の母の姿と重なっていた。
 あのとき感じた恐怖。
 あのままセバスチャンを放っておいたら、手の届かないところへ行ってしまう気がして。
 湖の畔の療養所で、いまも記憶を失い続けている母のように、僕を置き去りにして、自分だけの世界に閉じこもってしまう気がして。
 セバスチャンは困ったように眉をひそめた。
「私はどこにも行きませんよ。たとえ貴方に嫌がられてもね」
 長い指先で僕の顎をすくって、唇を重ねる。そのキスはとても温かくて、あまやかで、僕の心にすうっと溶けていく。
 首筋をそろり、と撫でられた。
「んっ…」
 熱を帯びた声が僕を誘う。
「もう一度……」
「え?」
 どぎまぎしながら視線を上げれば、セバスチャンの紅茶色の瞳が欲情している。紅く光る瞳が僕を見つめている。
「ちょ、待てっ、さっきしたばかり……!」
 唇をぬるりと舐められた。
「ひぁっ」
 変な声が喉の奥から洩れる。
 ぎしっとベッドが軋んで、セバスチャンがのしかかった。
「いいでしょう?」
 いやいやいや。全然よくない。
 いくらなんでもさっきしたばかりで、そんなにすぐにできないよ!
 なのに。
 欲望を孕んだ視線に射抜かれれば、頭の中はぼおっとして、くたりとからだの力は抜け落ちる。
「あっ……」
 首筋に舌を這わされた。首筋から鎖骨へ、鎖骨からまた首筋へと何度も舌が辿っていく。
「気持ちがいい?」
 ふいに耳元に甘い声を落とされて背筋がふるりと震えた。
 うなじにかかった髪を丁寧にかきわけられ、汗の滲んだ肌に優しく吸いつかれれば、もうそれだけで達してしまいそう。
「…んン」
 


◆恋のくじ引き

「一日だけです」
「だめだ、二週間」
「一日」
「二週間!」
 ぐぬぬと、睨み合うこと五秒。
 その五秒の間に、天から啓示が降りてきた。
「じゃあ、くじ引きで決めよう!」
「……いいでしょう」

 こうして『くじ引き』という世にも公正な方法で二週間開催となった、カフェ[鳩と黒スグリとコケモモ亭]初の期間限定メニュー「ヴィクトリアサンドイッチケーキ」。
 二枚のスポンジ生地にラズベリージャムを挟んでパウダーシュガーを振りかけただけ。クリームデコレーション一切なしという、ケーキというにはあまりにもそっけないこのお菓子が、なぜヴィクトリア女王の心を慰めたのか理解できないけれど、英国人の心を掴む懐かしいケーキを、期間限定で出すというのはよいアイデアだった。
 たった一日なんてとんでもない。
 二週間だって少ないくらい。
 商売チャンスには貪欲に喰らいつくセバスチャンなのに、どうして一日だけのつもりだったのか、まったく彼らしくないけれど、そこはそれ、僕という優秀な恋人が彼をフォローすればいいだけさ。

 その優秀な僕は来たるべき五月二十四日──女王の誕生日であり、イベント初日──のために、セバスチャンの目を盗み、図書館から借りてきたレシピ本で夜な夜なスペシャル美味しいジャムの作り方を調べては、脳内にメモしていた。
 そのケーキが供される二週間、僕は全力で彼を応援するつもりだったんだ。だってさ、普段だってセバスチャンのカフェは近隣のマダムたちで大にぎわい。特に復活してから始まったランチメニューは大人気で、毎日行列が出るぐらいなんだ。
 だからいつもの登校前のカフェ掃除や、下校してからの早変わりのウェイターだけじゃない。早朝、彼と同じ……いや、その一時間前に起きて、まずはジャムの仕込みをする。
 ラズベリー、もとい、ここはひとつパリ風にフランボワーズといこう(発音は苦手だ)、フランボワーズをたっぷりの砂糖でコトコト煮詰める。セバスチャンが起き出してくるときには、もうジャムはすっかり出来上がっていて、つやつやと輝き、とろけるような甘い匂いを放っている(はず)。
 彼は鍋の中をのぞいて驚き、「へえ」とか「なかなかやりますね」とか、若干意外そうに、そして若干悔しそうな顔を見せる(はず)。
 もちろんオトナな僕は決して自慢したりはしない。
 少々顎をあげて、「たいしたことはないよ」と余裕の笑みを浮かべるんだ。

 ……の、はずだった。
 うん。確かにそのはずだったんだ。
 しかし僕の緻密な計画は、ウィルスという太古から地球上にはびこる謎の病原体のおかげであえなく頓挫したのだった。
 つまり、その、夜更かしして、冷えて、うっかり、風邪をひいてしまったんだ。
「……ぶぇくしょんっ!」
「今頃、風邪をひくバカはいません」
 セバスチャンの冷たい言葉が身に沁みる。
 ええ、まったくもってその通りです。
 うららかな春が過ぎ、まもなく英国の一年でもっとも素晴らしい季節を迎えようとするときに、高熱を出し、鼻水だらだら、声はがらがら、まっすぐに立っていることもできないぐらいの風邪をひくのは、バカに決まってる。なんといわれても言い返せない。でもそれは……と口を開いてすぐにパタンと閉じた。 
 言えるわけがない。
 セバスチャンを喜ばそうと思ってこっそりジャムの研究をしていたなんて! 言えば、たちまちセバスチャンは眉間にしわを寄せ、恐ろしい般若のような顔つきで「余計なことをしないでください」と絶対零度の声を響かせるに決まってる。
 しかも、客商売に風邪なんて禁忌中の禁忌。
 僕はただちにセバスチャンに下へ降りるなと命じられた。
 もちろん厨房へ出入りするなんてもってのほか。
 厳重に布団でぐるぐる巻きにされ、まずいカモミールティーを飲めと強要され、額には冷却ジェル、首にはタオル……といういかにも病人な姿で、五月二十四日を迎えたのであった。

    中略

──大変だったんだ。
 新しいメニューを仕込んで、掃除して、開店準備して、オーダーを取って、作って出して、全部ひとりで……。
 初日ぐらい、手伝ってやれればよかった。
「あのさ、風邪、もう大丈夫だから、明日から手伝……」
「やめてください」
 ぴしゃりと言われた。厳しい物言いに、思わず僕は息を呑む。
「ただでさえ普段よりも忙しいのです。これ以上手間を増やされてはたまらない」
 セバスチャンは食べ終わった僕の食器を取り上げると、さっさと下に降りてしまった。
 鳩が鉢から顔を上げ、グルグルと喉を鳴らしながら、小首を傾げて僕を見ている。
「やめてください……だって」
 鳩に向かって呟いた。
 うん、そう、だよね。
 初めての期間限定メニューで、ひさしぶりのスイーツで、お客さんがいっぱい来て、普段よりも仕込みも接客も大変で、そんなときに病み上がりの子どもがフロアをウロウロしていたら……迷惑だよね。
 それは正しくて、当たり前のことなんだけど。
 風邪なんか引いた自分が悪いんだけど。
 でも、僕は。
 できれば、僕は。
 もっと──暖かい言葉をかけて欲しかったな。
 少し病み気味の僕の恋人に、そんなことを求めるのは、難しいのかもしれないけど。
 風邪ひきの年下の恋人には、もっと優しくしてくれても、いいんじゃないかな。
 ぐすっと鼻をすすった。
 もぞもぞとベッドに潜り込んで、両手でからだを抱いて、蓑虫みたいにからだを丸める。
 もう久しくやってなかった、僕が寂しいときにやるポーズ。
 でも前と違って、その魔法はちっとも僕を慰めてくれなかった。セバスチャンの肌のぬくもりを知ってしまった今では、ひとり蓑虫なんて、寂しさを増すだけなんだ。
「ちぇっ」
 セバスチャンは仕事が残っているのか、まだ上がってこない。
 食器を洗う音が遠い。
 鳩はまた餌をついばんでいる。

 静かで、寂しい夜──。

 ◆パリの鳩

 それじゃ、アタシの話をしよう。

 アタシはちゃきちゃきのパリっ子だ。先祖代々、この花の都で暮らす、根っからのパリの鳩さ。
 ああ、パリ。魅惑の都。
 世界中から山ほど観光客が訪れるヨーロッパ随一の大都市。
 世界に都市はたくさんあるって? 
 なにもパリだけじゃないって?
 いやいや。ロンドンもベルリンもブリュッセルも……どこもこの街には勝てないね。
 なんていったって、ここは『自由』発祥の地、『芸術』の源泉、そして『グルメ』という言葉が誕生した地なんだから。
 生きる喜び、愛する歓び──人生を謳歌できる街。
 それがパリだ!

 ある爽やかな日。
 アタシは根城にしているアパルトマンの向かいの部屋に、綺麗な女が入ってきたのに気づいた。
 漆黒の艶やかな髪、陶器のようになめらかで白い肌、瞳は濃い琥珀色、縁取るまつげは頰に陰を落とすほど長く……いやはや、なんて美しい女だろう! 
 やたらと背が高くて、男物のシャツなんか粋に着こなしててさ、モデルか女優か、その類の人間だろうと踏んだけれど、女にしては荷物が少ない。
 アタシは首を捻ったね。
 普通、女ってのは持ち物の多いものだろう? もっとも部屋はかなり狭かったから、たくさん持ってきても入りきらなかっただろうけど。
 だってそこは屋根裏部屋。昔でいうところの女中部屋なんだ。天井は屋根と平行、つまり斜めだ。斜めの天井に形ばかりの小さな窓。そこからはパリ市内が一望できる……といいたいが、残念なら見えるのは屋根、屋根、屋根。屋根が邪魔して景色なんざ全く見えない。せいぜいが遠くにコンコルド広場のオベリスクが霞んでいるぐらいだ。
 女がなにを好んでこんな部屋を選んだのか、アタシにはわからなかった。相当貧乏なんだな、とあたりをつけてみたけど、うーん、それにしては着てるものが上等だったから、アタシにとって女は謎になった。
 謎=ミステリアス。
 ミステリアスな女ってちょっとイイね。へへ。
 アタシが勝手に妄想して、鼻の下を伸ばしていると、女は窓際にコトンと木製の写真立てを置いた。身をかがめて写真に柔らかな笑みを落とすと、おもむろに窓を全開にして、こともあろうに、堂々と着替え始めたんだ。
 おっとっと、とアタシは慌てて翼で顔を隠した。ご婦人の着替えをのぞくなんて、鳩の風上にもおけねえ。そんなはしたない真似をしたら、ご先祖様に言い訳が立たない。
 けれどアタシも男。気にならないって言ったら嘘さ。
 羽の合間からこっそりと女の柔肌を覗こうとした……。
「ポ!」
 アタシはびっくりして、つい声が出ちまった。
 その声に気づいたんだろう。そいつはシャツをはだけたまま、驚いて窓の外を見た。
 その胸。
 その白い胸は真っ平らだった。さながらロシアの大平原のように。しかも腹筋はよく鍛えられて、さながらアルプス山脈のように割れている。
 けっ、男か。
 アタシは途端に興味を失った。
 綺麗な女だと期待していただけに、失望は大きかった。
「ポー…ポー……」
 アタシは力なく鳴いて、その失望を埋めるように、なにか食うものがないか、屋根の上を彷徨い始めたんだ。
 まあ、そうやって気分を変えようとしたわけさ。
 けれど通常、屋根の上に食べ物なんかない。あるのは埃と泥とお仲間のフンだけだ。
 それでも屋根の上をちょんちょんと跳ねていると、
「お腹が空いているのですか?」
 なんと! 男が話しかけてきた。
 それも大変上品なクィーンズイングリッシュで。
 アタシはびっくりして、また声を出しちゃった。
「ポ!」
「おや、声が変ですよ。お腹が空きすぎて、まともに鳴くこともできないのですか」
 男はクスリと笑った。
 うるさい。
 腹はたいして減ってない。
 お前さんにびっくりしたんだ。
 そういっても、人間には通じない。
 アタシは人語を解するけれど、人間は鳩が言葉を理解するなんて、思いもしないんだろう。
 男はスーツケースを開けて、可愛らしい黒猫の絵のついた小さな缶を取り出した。中からサブレをひとつ摘むと、半分に割って、かけらを窓の桟に置く。
 いい匂いがする……。
 上質なバターの香りだ。
 アタシは匂いにつられて、少しずつ窓に近づいた。
 けれど油断しちゃいけない。
 人間ってやつは見た目で判断できないんだ。アタシが近づいた途端、ばっと両手で捕まえて、あっという間に料理されちゃうかもしれないし(鳩はなかなかうまいと人間が言っていた)、意地悪なやつなら、桟に飛び乗った瞬間、思い切り窓を閉めて、アタシのからだは綺麗にまっぷたつ……なんてことも考えられる。
 心配過ぎだって?
 おいおい、パリの鳩が生き延びているのは、この用心深さのおかげなんだよ。世界中から集まってくる人間の中には、サイコな野郎だって混ざっているんだ。それもいかにも人の良さそうな顔をしてな。

 だからアタシは、イケメンのこの男が涼やかな笑みを浮かべていても、信用することはできなかったんだ。

 男は窓に近づく様子はなかった。
 桟の上にお菓子を置くと、一歩下がってアタシを見守っている。
 まあ、ちょっと行ってもいいか。
 ほんの少しだけ、腹が空いているしな。
 アタシは左右に歩いて、全然近寄る気なんてないよという様子を見せ──あと一歩というところで、短く飛んでさっとサブレを啄ばんだ。
 ぱくぱくと急いで口に入れる。
 甘い!
 香ばしい!
 うまい!
 アタシの全身の細胞が沸き立つ。
 こりゃ、うまいぞ!
 こんなうまい菓子、ここ数年、口にしたことがない!
 アタシは思わず、喜びの声をあげた。
「グルッポー!」
「おいしいですか? 私が作ったんですよ」
 男は誇らしげに胸を張ったが、アタシはそれどころじゃなかった。あんまりうまくて、我を忘れて食べてたからだ。
 すっかり食べてしまうと、男はにこりとして、また桟にクッキーを置いた。
 アタシは素早くそれを啄む。
 飲み込むと、男はすぐにまた置いてくれる。
 アタシが満腹になるまで、男はそれを繰り返した。
 
 それがアタシと男の出会いだったのさ。

 <中略>

***
 男は明るかった。
 職場で虐げられているだろうに、持ち前の陽気さでもって、毎日を乗り越えていた。朝、写真の誰かさんに語りかけ、それからアタシにお菓子の端切れをくれる。いまでは男は窓に小さな台を拵えて、そこに水鉢とお菓子のカケラを置くようになった。
 男が現れてから、アタシは食べ物の心配をしなくて済んで、大分助かったよ。

 或る日、朝食をとった後で写真立て(の背)を眺めていると、
「見ますか?」
 と男が写真をくるりとアタシのほうに向けてくれた。
「ポ!」
 そこにはまあ、なんていうか……ものすごく可愛い女の子が写っているじゃないか!
 まるまっこい頰を縁取る銀色の髪。ちょっと気の強そうな蒼と紫の瞳。ちっちゃな紅葉のような手に、ガトーショコラをしっかり握ってる。はにかんでいるのか、ほっぺたが赤く染まっているのが、またなんとも愛らしいんだ。
「グルッポー(お前さんの子どもかい?)」
 アタシが聞くと、男はあたかも鳩語がわかったかのように、
「私の従兄弟なんですよ。血はつながっていないんですがね。すごく可愛いでしょう?」
 やれやれ、また間違えちゃったよ!
 女の子だと思ったら、男の子か。
 まあどっちでもいいけどさ。
 アタシがまじまじと写真を眺めていると、
「この子のために私はパリに来たんですよ」
 男は静かに語り出した。
 なんでも、男の父親が新しい奥さんを迎えたときのパーティーで、出会ったそうなんだ。
「ガトーショコラをね、こっそりつまみ食いしていたんです。『おいしいですか?』と尋ねると、コクンと大きくうなずくので、つい『私が作ったんですよ』と自慢してしまったのです。すると、彼は大人のように顎に手を添え、しばらく考えてから『おまえはぼくのおやつがかりだ! まいにち、ぼくにおやつをつくれ! めいれいだ!』と叫んだんですよ」
 思い出してか、男は笑みをこぼしたけど、すぐに考え込むような顔になった。
「──……そのとき、音叉のような音が私の頭の中で、鳴ったのです。びぃんと響く不思議な音……。 オカルトなんて全く信じていないのですが、音が聴こえたことは事実なのですよ。そしてその奇妙な音が聴こえた瞬間、私はその子の虜になってしまったのです」
 いい年をした男がたった五歳の子どもに心奪われるなんて、おかしいですよねと、男は苦笑した。
「ですが、その命令は私を縛り、どうしてもその子のためにお菓子を作らなければ、という強迫観念に近い気持ちを私に植え付けたのです。それも普通のお菓子じゃない、ほっぺたが落ちるぐらいのおいしいものを。それで大学を卒業するとすぐ、家の反対を押し切って、お菓子の修行のためにこちらのパティスリーに入ったのです」
 男はそこで言葉を切って、寂しげにフッと笑った。
「この子と初めて会った時から、もう五年も経つんです。あれから一度も会っていない……。はたして私のことを覚えているんでしょうか。あの命令もいまでは忘れているかもしれませんね……」
 男は遠くを見るような目つきをした。
 アタシに気づくと、我に返ったように、
「おや、鳩を相手に私はなにを話しているんでしょう。なんだか、貴方が話を聞いているような気がして──。まったく、どうかしていますね」
 男は軽く頭を振って、アタシの水鉢に綺麗な水を入れてくれた。

<中略>   
  
***
 二年目になって、男はようやく厨房に入ることを許された。お菓子の下ごしらえをまかされるようになったと喜んでいたけれど──。
 指や手首、腕の内側にやけどの跡が頻繁に見られるようになった。どうやら熱く焼けたボウルやら、ヘラやらを肌に押し付けられてるらしい。
 わざとじゃない。厨房が忙しくて殺気立っているから、皆『ついうっかり』焼けた道具を差し出すのだ、と自分に言い聞かせていたけれど、アタシの見立てはそうじゃない。そうやって男に嫌がらせをして、辞めさせるつもりなのさ。
 「泣きたくなるほど痛いけれど、でもそんなこと、この子にはいえませんからね」
 声をひそめて、アタシに胸の内を打ち明けた。
 男は写真の子にはいつもいいことばかり、報告していたよ。
 卵を泡立てるのがうまくなったこと。
 チョコレートのテンパリングのコツを掴んだこと。
 パイ生地の特別な配合を習ったこと。
 けれどアタシは知っている。
 男は泡立てることなんて、絶対前から上手だったに違いないし、テンパリングも、特別な配合も、習ったわけじゃない。誰も教えてくれないから、兄弟子たちの手元を一生懸命見て学んだのさ。
 なのに写真に向かって、絶対そんなことを言わないんだ。
「修行はなかなか厳しいですが、まあ元気にやってますよ」
 と作り笑顔を見せる。
 本当は辛くて逃げ出したくて、しようがないくせに。
 アタシはそのとき思ったよ。
 愚痴はアタシに吐けばいい。それで心を楽にして、なんとかやり過ごせばいいと。

 けれど、状況はますます悪化していった。

<中略>

***
 三年目。
 男の顔つきはもう以前とはまるで違っていた。
 あの陽気でほがらかな男はどこにもいない。いるのは陰鬱でうつむきがちな痩せこけた男だ。男はいまじゃ、ほとんど眠れなくなった。厨房で殴られる恐怖、罵倒される恐怖が男を支配した。眠れば、奴らが夢に出て、うなされて飛び起きる。何度もそれを繰り返し、そしてあっという間に朝が来る。
しまいにゃ男はお菓子の甘い匂いを嗅ぐだけで、吐くようになっちまった。
「早く帰りたい……」
 蒼白な顔に油汗を浮かべ、作業台に手をついて、呻くように呟く。けれどすぐに首を横に振り、「私は絶対諦めませんよ」と強く唇を結ぶんだ。
 英国にいる想い人のために、男はなんとしてでも、パティシエになるつもりだった。

 そして、とうとうその日は来たんだ。

ーーーサンプルは以上です

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