カフェを始めた

シリーズ目次

パティシエセバスチャンとちょっぴりひねくれ坊ちゃんの恋物語です
※輝く月の夜にシリーズとは別のシリーズです

#1

 セバスチャンがカフェを始めた。
 直接聞いたわけじゃない。外出から戻った母が、浮き浮きとした様子で報告したのだ。
「え、カフェ?」
「そうよ。びっくりでしょう。ずっと引きこもっていたのに……」
 母は買い物かごを置き、遠くを見るような目をして呟いた。

 セバスチャンは一応、僕の親戚だ。
 一応、というのは、再婚を繰り返した叔母の現在の夫(一体、何人目の夫なんだろう)の連れ子……なので、直接には血のつながりはない。僕が五歳ぐらいのとき、会ったことがあるらしいけれど、僕の小さな脳はそれを記憶していなかった。十三歳離れているから、彼はその頃十八歳だったのだろう──いま思えば、随分と若い。
 そういう僕は、いま十三歳。
 少しばかり、集団が苦手で、少しばかり、孤独な感じ。
 なまじ頭が良いために、クラスメイトから疎んじられている。疎んじられていることがわかるだけに、こちらも距離を置く。また疎んじられる。また距離を置く。
 いわゆる、負のスパイラルだ。
 一度、このスパイラルに陥ると、抜け出すのは難しい。なにか強力なきっかけ──例えば、9回裏でまさかの逆転ホームランを打つ、とか──がなければ、カードはひっくり返らない。
 そして、僕は自分があまりパワーのない子どもだってことをわかっている。逆転ホームランを起こす努力をするぐらいなら、日陰で読書をするほうがいいのだ。
 ふん、消極的だと笑われたって構わない。それが、きっと僕なんだ。
 対して、親戚のセバスチャンは社交的で万事そつがなく、会えば常に明るい笑顔で人に接し、良い子よねえ、と昔から母はよく言っていた。
 そんな奴、いるわけない。きっとどこかが病んでいる、と僕は内心思っていたけれど、もちろん母には言わない。
 母に言ったところで、ぽかんとした顔をして、そうなの? と答えを聞く気もなく訊ねて、僕が答えようとすると、もう頭は違うことでいっぱいになっていて、机の上に置かれた乱雑な請求書を片付け始めたり、フォークを磨いたりし始めるのだ。
 閑話休題。
 とりあえず、母のことは横に置いておこう。
 さて、万事にそつのないセバスチャンという男が、もろくも崩れたのはカレッジを卒業した後のことだった。オックスフォード大学を出て、銀行にでも入るのかと期待されていたのに、彼はなにを思ったのか、突然フランスに渡り、某パティスリーにて、菓子づくりの修業を始めたのだ。
 母からその噂を聞き、無謀にもほどがある、と当時の僕は思った。彼二十二歳、僕九歳のときだ。英国の上流階級出身の人間が、パリのパティスリーの厨房でどんな目に合うかは、小学生にだって想像できる。
 年下の『先輩』たちからの陰湿ないじめ、長くきつい労働、苛烈な性格の親方の容赦ない叱責。優雅なソサエティで育った人間が受けとめるには辛過ぎる現場が待っている。
いくらそつのないセバスチャンといえども、現実は避けられなかった……らしい。嵐のように襲いかかってくるパワハラの連続攻撃に、とうとう音を上げ、心折れ、自我を失い、文字通り、心身共にボロボロになって、英国に帰ってきた──それが去年の話だ。
 だから、少なくとも三年は、パリでがんばったことになる。
 立派だ。
 三年の歳月を、厳しい肉体労働と罵声の中で堪えてきたなんて。僕にはとてもできない。
 そう、僕はとても繊細で──これはもちろん、悪い意味でだ──とても心折れやすい。
 だから、極力、折れそうな場所には行かない。敵前逃亡どころか、敵そのものを作らないように綿密に計画し、行動するタイプだ。おかげで、大したいじめにも合っていないし、自我は無事。まあ、ちょっと変わったもの静かな子、ということで世間に受け入れられ、僕は自分の居場所を確保している。
 セバスチャンは自分が選んだ無謀な挑戦に負けて、情けなく帰国したダメな奴というレッテルを貼られて、自分の居場所を失った。
 帰国して、しばらくの間、療養施設で静養し、それから実家に戻り、引きこもり同然の生活をしていた……らしい。だって、これもまた、母の噂話だから。大人たちは大事なところを無意識に省くから、子どもには本当のところはわからない。
 まあ、そんなわけで、傷ついた男は、突然、英国の田舎町でカフェを開くことになったのだ。

***
 カフェは、まだ始まっていなかった。
 僕の前にあるのは、改装途中の建物だ。まだ店になるかどうかもわからない。廃墟みたいな建物。
 うちの小さな庭で穫れた、たっぷりの黒スグリの実とコケモモを母から持たされて、僕は、その建物の前で、さっきからウロウロと行ったり来たりを繰り返していた。だいたい、いまの時代、黒スグリなんて、もらったって嬉しくない。コケモモだって、同様だ。童話の時代じゃないんだから。
 なのに母は「パティシエなんだから、そうねえ、ジャムにしたり、コンフィチュールにしたり? いいじゃない。ねえ?」と夢見るような瞳で言う。
 ジャムとコンフィチュールは、ほぼおんなじモノです、と母に教えてやりたかったが、あきらめた。母の脳は魔法のザルなのだ。彼女が聞きたくないことは、すべてザルの穴から漏れ出てしまう。言うだけ無駄、と僕は小さくため息を吐く。
 そのときだ。
 カチャリと、ペンキの塗っていないドアが開き、中から男が不機嫌そうに顔を出した。黒麻のシャツのボタンを上から三番目まではずし、はだけた衿の隙間から素肌がのぞいている。さらりと額に落ちる、黒い前髪。整った鼻梁。色素の薄い唇──記憶が心の奥底から浮かび上がった。
──セバスチャンだ。
「……どなたですか?」
 うーん、これは少々厄介な展開になりそうだと、僕の優秀な脳は素早く判断する。
 まず、自己紹介。僕が誰の子どもで、セバスチャンとどういう間柄で、それから今日、なぜここに来たか……それらを迅速かつわかりやすく説明し、滞りなく、中に入れてもらう。
 想像するだけで挫けそうになったが、やむを得ない。僕はその通りに行動した。
 セバスチャンはうろんな顔で、一方的に喋りまくる僕を見つめていたが、やがて諦めたように目を伏せ、どうぞ、と呟いて、ドアを大きく開いた。
 薄暗い──。
 まだ昼だよね、と僕は一瞬、外を振り返って確認する。初夏の日差しは明るくて、緑の葉に反射して、きらきらと眩いぐらいの光を放っている。
 けれど、室内は暗く、淀み──まるでセバスチャンの心をそのまま映しているかのように──、冷えきっていた。
「すみません、まだ電気もガスも通っていないので……」
 言葉の上では謝っているけれど、こんなときに来るほうが悪いのだといわんばかりの声音。
 僕は引いた。
「いえ。母に頼まれただけなので。もう、帰ります」
 と、果物籠を床に置いて、踵を返した。
「待ってください」
 まさか、呼び止められるとは思っていなかったので、僕は動揺し、そのへんに散らばっていた電気のコードに足を取られて、ひっくり返った。
 セバスチャンが駆け寄って来たのまでは、覚えている。そのあと、視界がすーっと暗くなって、僕は気持ちよく意識を手放していた。

 グルッポー、グルッポーと鳩が鳴いている。
 鳩って、確か食べると美味いんだったよな。狩猟好きな叔父がよく話していたっけ。
 なぜそんなことをいま思っているんだろう。
 急に意識がクリアになって、僕はぱちっと目を開けた。
 剥き出しの天井が見える。手製のダクトみたいのが、ミミズみたいにのたくっている。
 起き上がろうとして、視界がぐるぐると回って、またよろよろと僕は横になった。
「まだ動かないで」
 心地よい声。視線だけ横に向けると、セバスチャンがじっと僕を見ていた。
「覚えていますか?」
「え?」
 なにを?
 なにを一体覚えているというのだろう。
 セバスチャンのなにを。
 僕が知っていることなんてほんの僅かなのに。
 僕は真剣に考えたけれど、次のセバスチャンの言葉を聞いて、勘違いしていることに気づいた。
「……貴方はコードに絡まって倒れて、それで脳震盪を起こしたようです。具合が悪ければ、救急車を呼びますが、どうします?」
 言われて、僕は頭に手をやった。
 うん、トリプルアイスクリームみたいなたんこぶができている。
 別に吐き気もないし、いまちょっと目眩がするぐらいだ。
 セバスチャンにそう言うと、相変わらず、素っ気ない口調で、なら呼びませんと言った。勝手に来て、勝手にころんで、迷惑な子どもだと思っているんだろう。早々に退散したいと思ったけれど、僕のからだは、あいにくまだ動かない。
「なにか飲みますか。ペットボトルの水ぐらいしかありませんけれど」
 セバスチャンは脇のボトルを掴むと、キャップをはずし、僕の背中に腕を入れてそっと起こし、ボトルを口元に持ってきてくれた。
 背に広がる大人の男の手の温もりに、僕は少しどきりとする。おずおずとからだを預け、生温い水をごくんと飲む。わりと美味しくて、僕はボトルを傾けられるままに、ごくごくと飲み続けた。
 ようやくひと心地ついて、ふうと息を吐く。
 セバスチャンは僕をまた床に横たえると、持ってきた籠の中身を覗いた。
「あ……それ、母が持って行けって」
 なんか言い訳みたいだ。自分で自分が情けなくなる。
「黒スグリとコケモモ、ですか。これをどうしろと?」
「ええと、母が言うには、貴方への差し入れだそうで、なんかジャムとかにして食べてね、みたいな……」
 唐突に、乾いた声でセバスチャンが笑った。籠を乱暴に押しやって、怒ったように僕を見る。
「──ジャムなんて、もう二度と作りません」
 作り方さえ忘れました、と呟いて、立上がった。
 僕から少し離れたところで、材木を取り上げ、メジャーを使って、鉛筆で印を付け始める。
 セバスチャンは次第にその作業に没頭し、僕がいることなんて忘れたようだった。
 三十分ぐらい経っただろうか。
 ようやく目眩がおさまった僕は、ゆっくりと立ち上がり、果物籠を拾い上げた。籠が軽くて、中を見ると、半分ぐらいに減っている。セバスチャンが押しやったときに、こぼれたのだろう。床にこぼれている丸い塊が、いくつかぼんやりと見えたけど、拾い上げる元気はなかった。セバスチャンに向かって、
「じゃあ、僕、失礼します」
 と声をかけ、そんな挨拶など全く聞こえないように、俯いて作業し続けているセバスチャンに、ほんの少しだけ失望し、外に出た。
──まぶしい。まぶしすぎるぐらいだ。
 外と中の光の量の差に愕然とする。
 セバスチャンも外に出て、日差しを浴びればいいのに。そうしたら、少しは明るい表情になるだろうに。
 だいたいあんな薄暗いところにずっといるから、あんなに暗い性格になるのだ。
 人間の性格なんてそれぐらい単純なものだ。外にいれば元気になるのさ。
 負け惜しみみたいに独り言を言って、僕はセバスチャンの未完成の店を後にする。

 鳩がまた、グルッポーと鳴いた気がした。 

to be continued…